「アメトーーク」は「何か褒めている回」はつまらなくて「何かをバカにしている回」がおもしろい。


高橋維新[弁護士]

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テレビ朝日「アメトーーク」は、回によって当たり外れが激しいという評判をよく聞く。

筆者が毎週「アメトーーク」を見るようになったのは2014年の年末スペシャルからだが、おおむね、当たり外れが激しい原因はつかめた。

まず、おもしろい回は、「何かをバカにする回」の場合である。ある芸人をバカにする回の場合もあるし、トークゲストが自虐的に自分の足りないところを話す回もある。

前者は、出川哲郎と狩野英孝であったり、ダチョウ倶楽部であったり、スピードワゴン・小沢一敬であったり、運動神経の悪い芸人であったりする。後者はといえば、「中学イケてない芸人」とか「人見知り芸人」とか、その類であろう。大抵の場合、やり玉に挙げられるのが芸人であるという点は共通している。

対しておもしろくない回は、「何かを褒めざるを得ない回」である。

例えば、「食シリーズ」や、何らかの表現作品をテーマにした回に顕著である。食シリーズにおいては、明太子だったり、油揚げだったり、生姜だったり、何らかの食材をテーマにしてトークを繰り広げるのであるが、基本的にその食材が「美味しい」「すごい」という形で番組が進んでいく。そのため、褒めるばかりでおもしろくなりようがない。完全にその食材の宣伝にしかならないので、バラエティ番組に告知ゲストが出てきたときと同じ腐臭が漂う。

「何らかの表現作品をテーマにした回」というのは、「ドラクエ芸人」とか「ストⅡ芸人」とかであるが、これもやっぱりテーマになった表現作品を褒める形で番組が進んでいくので、おもしろくなりようがない。たまにその表現作品をバカにしたり、ちょっとおかしいところを指摘したりすることで部分的に笑いが生じるが、全体的には褒め殺しになるため、見ている方もどういう反応をすればいいかがよく分からない。

何かを褒めることで笑いがとれる場合もあるが、それは結局、褒めすぎで誰が聞いても皮肉や嫌味だと分かる場合か、そんな褒めるほどでもないものを褒め(すぎ)ていること自体がおかしい場合である。いずれも、結局何かをバカにしていることがおもしろいのである。前者は皮肉や嫌味で褒められる方をバカにしているし、後者は(多数派から見れば)どうでもいいものにこだわる褒め手をバカにしている。

ここまでで分かると思うが、「笑い」というのは、本質的に何かをバカにしないと生まれ得ないものである。

笑いを生むボケというのは、「通常の状態」からのズレ(乖離)である。

男なのに女の恰好をしているとか、ハーフなのにルックスが大したことないとか、ヤクザのくせに気が優しいとか、そういうことである。そのズレから生じるのが「笑い」である。

「誰も傷つかない笑い」などという言説をたまに聞くが、そんなものは本当は存在しない。もちろん、笑われる側が笑われることを許容している(典型例は、自分のおかしなところを自ら笑われにいく「自虐ネタ」)のであれば、誰も傷ついていないのかもしれないが、「笑われる方は笑われることを許容しているだろう」という評価は、笑う側の傲慢に過ぎないのではないかという自問自答が常に必要である。「そんなことはない」という反駁をする者がいたとすれば、その人は、想像力が足りない。

笑われる側は、笑う側が笑うから、自ら笑われに行くことを余儀なくされている可能性が多分に存在する。小中学校時代にひどいいじめを受けていたという森三中の大島美幸も、いじめっ子から笑われているのではなくて「自分が彼らを笑わせているんだ」と思うことで随分楽になったということをテレビで喋っていた。それは、果たして本当に笑われることを許容していると言えるのだろうか。

「笑い」というものは、常に笑われる側を多数派の集団から排斥する作用を持っている。筆者はこれを、「笑いの排斥力」と呼んでいる。

ただ,筆者も「笑い」に生きる者なので、「だから笑いは禁止されるべきだ」と言いたいわけではない。

あたかも「笑いに許される笑い」と「許されない笑い」があるなどと考えて、「後者」を訳知り顔で批判する人たちが許せないだけである。ここまで述べた通り、両者に本質的な違いはないのである。

そして「笑い」には、もう一つの作用がある。「笑い」は笑う人を元気にする。そして、「笑い」は周りで笑っている人が多ければ多いほど生じやすい。筆者はこれを、「笑いの連鎖力」と呼んでいる。

ここまで考えて筆者は一つの仮説を立てた。「笑い」は、まず排斥力によって多数派からズレているものを排斥する。そして、多数派における笑いは連鎖力によってどんどん大きくなっていく。すなわち、笑いというのは、ある一定の特徴を共有した人間の集団において、その集団の連帯を高めるための作用ではないのだろうか。

白人の集団がアメリカ大陸に渡ってくる。現地にはネイティヴアメリカンがいる。白人たちはネイティヴアメリカンの未開の風俗をバカにして笑い、彼らを自身の集団から排斥する。一方で、連鎖力によって白人の間には、ネイティヴアメリカンを笑うという経験が共有され、その連帯が高まっていく。その結果、フロンティアの開拓も進んでいく。

そんな話である。

だからといって笑いのこの作用を重視しすぎると、白人の集団は自分たちと違う種類の人間たちを常に笑いによって排斥し、自分たちだけで凝り固まってしまう。そういう状態に陥った集団には新陳代謝が生じなくなり、やがて組織として壊死してしまう。人種のサラダボウル・アメリカは、ネイティブアメリカンも含めて多種多様な人種を共同体に取り込んだからこそ、ヘゲモニーを実現したのではないか。

 

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高橋維新(たかはし・いしん)弁護士、コラム二スト。1987年、東京生まれ。2006年、東京大学法学部入学。2010年より「マヒ郎」のペンネームでファミ通町内会へ「ハガキ職人」として投稿を始める。現役ハガキ職人を続けながら、2012年に司法試験合格。2013年、弁護士登録(函館弁護士会)。ファミ通町内会長(第5代)。