<自衛隊機のミサイル?>日航ジャンボ機墜落事件の「知られざる真実」-植草一秀

政治経済

植草一秀[経済評論家]
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1985年8月12日、羽田空港1800発・大阪伊丹空港行き日本航空123便が18時56分に、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した。
乗員乗客524名のうち520名が死亡した。生存者(負傷者)は4名だった。夕刻の便であり、お盆の帰省ラッシュとも重なっていた。死者数は、墜落事故および単独機の航空事故で世界最多となった。
1987年6月19日に航空事故調査委員会は、同機が1978年6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後のボーイング社修理が不適切であったために圧力隔壁が破損したことが事故原因であるとの報告書を公表した。
これによって公式な原因調査は終了しているが、この問題を追求すると、まったく異なる真実が見えてくる。

「知られざる真実」

である。2001年9月11日の米国における「同時多発テロ」についても、極めて重大な疑惑が浮上しているが、いずれも正式な再調査が行われていない。
日航ジャンボ123便は8月12日18時12分に羽田を離陸した。離陸後順調に飛行を続け、18時24分には大島上空を通過し、相模湾上空に差し掛かっていた。このとき、大きな衝撃音がして機体に異常が発生した。
このときの模様を123便の生存者で日本航空CAを務めていた落合由美氏が次のように証言している。

「そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。『バーン』ではなくて、高めの『パーン』です。急減圧がなくても、耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異常は、まったく何も感じませんでした。」
「『パーン』という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。」
「その霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えた、という感じだったのです。」
「このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。しかし、何が起きたのだろうと、私は酸素マスクをしながら、きょろきょろあたりを見まわしていました。あとになって、8月14日に公表されたいわゆる『落合証言』では、客室乗務員席下のベントホール(気圧調節孔)が開いた、とありますが、私の座席からはベントホールは見えない位置にあります。ですから、開いたのかどうか、私は確認できませんでした。」

18時24分に衝撃があり、機体に異常が発生して、結局、18時56分、123便は群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した。
捜索隊が墜落現場を確認したのは、墜落から10時間が経過した13日午前8時半ころとされている。救難活動が遅れて、乗員乗客524名のうち、520名が死亡したとされている。
上記落合氏の証言によると、

「墜落の直後に、『はあはあ』という荒い息遣いが聞こえました。ひとりではなく、何人もの息遣いです。そこらじゅうから聞こえてきました。まわりの全体からです。『おかあさーん』と呼ぶ男の子の声もしました。」

という状況であった。つまり、多数の乗員、乗客が生存していたのである。
当初は、現場の発見が遅れ、救難活動が翌朝8時半以降にずれ込んだことが犠牲者を多くした原因と考えられたが、その後に衝撃の事実が明らかになった。また、18時24分に大きな衝撃音が発生した直後にコックピットから発生られた言葉が重大な真相を示唆していることも明らかになっている。
その言葉とは、

「オレンジエア」

である。自衛隊では軍事演習用の機器は、オレンジ色に塗ってある。「ファイア・ビー」、「チャカ2」、「SSM-1」のいずれかが、123便に接触して、123便の尾翼が喪われた疑いがある。123便に乗り合わせた小川哲氏が機内から撮影した写真に謎の飛行物体が映されており、コックピットはこの飛行物体を視認していた可能性がある。
日航ジャンボ機はミサイルによって尾翼を失い、調布に緊急着陸しようとしたが、事実関係の発覚を回避するために着陸が阻止され、群馬県山腹に誘導された疑いがある。米軍は墜落直後に墜落地点を確認したが、迅速な救援活動を行わなかった。
32年の年月が経過しているが、真相は明らかにされていない。迷宮に送り込まず、真相を解明しなければならない。

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