<お色気と破壊のない「バカ殿」>志村けんのコントを見て誰が笑うのか?
高橋維新[弁護士]
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2015年1月13日に放映されたフジテレビ「志村けんのバカ殿様」(以下、「バカ殿」)を、見た。
「バカ殿」の源流は、言うまでもなく「ドリフ大爆笑」(フジテレビ)である。
ドリフターズをスターダムに押し上げたのは言わずと知れた「8時だョ!全員集合」(以下、「全員集合」)であるが、これはTBSの番組である。スターになったドリフをフジが迎え入れて始まったコント番組が「ドリフ大爆笑」であって、こちらも20年以上続いたオバケ番組である。
「ドリフ大爆笑」の放映中に、フジで志村一人をメインに据えた「志村けんのだいじょうぶだぁ」(以下、「だいじょうぶだぁ」)が始まった。こちらは現在も不定期に特番として放映されている。バカ殿も、現在の「だいじょうぶだぁ」と同じく、不定期で放映される志村が主役のコント番組であり、出演者(クワマンこと桑野信義やダチョウ倶楽部、そしてかつては田代まさし)や登場するコントキャラクターは大体のところで共通している。
とはいえ、「バカ殿」に出てくる白塗りの殿さまというキャラクターは、元は「全員集合」にも登場していた。「ドリフ大爆笑」にもこのキャラクターは登場しており、そのコントキャラクターがそのまま一つの番組として独立した恰好になる。
歴史の話をしたことには、ちゃんと意味がある。
以前、メディアゴンの別稿(「コント番組」を名乗らずにコントをする「許されるかもしれないギリギリのヤラセ」というフォーマット)でも書いたが、志村けんがメインを張る番組は、現在では貴重な「コントという名目でコントをやる番組」である。そして、志村(及びドリフ)のコントの特徴は大まかにいうと2つである。今も昔も2つである。第一がお色気であり、第二が破壊である。
第一のお色気というのは、読んで字の通りである。バカ殿といえば、ついこの間までゴールデンに普通に乳を出している番組として有名であった。最近は流石にそこまではやらなくなったが、「変なおじさん」というコントキャラクターや、バカ殿を囲む腰元の存在などに、今でも名残りを見ることができる。
つまり、若くて着飾った女に囲まれた中でバカをやるというキャバクラのような「低俗」な娯楽性が志村のコントの特徴なのである。キャバクラで分かりにくければ、それこそ大奥や後宮で女官女御を追いかけ回す殿さまを想像してもらえばよい。
視聴者がその殿さまのような楽しみを追体験できるのが、志村の番組だったのである。この特徴は、番組に「ファニー」が足りなくても(=おもしろくなくても)、別の方向性からエンターテインメント性を持たせることができるという強みになる。
第二の「破壊」というのは、うまい言葉を思いついていないが、パイ投げ、水、お湯、氷、ガス、倒れてくるセットといったような、いわゆる「リアクション」が求められる一連の仕掛けのことを全てひっくるめてこう呼称している。
志村の、そしてドリフの笑いはほとんどこのワンパターンに収束されていると言ってよい。これは、「全員集合」の時代からずっと底流にある特徴である。この「破壊」がメインに据えられていために、基本的には演者を痛い目・辛い目に遭わせてオトすというワンパターンに陥っており、かけるのが水なのかお湯なのか生クリームなのかといったような違いしか見受けられない。言葉でオトすことを、しないのである。
すなわち、志村やドリフのコントは、リアクションを楽しむものでしかなく、話芸によるおもしろさはそれこそ残像程度にしか出てこないのである。それは、おそらくドリフのメンバーが全員話芸が得意なタイプではなかったことにも起因するものなのだろう。
この二つの特徴を踏まえるとどうなるか。
第二の特徴である「破壊」は最早有象無象のバラエティでも盛んに行われており、ドリフや志村の番組でやっていたようなものより遙かに工夫を凝らしたギミックが色々と登場している。志村の番組でやっていることは既に遺跡のような古臭さに支配されており、わざわざ見る価値のあるものではない。
そもそもこういったリアクション芸は過激化する傾向にあり、若くて体力のある演者に向いているものである。還暦をとうに過ぎた志村が受け止められる過激さには限界があり、他の、より過激なバラエティに勝てるわけがない。
第一のお色気に関しては、そもそも真面目に笑いを追究している人からは敬遠されるものであるし、昨今のテレビに対する風当たりの強さから「バカ殿」においても「だいじょうぶだぁ」においてもどんどんそのパワーは後退しているため、強みとしては失われている。
つまり、志村の番組は、最早わざわざ見る意味がなくなっているのである。
今回、2015年1月13日に放映された「バカ殿」も、乳は当然出てこないし、破壊を盛り込んだコントもわずかである。マジシャンや西内まりやとバカ殿とのただのトークにあんなに時間を割く必要はあったのだろうか。志村のトークが見たければ、トーク番組でやればよい(とはいえ、志村自身バカ殿みたいな恰好をしていないとうまくしゃべれない人間のようなのだが)。唯一見ていられたのは、芸者のかっこうをした柄本明と志村が掛け合いを行うコントである。ここには、一定の話芸があった。
このような状態になっている志村のコント番組を、僅かなりとも見る意味があるよすれば、志村のコントにおける「お約束」のパターンに触れて、安心感を得られるということか。吉本新喜劇と、同じ楽しみ方である。志村の老いに伴ってその「お約束」すらどんどんキレが失われているのだが。
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