<TBS「報道特集」ナレーションの謎>日本国憲法の原則は「戦争の放棄」か「平和主義」か?
保科省吾[コラムニスト]
***
8月5日(土)に放送されたTBS「報道特集」で、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法の三原則は、「基本的人権の尊重」「平和主義」「国民主権」であるというナレーションがあった。
しかし、当事の憲法の三原則に関する厳密な用語としては、「基本的人権の尊重」「主権在民」「戦争の放棄」ではないだろうか。筆者が小学6年生だった1967年(昭和42年)。少なくともその時は、上の三つを新憲法三原則の用語として習い、暗記したことを覚えている。
1947年(昭和22年)8月2日に当時の文部省は、同年5月3日に施行された日本国憲法の解説のために新制中学校1年生用社会科の教科書「あたらしい憲法のはなし」を発行した。「憲法」「民主主義とは」「国際平和主義」「主権在民主義」「天皇陛下」「戦争の放棄」「基本的人権」「国会」「政党」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」の15章からなり、日本国憲法の精神や中身を易しく解説している。
採用されているイラストでは「戦争放棄」と大書された壺の中で兵器が燃やされている。またもうひとつのイラストでは新憲法を日の出に例えて憲法という太陽を「民主主義」「主権在民主義」「国際平和主義」を手にした国民が歓迎するという図柄になっている。筆者は「民主主義」と「主権在民主義」はほぼ同じ意味であると考える。
「主権在民」という言葉の使用頻度は5回、「国民主権」は0回、「戦争の放棄」はイラストも含めて6回、「平和主義」という言葉は「国際平和主義」の表記で7回である。
6章「戦争の放棄」には以下のように記されている。
(以下、文部省「あたらしい憲法のはなし」より引用)
「こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。『放棄』とは『すててしまう』ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの国をほろぼすようなはめになるからです。また、戦争とまでゆかずとも、国の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戦争の放棄というのです。そうしてよその国となかよくして、世界中の国が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の国は、さかえてゆけるのです。みなさん、あのおそろしい戦争が、二度とおこらないように、また戦争を二度とおこさないようにいたしましょう」
(以上、引用)
「主権在民」は、なぜ「国民主権」に言い換えられていったのだろうか。一般的に、政治上の身分制度がある国では、選挙などへの参加が可能な国民が限定される。これでは「国民主権」ではあっても「主権在民」とは言えない。
北朝鮮はまさに「国民主権」ではあっても「主権在民」ではない国であるが、標榜する国名は朝鮮民主主義人民共和国だ。日本は「主権在民」の国であって欲しいと筆者は思う。
【参考】<日本国憲法は危険>日本国民全員に世界人類のための玉砕を強いる「玉砕憲法」
もうひとつ「戦争の放棄」が「平和主義」に言い換えられてきたのには明確な理由が透けて見える。まず「戦争の放棄」を謳った憲法9条の条文。
1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
「自衛隊の存在」そのものやPKOに参加する自衛隊が離れた場所にいるPKOや民間NGOの職員らが武装勢力などに襲撃された時、武器を持って助けに行く任務「駆けつけ警護」。同盟国などが攻撃されたとき、自国への攻撃と見なし、反撃できる権利、「集団的自衛権」など。素直に読んで、常識的に考えれば明らかに9条に反している。
それと同じ意味で大変具体的な原則である「戦争の放棄」は、日本の実態にそぐわなくなってしまった。それで曖昧な「平和主義」に言い換えられるようになったのではないか。
言葉の言い換えは文科省の学習指導要領が変えられたり、マスコミが自主的に変えたりした時に人々の間に広まっていく。前者では「聖徳太子」と「厩戸王」、「鎖国」を「幕府の対外政策」に言い換えるなどの騒ぎ、後者では「トルコ風呂」から「ソープランド」への言い換えなどを思い出す。
筆者などは女性のナースは「看護婦さん」と呼んでも良いし、女性の客室乗務員は「スチュワーデスさん」と呼んでも良いと思うほうだが、これらが「看護師」や「キャビンアテンダント」と呼ばなければならなくなった。これにはむしろ、どす黒い悪意が隠れているような気がする。
【あわせて読みたい】