<賛成・反対の議論を続けながら推進する原発>「原発推進」と「脱原発」の議論はなぜ極論でしか意見を戦わせないのか?


小鷹昌明[南相馬市立総合病院・神経内科専門医/医学博士]

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原発を再稼働させるとか、させないとかという議論に対して、福島県民のひとりである筆者は、非常に冷めた目で見ている。

まずもって言えることは、「原発推進」、「脱原発」という議論をされている方たちというのは、本当に極論でしか意見を戦わせていないということである。「賛成」か「反対」かのどちらかにいなくては論戦の舞台に立てない。

反対派は「コストと危険性」を強調し、推進派は「電力需要とクリーンエネルギー」を強調する。両者に一長一短があるのは当然のことで、いまさらどちらが正しいという意見を投げかけても意味はない。

結局認知されないままに、こういうものは誘導され、決定されていくのだろうから、庶民が声を上げたところで疲れるだけである。筆者が放射線について語りたくない理由は、そういう余計な議論で疲弊したくないからである。

だからといって、「私はどちらの立場でもない」とか、「段階的に減らしていけばいい」とかいう曖昧な意見も、どっち付かずの日本人特有の考えで、議論から逃げているように思う。

だから筆者は伝えたい。

「とにかくまずは原発を、大熊町・双葉町を見に来てください」

と。事故後の惨状を徹底的に考察したうえで、「賛成だ」とか「反対だ」とかを判断するなら、それはもう個人の価値観や立場の問題であり、言い方に軽さはあるかもしれないが、エンターテインメントである「ホラー映画が好きか嫌いか」を論ずる次元と同じで、原発についてはじめて主張する権利を取得するのではないか。

チェルノブイリや福島第一原発事故を経験して、その後の人々の行動として明らかにされたことは、たったひとつである。

「汚染エリアがどれほど危険であろうが住む人はいるし、また、どれほど安全が確保されたとしても住まない人はいる」

ということである。あくまでも個人の判断で。

「のど元過ぎれば」ではないが、

「低廉で安定した電力供給は日本経済の生命線であり、責任あるエネルギー政策を進めたい」

という理由で、震災からわずか4年のうちに、再び原発推進に傾こうとしている。原子力規制委員会によって新規制基準に適合すると認められた原発は、その科学的・技術的な判断が尊重され、再稼働される。

つまり、「原発は危険→原発に変わる電力がない→旧型原発稼働→事故→原発は危険」という無限ループの中で、日本という国はやっていくしかないのである。少しずつ国土を減らしながら。

先日、原子力損害賠償を主に担当している弁護士との意見交換会に参加した。

「国策民営化によって推し進められてきた原子力発電所にはさまざまな利権が絡んでいて、いまの原賠法では・・・」

とか、

「払いきれない賠償の財源確保のために、電力会社は料金を上げるだろう」

というようなことを、いまさら論ずるつもりはない。

原発事故に遭遇した人たちの権利を尊び、生活再建のために身をすり減らしながら奮闘を続ける弁護士たちの職責には敬服する。一定期間かもしれないが、

「依頼者に伴走することでお役に立ちたい」

とする彼らの慈愛精神には、感動すら覚える。

その一方で、弁護士の中にも、医療者とはまた違った違和感が存在することを打ち明けてくれた。それは、

「私たちのしていることは、被災者を必ずしも幸せにはしていない」

ということであった。原子力事故によって損害を被った企業や、家を失った人たちの再出発を促すために彼らのすべき主要な役割は、損害賠償を獲得することである。

私たちが「病気を治す」ということが最終的なアウトプットだとしたら、弁護士にとってのそれは、「最大請求可能額を引き出す」ということだろう。

弁護士のモチベーションは、

「一発の事故がどれだけの損害を生じさせるのかということを世に知らしめたい」

「権利というよりも、傷つけられた依頼者の自尊心に寄り添いたい」

「泣き寝入りはさせない」

ということであった。もう既に、賠償金だけで5兆円、除染で2兆円が使われている。原子力災害の埋め合わせは青天井に続く。

弁護士は説く。

「金銭における和解は再出発のスタートでしかない。失われた土地や家や家族が、それで戻ってくるわけではない。お金は必要だが、お金だけでは、けっして幸せにはなれない。逆にお金以外に何をしたら、被災者は救われるのだろうか? 私たちには、その術がわからない」

「お金以外の何か」という言葉に、いまさらながら原発事故の、けっして解消されない深い深い傷を感じさせた。賠償金の獲得はリセットのきっかけにしかなり得ず、一定の区切りを得るための手段に過ぎないのだ。

福島にとって大切なことは、原発事故を風化させないということである。ただ、注意しなければならないことは、議論を過熱させればさせるほど、推進派も反対派も「事故処理が長引けばいい」と熱望するようになりはしないかということである。ここが危険なのだ。

原発の賠償問題が長引けば長引くほど、被災は現在も進行しているという論調になる。原発のことを語っている間は福島のことを伝えられるし、そうした問題を議論していた方が惨状を訴えやすく、注目も集まる。

反対派は、原発が危険だという根拠として、問題が片付かないということを実況していけるし、推進派も、長くかかる廃炉に対する安全性を、アンダーコントロールというようなことを言って証明していける。いずれにせよ、解決されない長い定常状態を切望するようになる。

「いったい小鷹は、原発に賛成なのか反対なのか?」

という質問に対しては、もう既にご理解いただけたと思うが、

「賛成とか反対とかを議論し続けることによって原発は推進されていく」

ということである。きちんと論じ合っているという装いのなかで。

本来であれば、震災直後から議論の余地なく当然のこととして、二度と再稼働するべきではないのだ。

 

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小鷹昌明

小鷹昌明(おだか・まさあき)南相馬市立総合病院・神経内科専門(指導)医/医学博士/エッセイスト。1967年埼玉県に生まれ、1993年獨協医科大学医学部を卒業。同大学病院神経内科にて19年間勤務の後、2012年に退職。現在、南相馬市立総合病院に勤務。「いま、医療者は何を考え、どうするべきか!」を信条として、“原発に一番近い病院”から医療状況を伝え、市民活動を展開している。趣味は“相馬野馬追”出陣のための乗馬著書は、『ドクター小鷹 どうして南相馬に行ったんですか?』(香山リカとの共著)(七つ森書館)、『医者になってどうする!』、『医者が大学を辞めるとき』、『原発に一番近い病院から』(以上、中外医学社)など。