2020年のM-1グランプリであります。全ネタの寸評を書きます。
1.インディアンス(敗者復活組)
去年と同じく、ボケの田渕がザキヤマみたいに際限なくボケる漫才でした。早口でテンポもよく、2人の演技力も高いので、きちんとアドリブでひたすらふざけているように見えまず。それができるのは技術と不断の努力があってこそでしょうが、立ち止まってよく考えてみると田渕の言っていることのひとつひとつはしょうもない(=大喜利で出したとしたら評価されない解答)のです。それでも、あれだけの早さと厚みで繰り出されるからなんとなくおもしろくなってしまうのです。
ザキヤマも、普段テレビで見るときはあんな感じでしょうが、アンタッチャブルの漫才の時はもう少し早さと厚みを抑えて、大喜利力を上げて個々のボケを聞かせる感じにしてきていると思います。
ボケの中身がしょうもないと、ウケも頭打ちだと思います。いくらアドリブでふざけているように見えても、漫才である以上台本通りにやっていることだというのは背後に透けて見えますからね。「事前に考えたんならもう少し中身で勝負してくれよ」と思ってしまいます。田渕のあの感じは、アドリブでできてこそ見ている方のハードルも下がるのです。あと、ツッコミのきむは終始若干カミ気味だったかしら。
2.東京ホテイソン
巨人の言っていたことが私の考えに一番近いです。
2番目のボケを一例にします。「ピラニア・ライオン・オオカミ・シカ。動物たちの尻尾を取り出すとどうなる?」というクイズがボケのショーゴから出されます。ショーゴの言う答えは「消しゴム」です。「尻尾」というのは「最後の文字」という意味である、というのがショーゴの説明です。これがボケになっており、ツッコミのタケルが「い~やアンミカ!」と歌舞伎のような大袈裟なモーションと大声で正答を言いながらツッコみます。今回の漫才でお題になっていたのは終始この手の言葉のクイズでした。
何が問題かというと、ツッコミで正答だけ言われても本当にそれが正しいのかがはっきり分からないことです。こちらは最初のクイズを耳で聞いているだけなので、すぐには何が答えかが分かりません。なのでツッコミで答えを聞いてもイマイチ溜飲が下がりません。
ボケが堂々と間違いを言っているだけに、ツッコミが言ったことが本当に正しいかどうかを確かめないと不安を抱えたままになり、笑っていいものかどうか面食らってしまうのです。その正しさがツッコミを聞いた瞬間に理解できれば、もっと気持ちよく笑えると思います。
例えばTHE WのAマッソやバカリズムのネタみたいにプロジェクターでクイズを表示しながら漫才をやるのは一つの手だと思います。あんまり分かりやすくし過ぎるとお客さんにオチがバレてしまうので、表示する映像には多少の分かりにくさを残しておく工夫は必要ですが。
あとこれは松本の言っていたことでもありますが、たけるのツッコミは前述のように歌舞伎みたいに極限まで芝居がかった(悪く言えば、嘘くさい)大声です。このツッコミが、彼らの漫才の中の決め台詞になっています。でも、たけるはこの決め台詞以外の時もこのしゃべり方でしゃべるので(意識して抑え目にしてはいると思いますが、隠しきれていません。にじみ出ています)、あんまり決め台詞が映えていないと思います。ツッコミ以外の時はもっと普通にしゃべったらどうでしょうか。
1問目に対するツッコミも、この芝居がかった声でやることを意識しすぎたからなのか、非常に聞き取りにくかったです。1問目へのツッコミは、「ショーゴの説明に基づくと、正答として導かれる文字列が全く意味を為していない」というのがボケ(ズレ)の中核を為すため、その無茶苦茶さを聞き手に分かってもらうためにははっきり言ってもらわないといけません。
巨人のコメントの後にたけるに「い~やガチのダメ出し!」(それか、「い~やマジでタメになるやつ!」)って言って欲しかったですねえ。敗退決定時の彼らのコメントを聞く限り結構効いていたようですから。
3.ニューヨーク
おもしろいです。
屋敷は終始笑い顔を消しきれていませんでしたが、あれはもうそういう表情なんだと思います。今回のネタは、去年のとは異なり嶋佐のボケがかなり「悪」に傾いているため、笑いながらやるとお客さんが引いてしまうと思います。もうちょいちゃんと笑い顔を消せた方がいいでしょうか。
そして、2人とももう少し演技力を磨けると思います。
嶋佐はポーカーフェイスでボケをかましまくる人を、屋敷はボケのことを本気でおかしいと思う人を、いまいち演じ切れていません。特に屋敷の「なななななんやその話!」っていうツッコミは寒すぎて若干恥ずかしくなりました。この台詞は相当演技力がないとおもしろくできないので、台詞から変えた方がいいと思います。
