<映画「アメリカン・スナイパー」に見る職人気質>現在のテレビ界が陥っている病をどう克服すべきか?

映画・舞台・音楽

高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]

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テレビの番組作りにとって現実感は非常に重要なファクターだ。バラエティーにしてもドラマにしても、勿論ノンフィクションにしてもそれが「起こりえることだ」という現実感があることが興味を惹く重要な要因になる。
単に事実に依拠しているといっても、その人間に迫るような視点がなければ、やはりどこか絵空事になってしまう。遭遇してしまう怖れ、あるいはチャンス、それが想像できるようなものでなければいけないのだ。とはいっても、現実感というのはそう簡単なことではない。
クリント・イーストウッドが監督した映画「アメリカン・スナイパー」が話題になっている。
イラク戦争で160人を射殺した伝説のスナイパー「クリス・カイル」の伝記を元にした映画だ。この映画をアメリカの副大統領が評価するコメントを寄せたということで、ラジオで「なぜ戦争の悲惨さを描くこの映画がアメリカ人にはわからないのか」というコメントをした方がいた。
確かに悲惨な映画だ。とてもわが国の自衛隊には出来ないだろうという印象をもった。そういう訓練は受けていないからだ。「殺しに行く」のと「殺されないように守る」のとでは根本が違う。これは「殺しに行く」映画なのである。
だが、アメリカ人から見ると、この日本人の感覚とは見事に違う。副大統領が評価する一面が確かにある。それは、愛国心だ。

「アメリカのために戦う、強いアメリカを表現している。強いアメリカのためにはいくら悲惨さを訴えても、悲惨さは当たり前の前提条件である。だから反対だという理由にはならない。臆病者の考え方だ。」

アメリカ人の多くはたぶんこう考える。
日本人の多くが心に持っている「憶病者の論理」で良いじゃないかという考えを彼らはとらない。だから壊れていってもカイルは英雄なのだ。壊れても任務を果たしたからだ。
イーストウッドは無駄なカットはほとんど撮らなかったという。そういう意味では職人である。職人のイーストウッドはスナイパーという職人に強い興味を持ったのだろう。だから娯楽映画としても優れている。
そこに反戦や厭戦といった違う意味を感じるのはイーストウッドにとっては勝手な話なのだろう。ダーティーハリーよりも見るほうにとってリアリティーを増しただけだ。
この映画を見て感じるのはヒーローに対する日本人とアメリカ人の認識の違いだ。アメリカ人は熱狂的にヒーローを支持する。ヒーローに対する盲目的な信仰が根本にある。つまり、それが成功者なのだ。家庭が壊れていっても金銭的に恵まれなくても、最後はヒーローを称えることで救われて行く。使うだけ使って使い古されて、といったぼやきは聞こえてこない。
だから同じイラクにいって成功者になれなかった「壊れた人間」に殺されても、殺したほうへの同情は皆無だ。カイルはどこまで行っても英雄なのだ。英雄というもののアイロニーも含めてそこにはアメリカのある精神が描かれている。それがこの映画の現実感を支えているのだろう。
テレビ屋には今、このイーストウッドのような職人気質が求められているような気がする。つまり、現実感が大事なのだ。それをどう表現するか? それが大事なのにもかかわらず、善悪ばかりに目が行き物語性を失ってしまっているのではないか。善悪を優先させてしまうから政治的な問題は避け、議論になりそうなテーマは避け、実感のない番組作りになっていないか。
逆にこういうテーマを扱う場合にはストーリーを重要にするより、善悪ばかりが優先してしまうのではないか。これでは面白い番組作りには繋がらない。
今必要なのは、善悪の理屈だけではない職人のめげないたくましさなのではないか。
職人だからややこしいテーマは避ける、それが現在のテレビ界が陥っているひとつの病のような気がする。逆に職人だからややこしいテーマを扱える。それはこの映画の示唆に飛んだメッセージのような気がする。
たくましい番組が作られてほしい。
 
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