<今のテレビ番組制作に欠けているもの>プロデューサーは自分の「思い」を口に出すことを躊躇ってはいけない
高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]
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テレビの「番組作り」をするためには、ある「思い」が先行する場合がある。
この「思い」とは、「ある時代への執着」のこともあれば、「人物」の場合もあるだろう。「場所」ということもある。ともかく、他の人には想像も付かない「こだわり」であることが多い。
プロデューサーにとっては、この「思い」の有無が、実は最重要課題なのかもしれない。立場上、この「思い」の有無が「逆」になってしまう場合、番組制作が失敗することが多いように思う。つまり、ディレクターが「こだわり」を持ち、プロデューサーが「それを受ける」という場合だ。
制作現場の責任者であるディレクターの場合、こだわればこだわるほど「視界が狭くなる」という傾向があるからだ。やはり、プロデューサーの「思い」がちゃんと伝わる時、初めて現場のディレクターは「動く」ことができる。それによって現場での「現実的な対応」が可能になる。
かつて、さる国境を取材した時のことである。
ソ連崩壊直前の頃。場所は、シベリア南部にあるブラゴベシチェンスクという中ソ国境地帯である。日用品、食料などは中国からソビエトに流れていた。荷物をたくさん担いだ中国人がトラックに乗ってソビエトに入っていく。
この頃の既にソ連は経済が立ち行かなくなっていた。商店に行っても食料品は置いていない。レストランにいってもメニューはほとんど意味がなくなっていた。作れるのは一品か二品だったからだ。
しかし、シベリアにいるアジア人たちはしたたかだった。家庭で野菜を作り、それを市場に出荷する。その担い手はほとんど中国、朝鮮系の人々だった。中国から国境を越えてやってくる行商人たちにロシア人が群がっていた。
その中に若いロシア人の娘がいた。だが、当時、ルーブル通貨は信用がなくなっていた。取引は物々交換、ドル・・・などだ。少女には手に負えるような状態ではなかった。それでも少女は必死に行商人にしがみついていた。
彼女がほしがっていたのは、ピンクの服だった。サイズが合うのかわからない。だが、彼女は人だかりの中、行商人を追い続けた。生きていくのは難しい時代。ロシア人たちはあちこちでウォッカを飲んだくれ、自信を失いかけているように見えた。厳冬のシベリアにはそんな光景がたくさんあった。
この取材を始めるに当たって担当のTBSプロデューサーは国境に対するある「思い」を持っていた。
国境には、いろいろな人生が交錯する。担当プロデューサーの国境、特に辺境への思いは強かった。押し付けがましくはないが、時折言葉の端々にその「思い」が伝わってきた。
今日、テレビの制作において、「ディレクターとプロデューサーの役割」の違いがあいまいになってきている。一本の番組作るのに関わるプロデューサーの数もディレクターも数もどんどん増えている。これは言い換えれば「現場に行かない人の数」が増えているということになる。
チーフプロデューサー、制作プロデューサー、総合演出、チーフディレクター・・・。現場に行かず、口を出す人間が増えた。しかも、「撮ってきたモノに口を出す」というやり方だから始末に負えない。
最近のプロデューサーは、自分の「思い」を人に言って口説くということを、「弱みを人に見せることだ」と思っているのではないか? とさえ感じることがある。客観性を失えば、人からすぐ突っ込まれる、それは避けたいのではないか、と。もちろん、それは賢明なのかもしれない。
だが、それでは人を説得することは出来ない。警戒する必要はない。「思い」が伝わればその実現方法はいくつもあるものだ。たぶんそこから番組作りは始まる。
国境へのある「思い」を持ったそのプロデューサーは、まず「思い」を実現させるために「ディレクター」を選んだ。「思い」を実現させるための「職人」が必要だったのだ。そのやり方で「シベリア大紀行(1985・TBS)」「萬里の長城(1991・TBS)」「日本海大紀行(1995・TBS)」などの大型ノンフィクションが実現した。
彼は、報道ドキュメンタリーではない、新しいスケールの大きい紀行物、それをいつも探し続けていた。
「思い」を口にすることが出来れば「作り手」はどこかにいる。「職人」はいるのだ。そうすれば、確実に「思い」を引き継ぐことが出来る。今の番組作りには、こんなやり方が足りなくなっているような気がする。
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