<担当作家として振り返る>「さんまのスーパーからくりテレビ」終了と番組22年の軌跡
高橋秀樹[放送作家]
1992年4月に始まったTBS『さんまのスパーからくりテレビ』が、2014年9月で終了する。放送作家として22年担当してきた。終了がわかった時の経緯はまだホットすぎて書けない。幸福な終わり方ではないのは確かである。
紆余曲折があった。
最初は視聴者からクイズ仕立てにしたビデオを募って、それをクイズにする番組だったが、想像はしていたが、もくろみ通りにはそんなビデオは来なかった。
たまたま面白いビデオが撮れてしまうのは、下手な鉄砲も数撃てば当たるわけで、素人にもありうることだが、クイズにまで仕立てるのはプロでないとできないことを私たちスタッフは思い知った。
視聴率は低迷し『からぶりテレビ』と揶揄された。
視聴率が上がり始めたのはアメリカABCの番組『America’s Funniest Home Videos』から、アメリカ版のホームビデオの供給を受けるようになってきてからだ。
アメリカ人のとるビデオは数が多いうえに、中には、明らかにやらせで撮ったビデオや、こんなに食べこぼしを放っておくのは子供の虐待ではないかと思えるビデオもあったが、そういうものは丁寧に排除して、放送した。そうこうするうちに日本国内からの応募ビデオも質が上がってきた。
視聴率は安定し、1時間番組に枠大した。
日本テレビが真裏で『投稿!特ホウ王国』という番組を放送するとのうわさが聞こえてきた。聞けば、視聴者の投稿をもとに仰天スクープと題された、誰も見たことのない映像を探して取り上げる番組だという。
「投稿をもとに」は、言い訳であってほとんどはスタッフやリサーチャーが見つけてくるネタであることは、少々番組経験があるものならわかることだ。しかし、視聴率はとるだろう。『からくりテレビ』は、苦戦するに違いないと覚悟した。逆転されるかもしれない。刺激的なネタを並べるはずだからだ。
案の定、刺激比べでは完全に負けた。『投稿!特ホウ王国』は日本一視聴率のいい番組の座に就いた。でも、あまり心配はしなかった。
ここで踏ん張れば、ブレさえしなければ向こうが腰砕けになるはずだ。その通りになった。『投稿!特ホウ王国』はエスカレートが、エスカレートを呼び、刺激には刺激を重ね、踏み出してはならない禁断の演出に乗り出した。編集所のスタッフから嘆きの声を聴いた。『投稿!特ホウ王国』は3年で打ち切られた。
そのころ、尊敬する、日本最高のテレビ見巧者、ナンシー関さんに褒められた。ナンシーさんはこう書いてくれたのである「からくりテレビは、日本で、ただひとつ笑いをとることだけを目的にしている番組だ」心強かった。
しかし、こう叱られた「笑いの方向が一色である」見抜かれていた。笑いの方向を決めていたのはSプロデューサーと僕だった。Sプロデューサーと僕は、完全に趣味が合うわけではないが、僕は演出家がやりたい方向にアイディアを出すタイプの作家である。
スタッフが考え出した企画が次々と成功した「からくりビデオレター」「ご長寿早押しクイズ」「玉緒がゆく」「からくりみんなの!かえうた」「サラリーマン早調べクイズ」「KARAKURI FUNNIEST ENGLISH」スターも生まれた。ボビー・オロゴン、セイン・カミュ。
TOKIOのメンバー2人が、交代で回答者として出演していた。しかし、日本テレビでTOKIO全員がレギュラーの『ザ!鉄腕!DASH!!』が始まることになり、降板した。
こういう降板は異例でジャニーズ事務所、吉本興業、TBSの3者で何らかの話し合いが行われたはずである。こういった場合、ウィンウィンの関係で手が打たれるはずだが、詳細は知らない。
『ザ!鉄腕!DASH!!』は全く強敵だと思わなかった。よくある凡庸なバラエティだったからである。
しかし、あるとき『ザ!鉄腕!DASH!!』は思い切った。見せよう見せようと力の入りすぎた企画を、つまり、やりに行く企画を中心に据えるのをやめたのである。中心はDASH村になった。まずいと思った。そのころからくりは逆に「やりに行く企画」に占拠されはじめていたのである。
この時、処置を施せなかった責任の一端は明らかに僕にもある。
視聴率は逆転し、大差をつけられた。それでも『さんまのスパーからくりテレビ』は終わらなかった。番組には明石家さんまという主人がいたからである。
【補足】このサイトで僕は芸能人の名前にすべて敬称をつけていない。それは、芸能人の名前を本名であれ芸名であれ、記号であると判断しているからである。それはもちろん、尊重されなければならない記号であるが、尊重されなければならないという意味は交通標識を尊重するという意味と同じなのである
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