<市原悦子の不適切発言?>NHKの文脈をふまえない「放送禁止用語」認識こそ「卑猥」


藤本貴之[東洋大学 准教授・博士(学術)/メディア学者]

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女優の市原悦子氏がNHKのトーク番組で、障害者を意味する「かたわ」、外国人を意味する「毛唐」を発言し、それに対して司会の有働由美子アナが謝罪したことが物議をかもしている。

番組は、5月22日に放送されたNHK総合の情報番組「あさイチ」。話題になっている部分は、市原氏が長く「まんが日本昔ばなし」(TBS)で声優を務めた経験を語り、その中の「一番すきな作品は『やまんば』」という話題で起こった。

その全文を引用する。

市原悦子「世の中からズレた、ハズれた、落ち込んだ人が山に行って。例えば『かたわ』になった人とかね。それから『人減らし』で、長男は良いけど『次男は捨てる』とかね。外国から来た『毛唐』がバケモノだ、とかね。そういう人が山で住んでいて、髭ぼうぼうになって、疎外された人たちが『やまんば』の原点だと勝手に解釈するんです、私。そうすると、彼らは大変な反骨精神と憎しみがありますよね。だから人に対する攻撃がすごいですね。そのかわり心の通じた人とはこよなく手をつなぐ。その極端が好き。」

以上である。

現在、「かたわ」あるいは「毛唐」は差別用語であるとされ、公の場での利用は事実上、制限されている。何をもって差別用語であるか?  妥当性はどうか? とった議論はさておき、利用が自粛すべきとされる放送禁止用語(自主規制)に該当する言葉であるようだ。

「かたわ」(片輪・片端)とは、その字からもわかるように、2つあるうちの一方が欠損している状態から、「障害(者)」を意味することばとして利用されてきた。

片方の欠損というマイナス印象の言葉であるからこそ、差別的と取られていることは理解できる。それを障害者を表現する言葉として利用することにマイナス性、すなわち差別性があるという解釈なのだろう。

しかし、ある2つ以上ある事物の「一方が有る/長い」状態をプラスと解釈し、「一方が無い/短い」状態をマイナスと解釈することは実に無意味で、合理性がない。

ようは「ある/ない」「長い/短い」という表現の違いであり、それが意味することは同じである。「片方がない人は、片方がある人」だし「片方が短い人は、片方が長い人」なのだ。そう考えれば、マイナスではなくプラスと表現すれば利用できるのか? という疑問も起きる。つまり、「かたわ」とは「片方が立派に存在している状態である」という解釈だ。詭弁だろうか。

「毛唐」(けとう)とは、古くから日本に来航する外国人を「唐人」(からじん・とうじん」と呼んできたことに由来する。外国人(唐人)が、日本人に比べて濃い体毛を持つことから、「毛」がつけられた呼称であろう。彼らが日本に伝え、それを語源とする食材は「唐辛子」「とうもろこし」(唐黍)など数多い。

こちらも「かたわ」と同様だ。毛むくじゃらの外人という外見だけで判断した表記が差別的であるするれば、「白人」や「黒人」はどうなのか? 肌の色が白いことや黒いことを嫌悪している「白人」や「黒人」だっているだろう。

筆者の海外の知人(ブロンドヘアの白人)は、白肌ブロンドを嫌悪し、日本人の黒髪に憧れて、必死に髪を黒く染め、褐色のファンデーションのメイクを好む。その彼女に対して「ブロンドの白人」は侮辱的な表現になるはずだ。

他にも外国人の形容として、欧米人特有の高い鼻をもってして「天狗」などと表現されたことがあるが、なぜか「天狗」は差別発言・放送禁止用語にはなっていない。

言葉が持つ差別性とは、必ずしも「言語それ自体」にはない。同じ言葉でも、使い方や使う場面、あるいはそれを発する側の意図や状況から、差別表現や侮蔑にもなれば、まったくそうはならない。むしろ、状況を理解する上で、適した表現になる場合も多い。

さて、そういった観点から、今回の市原発言を見てみたい。

当時(日本昔話の頃)の状況を的確に伝えるための表現として「かたわ」あるいは「毛唐」が利用されている。昔の人々がもっていた「異質」な対象への偏狭な差別意識や偏見に対する、「かたわ(障害者)」「毛唐(外国人)」の当事者たちが持つルサンチマン(憤り・怨恨)が、「やまんば」として得意な存在、キャラクター(あるいはその話)を作り出してきた、という話である。

そういった彼ら・彼女らのルサンチマンがある一方で、心を許した相手に対する深い愛情をもっていたアンビバレンスな魅力。それを伝えるために、それを意図して市原悦子氏が、当時の言葉として「かたわ」「毛唐」を使ったということは、誰だって理解できる。何よりも、市原氏が「一番好きな話」のことを語っているのだ。

むしろ、これを差別・偏見というなら、そう感じる人は、「女子高生のセーラー服」や「看護婦のナース服」や「ミニスカート」を見た瞬間に、「卑猥なコト」を連想する人と同じだ。「セーラー服やナース服は男性の性欲を刺激する」という偏見を持つ人こそ、常にそう思っている人なのだろう。

当たり前の服装や存在を、やましい心と目で見る方が卑猥なのだ。常識的な感覚でそれが使われている状況を理解できる人であれば、そんなものを見ただけでは卑猥だとも差別とも思わない。

もちろん、内規・自主規制として定めてある言葉を使ったことへの「自省・反省」からの謝罪であるならばまだ理解はできる。「共演NG」「スポンサーNG」のような暗黙のルールはメディアである以上、持っていてしかるべきであるからだ。

しかし、理解できないのは、有働由美子アナが、

「体の不自由な方や外国人の方々を傷つける言い方でした。深くお詫びいたします」

という謝罪をしたことである。市原悦子氏の発言の文脈上、どこに「体の不自由な方や外国人の方々を傷つける言い方」があったのか。もしあったとすれば、それを説明する必要があるのではないか。「そう決まっているんです」というだけで納得できる人はいない。

むしろ、「オタク」やら「引きこもり」といった現代的なトピックをNHKが取り上げる番組は多いが、そこで紹介され、描かれる「オタク」や「引きこもり」はステレオタイプなまでに差別的(侮辱的)であることは少なくない。

NHKが定める自主規制の放送禁止用語の妥当性や是非はここでは議論はしない。しかし、それをさておいても、その謝り方や姿勢は、どう考えても常識的な理解の範疇を超えていると思えてならない。

 

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藤本貴之(ふじもと・たかゆき) 東洋大学総合情報学部・准教授(情報デザイン論・メディア構造論)/北陸先端科学技術大学院大学・教育連携客員准教授/藤本情報デザイン事務所・執行役員/JAGDA正会員/最先端のメディア研究・メディア技術の知見から、アカデミズムの枠を超え、企業や自治体などを対象としたメディア設計や情報発信戦略など、数々の実践的なプロジェクトを手がけている。主な著書に『情報デザインの想像力』『脳にアイデアを思いつかせる技術(講談社)』『映像メディアのプロになる!(河出書房新社)』など、多数。