<最近の新番組が「新しくない」理由>テレビ番組から「いい加減なプロデューサー」が減ってきた

テレビ

高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]
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ここ十年ほど、「今までなかったような新しい新番組」が出来なくなっている。「新番組」といってもどこかで見たことがあるような番組ばかりが並ぶ。
なぜなのか? 原因は企画を考える方にあるのではなく、それは選ぶ方にある、というようなことを以前、書いたことがある(今、テレビ作りは「面白がる」ということを人任せにしていないか?)。その面は確かにある。
しかし最近、「違う面もある」というような気もしている。それは何か?「いい加減なプロデューサー」が減ってきたということである。「いい加減なプロデューサー」には妙な突破力がある。これは捨てたものではない。「いい加減な」ということは「先のことはわからない」ということを意味する。
かつて、報道の番組の立ち上げに携わったことがある。ずいぶんと会議を繰り返した。ゴールデンタイムの番組で、秘密保持の必要もあったのでホテルの会議室を借りて会議を行っていた。会議のメンバーは報道だけではなく、各部署から駆り出されていた。どういうコンセンプトで番組を作るか、どんなコーナーを作るのが良いか、いくつもの案が出された。
この後、番組が立ち上がった当初、経済コーナーとか、世界に取材したコーナーとかいくつかのコーナーがあったのだが、後にこれらは全部なくなった。結局は、この「なくなったコーナー」を皆でずっと考えていたのだが、ある会議で、一人のプロデューサーがつぶやいた。

「きっと何か起こるよ」

これは名言だと思った。何が起こるかわからない。しかし、「何か、起こる」。それでなければニュースはやれない。「何か起こった時にやれない体制作り」は罪作りだ。遊軍が強力な方が番組は面白くなる可能性がある。
この番組は、後に「オウム真理教事件(1989〜1995)」の取材で、他の番組から突出した番組を作り続けたが、そのきっかけは混乱したロシアの宗教の現状を取材するものだった。
その時、「オウム真理教の人間がロシアに入り込もうとしていた」という情報を掴んだのだ。「オウムって何?」その取材がきっかけになって、いくつもの先行取材が生まれた。当初の企画からは全く違っていった。取材するに足る疑問が生まれてからは、後はそれを調べ続けた。
これを「いい加減なプロデューサー」といってはまずいかもしれない。しかし、

「先がわからない時にどうするのか?」

この判断が「突破力になるか、抑制力になるか」によって展開は全く違ってくる。「突破力のみ」は危ない。これは誰しもが思うことだ。だが、「突破力のない抑制力」はもっと危ない。
この番組は「突破」を繰り返し3年間続いた。そして終わった。今、この心根をもう一度考えることが必要な時に思える。

「きっと何か起こるよ」

この突破力は捨てがたい。
 
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