4.見取り図
マネージャー役のリリーと大物タレント役の盛山のコント風の漫才でした。去年の漫才とは比較にならないほどおもしろかったです。「無意識でやってしまいました」の伏線まで張れていたのは見事でしたねえ。何より二人の素の漫才のキャラが合っていると思います。
特にリリーは、ポーカーフェイスで飄々とボケまくるので、「全然仕事のできないヤバいマネージャー」というキャラクターが非常にマッチしていました。盛山の素っ頓狂な声も、そのヤバいマネージャーに振り回される大物タレントの大変さをよく醸し出せていました。リリーは、本当にヤバいやつなのではないかという期待がすごくあります。是非、テレビで素の部分を見てみたいです。
5.おいでやすこが
ネタに伏線を入れていると私は褒めます。良かったです。塙の言っていたように、ボケにこの伏線以外の特別感はありません。特徴は何といってもおいでやす小田のやかましいツッコミです。あれだけウケをとるのは、台詞に風貌や声質が全て噛み合わないと無理です。何がどう噛み合っているのかの説明は私にもできませんが、多分冴えないおっさん風の見た目をしている小田が息を切らして騒ぐのが滑稽なんじゃないでしょうか。もっと若いとあんなにウケなかったと思います。
ネタ後の各審査員からのフリにもきちんとツッコめていたので、仕事は増えると思います。カンニング竹山的な仕事が増えると思います。体力を使いそうなツッコミなので、体には気を付けてください。
6.マヂカルラブリー
巨人も富澤も松本も「尻すぼみになった」という趣旨のことを言っていたのですが、最後にあんまりちゃんととツッコまないシュールなやつを入れ込むのも、野田の動き主体の偏差値の低いボケと同じくらいの比重を持った「らしさ」なんだと思います。野田がR-1でやっていた自作ゲームのネタなんかまさにそんな感じでした。「らしさ」を出して点数が伸びなかったのであれば、それはもうしょうがないことだと思います。
7.オズワルド
松本や巨人も言う通りツッコミは去年よりやかましくなっていましたが、好みの問題だと思います。どっちがいいとか悪いとかは特にないです。
私は一番おもしろかったですよ。欲を言えば、畠中はもうちょっと抜けた表情ができるといいと思います。自分がしゃべっていない間も、ずっと与太郎を演じて欲しいのです。雰囲気はカミナリまなぶと似ています。伊藤のツッコミも音量が上がったので、全体的によりカミナリに近くなりました。
8.アキナ
秋山が「前すいません」と2回言ったのが気になったんですけど、何の笑いにもつながっていなかったです。あれは何だったんでしょうか。審査員は順番のことを言っていましたが、あの人たちがそれを言い出したらおしまいだと思います。順番に関係なくネタのおもしろさだけで審査をしているよということにしないと、M-1が崖っぷちで何とか守っている体裁が崩壊していまいます。
ただまあ順番のことを抜きにしても爆発力には欠けるネタでした。多分富澤のコメントが一番的を射ていて、もう40歳の山名が好きな女子を意識するという設定が浮世離れしていてハマらないんだと思います。山名がチャラいキャラで世間に浸透している、とかなら別なんでしょうが。
9.錦鯉
ボケの長谷川さんは49歳だそうです。その年齢でこのネタみたいに動き主体のバカバカしいギャグをやると、普通は痛々しくて見ていられないものですが、不思議と見ていられました。多分、ずっとバカをやっている井出らっきょみたいな風貌だから許せるんだと思います。レーズンパンのギャグを何度もやるというような技も見せていたので、決してバカバカしいばかりではないんです。
[参考]「M-1グランプリ」全15回審査基準の変遷から考える
塙は「レーズンパン」の滑舌が悪かったと言っていましたが、確かにもうちょっとちゃんと聞こえた方がいいですね。スベらせる必要のあるギャグなのでちゃんと聞こえなくてもいいだろうという声もあるかもしれませんが、「そのスベるギャグを何度もやる」というボケが本当の聞かせ所なので「これはスベってもしょうがないな」とお客さんにきちんと思わせる必要があります。それには、何を言っているかを理解してもらう必要があります。ツッコミの渡辺さんは、声を張る時はいいのですが、それ以外の時は声がちょっと小さかったです。
10.ウエストランド
