<I AM KENJI>事実が伝わらなくなった時、その事実は歴史から消される…

海外

榛葉健[ テレビプロデューサー/ドキュメンタリー映画監督]

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これが事実なら、ただ、祈るしかない。ジャーナリスト後藤健二さんが、残虐極まりない“自称”「国家」に拉致され、亡くなられた。後藤さんと湯川遥菜さんに対する殺害予告が出されて以来、心がざわめきに覆われ、積極的に何かを書く気持ちが持てなくなった。
かつてアジアの貧困地区などを回った自分の記憶とも重なり、今も胸苦しい日々が続いている。
後藤健二さん。命を懸けて、友人を助けに行った。危険な戦場に入る技量や経験を持っていた。そして何よりも、戦禍にあえぐ民衆の視点から事実を伝える優れたジャーナリストだった。
後藤さんのような人がいて初めて、私たちは世界で何が起きているかを知ることが出来る。そして、戦争や貧困、差別、抑圧といった困難な境遇にありながら声を上げられない人たちに代わって、彼らジャーナリストが世界の矛盾を発信してきた。その役割を果たしてきた存在が失われることは、社会全体の損失だ。他人事ではない。
自分の恐怖を抑制して、ここまで他者のために尽くせるのか。頭が下がる。
旧知の湯川遥菜さんの救出に向かった時の、最後の言葉。

「私に何があっても、シリアの人たちに何も責任を負わせないでください」

いかに平和を願い、戦下の人々に心を向け、寄り添っていたか。後藤さんの心の強さを思う。と同時に、ご自身の家族のことを慮って自制する選択肢もあったのではないかとも思う。
そんな彼の行動に対して、ウェブ上では無神経な投稿が幾つも見られる。
非道な集団が投稿した画像を面白がって拡散して、テロリストたちが狙う「恐怖の拡散」に加担する愚か者たちがいる。分かった気になって「自己責任」などと軽口をたたく者もいる。そんな唾棄すべき投稿の大多数は、後藤さんが身を置いた戦地とは比べようもなく安全な場所にいる人々によって書かれている。
今回の件で後藤さんに判断ミスや誤算はあったろう。それでも、困難な現場に身を置き、弱者に寄り添う姿勢を貫き、リスクを覚悟して友を助けに行った彼の行為を、“対岸の火事”を眺めるように、「自己責任」「無謀」などと責め立てる資格は、誰にもない。
せめて今は「人として」、ご遺族のために手を合わせ、鎮魂の祈りを捧げてもらえたら、と思う。かく言う私も、今出来ることは、無慈悲に奪われた御霊の平安を願い祈ることしかない。
ただ、これで終わらせてはいけない。
「テロに屈しない」のは無論のこと、「テロが起きない社会」を作るために何が出来るのか?「個人の悲劇」として矮小化せず、あらゆる立場の人が自分に出来ることを考え、小さな実践を積み重ねていくことが求められている。
同時に、湯川さんが拉致されてから最悪の結末に至るまでの半年間の、政府の対応に問題は無かったのか?首相の中東歴訪のタイミング、中東4カ国支援表明の際の首相発言や行動の問題など、何がどう影響したのか、緻密な検証が必要だ。
私は後藤さんとは面識は無かったが、中東で長期取材をしているドキュメンタリー映画界の先輩や友人がいる。今も危険地帯ギリギリの所から実態を伝えるフリージャーナリストの仲間もいる。彼らは、《伝えること》で多くの人が問題を知り、皆で平和な世界を目指していく礎になりたいと願っている。

「事実が伝わらなくなった時、その事実は歴史から消される…」

暴力で社会を支配する非道を食い止めるために、武器を持たないジャーナリストたちが懸命に伝え続けている真摯な姿勢を知ってほしい。そして社会全体で、彼らのいのちと尊厳を守ってもらいたい、と切に願う。
「テロに屈しない」ということは、
軍事、医療、食糧支援などさまざまな策があるのと同様、
「テロや暴力を告発するジャーナリストたちを守る」ことも、そのひとつの道だと私は考えている。
後藤健二さんの解放を願って、世界中から幾多の「I AM KENJI」のメッセージが寄せられた。それは、「KENJI」なる存在(=ジャーナリスト)が、すべての人の代わりに困難な現場で起きている事実を知らせてくれる「“私”たちの分身」であることを、誰もが分かっていることを示している。
《分身》は、すべての人の、《身体の一部》だ。
守られなければいけない。
後藤健二さんと湯川遥菜さんがどうか安らかに旅立たれることを願い、心からご冥福をお祈り致します。
 
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