最後はツッコミの井口が南キャンの山ちゃんみたいに世の中への不満をぶちまけつつ偏見を大声で呼ばわる漫才になっていました。意識してパンチラインをいくつも入れ込んでいましたが、ちょっとそのキャラへの変貌が唐突過ぎます。冒頭でボケの河本が「不倫したい」とボケるのを制止しているので、まともな人に見えてしまうのです。井口のキャラクターが巷間に浸透しているわけでもない以上、ネタの最初から井口がそういうルサンチマンまみれのキャラだということをお客さんにフッておかないと、M-1の短いネタ時間ではウケきるところまで温まらないと思います。
井口の偏見まみれの言動に大してほとんどツッコミが入らないことも彼のキャラクターを分かりにくくしています。松本が「何漫才か最後まで分からなかった」と言っていたのもそういう意味だと思います。
井口のキャラを浸透させるための1発目のクダリは、井口が「かわいくて性格のいい子? いないよ」は3回立て続けに言うところなのですが、3回目で2回目よりウケが少なくなっていました。そのせいでやっぱり井口のキャラが分かりにくくなったと思います。3回目は、もっとたっぷり(2回目より)間をとって、動きも大きくした方がウケると思います(それでも無理なら2回で止めておくべきでしょう)。
「復讐だよ」という台詞も2回言っていましたが、2回目がウケていなかったので同じことが言えます。途中で河本が言った「ぷよぷよ」や「予習」のボケも漫才全体の流れとは関係がない(そのうえ前者は大してウケていなかった)ので、ない方がいいと思います。
それと河本は全体的にカミ気味でした。井口からツッコミが入るわけでもなかったので、良くないです。
<ファイナルステージ>
1.見取り図
1本目と違って去年みたいに2人でケンカをするしゃべくり漫才でした。やっぱり盛山の声質はガチのケンカに合っていません。1本目みたいに多少戸惑いながらツッコミを入れるキャラクターの方がハマります。
だから1本目よりはハネきらなかったですね。「カバー」や「マロハ島」みたいな伏線を入れていたのは良かったですが。
それと、2人が地元のディスり合いの時に出したライターと成人式のエピソードはおそらく完全な嘘なんですが、そのわりにつまらなかったです。嘘をつく からにはもっとウケ切って欲しいです。
2.マヂカルラブリー
1本目と同じ感じで野田が動きまくるネタでした。特に追加で言いたいことはないですけど、よくウケていました。
3.おいでやすこが
こちらも1本目と同じ感じでしたが、ウケは1本目より少なかった感じがします。個人的には、もう小田のツッコミに飽きてしまっていた感じがします。大声だけであんまりワードセンスとかがなかったからだと思います。
<総評>
最後に残った3組は確かにどこかが図抜けているということもなく、審査員の票は割れていました。見取り図とおいでやすこがは1本目より失速していたので、それはマヂカルラブリーにとっては幸運なことだったと思います。
野田のキャラは筋肉とバカなんですが、今後テレビで売れるにはキャラがかぶっている春日や庄司やきんに君といった強敵と伍していく必要があります。難しそうですが頑張ってください。村上の方は全くキャラが見えてきません。何か見つかるといいですね。
見取り図は・・・。何回もM-1の決勝に来てはいる以上、テレビでの使いどころがはっきりしているのならばもう売れているでしょうから、色々難しさはあるのでしょう。まあこれに懲りずにやってください。
【あわせて読みたい】
2019年のM-1です。去年も言いましたが、私はどうせならテレビで売れる人に優勝して欲しいと思っています。以下の感想も、そういう観点から書いています。
<1>ニューヨーク
ボケの嶋佐のおかしなオリジナルラブソングに屋敷がツッコミを入れていくというネタです。一人が歌を歌ってもう片方がそれにツッコミを入れるという形式は巨人も言っていたようにそんなに珍しいものではありません。ナイツだってそういうタイプの漫才をやっています。
この手のネタで注意すべきなのは、ずっと同じ歌を歌うことでボケの種類が一本調子になってしまうことですが、今回ニューヨークが披露したネタはきちんと変化も入れていました。伏線回収みたいなクダリもありました。松本は屋敷が笑いながらツッコミを入れているのが個人的に好きではないと言っていましたが、それは好みの問題です。確かにヘラヘラツッコミを入れると「ボケのことを本気で正そうとしている人」を演じ切れない場合があるのですが、そこはクリアしていました。演じることはできていたと思います。
それでもM-1で上に来るスタンダードな漫才と比較すると変化球という感は否めず、トップバッターになってしまったのは不運だったと思います。中盤で箸休め的な感じで登場したらもっとハネたかもしれません。それでも、箸休めにしかならない気もしますが。
ネタ後の松本のコメントを聞いて本気で嫌がっている2人が一番おもしろかったです。あのお芝居が色々なシチュエーションでできるのであれば、テレビからはたくさんお声がかかることでしょう。
<2>かまいたち
おもしろかったですよ~。松本が大得意な言いがかりキャラを山内が完璧に演じ切っていました。それを正そうとする普通の人を演じる濱家も良かったです。間も完璧でした。まあ、決勝に残ってるからにはそこらへんはバッチリ決めてくるんでしょうけど。
山内が自分の言い間違いを濱家になすりつけた瞬間が2回あったのですが、そのクダリが一番おもしろかったです。出てきた言い間違いは2つだけだったのですが、どうせならもっとたくさんの種類を見てみたかったです。4分と言わずもっと長いこと見たいネタだということですね。
<3>和牛(敗者復活組)
クオリティは非常に安定しています。不動産屋(水田)と内見に回る客(川西)という使い古された設定であそこまで魅せてくれるのはさすがです。
ボケの中核は、「水田が紹介する不動産が既に居住者のいるところばかり」というものなんですが、ずっと同じように見えて細かく変化をさせています。それに合わせて川西の「お邪魔しました」の言い方も細かく変わっていくところが個人的には好きでした。後半はネタの内容がちょっと変化します。松本はそれを評価していましたが、私はずっと前半の感じでやって欲しかったです。ただもうここは好みの問題です。
技量(=漫才の登場人物を演じる演技力)は十分です。それが和牛です。ただ技量が十分なだけでは優勝できないのがM-1です。そして、ネタの中身がハネるかどうかはもう運なのです。これまでM-1では運に見放されてきたのが和牛なのです。
<4>すゑひろがりず
袴に鼓と扇子という出で立ちで、合コンという現代の設定を古風に言い換えていく漫才です。私は母心の歌舞伎漫才を思い出しました。「江戸時代の人が合コンをやったらどうなる?」という大喜利への回答が散りばめられたネタでしたが、巨人も言っていたように大喜利のクオリティは全体的に高く保てていたと思います。
ボケの三島がかなり老けた顔立ちをしており、ネタ自体も古風でかつ単品のキャラクターに頼っていることもあってか、あんまりM-1で優勝させたくありません。こういった単品の強いキャラクターはテレビでは扱いづらいので、優勝しても先が見えないからです。上沼も言っていたように、大ベテランのやるネタだと思います。むしろ、なかなか売れない苦労人の風格を帯びていた方がおもしろく見えるネタだと思います。
それと、ネタ中にイッキコールをやっていました。本人たちも今の時代そういうのはアカンというツッコミを入れていましたが、本当に大丈夫なのかということがちょっと心配になりました。その心配が少し笑いを阻害したので、再考してもいいかもしれません。まあ、古風な言葉に言い換えているので大丈夫な気もしますが、それだけで大丈夫になるのもどうかと思います。
<5>からし蓮根
ボケの伊織のフランケンシュタインみたいな風貌としゃべり方といい、2人の身長差といい、カミナリっぽいなと思いました。巨人は伊織が普段からあんなしゃべり方だと言っていましたが、もっとおもしろくできると思います。もっととぼけた感じを出して欲しいんですよね。でかくてしゃべりが若干ヘタクソだというのはまなぶの他にしずちゃんにも似ていると思います。
なので、とぼけた感じをわざと出していく方向性も、敢えてこのヘタクソさを残してキャラを立たせる道もあるとは思います。ヘタクソさを立たせるのであれば、もうちょいヘタクソだということを誇張して演じて欲しいです(しずちゃんはそれができていると思います。伊織が敗退決定時にコメントを求められて言った「頑張るぞ~」の感じです)。そして、どっちにしろもうちょい声は張って欲しいです。
あと2人の登場前の煽りVTRでツッコミが方言ツッコミだと紹介されていましたが、あんまりピンと来なかったので肩透かしを食らいました。ネタに集中できなくなるのでそういう煽りはやめてください。
<6>見取り図
盛山が誰かにずっと似てるなと思ったんですが、ロッチの中岡ですね。清潔感のない髪と甲高い声がそっくりです。
二人の風貌を例え合う漫才でしたが、まず風貌にくるよや稲ちゃんほどのインパクトがないので、ハネきりません。笑いが頭打ちになってしまいます。あと盛山はあのガラの悪い風貌であれば声にももっと怖さを出して欲しいんですが、出てくる声がロッチ中岡なので、あんまりマッチしません。盛山が何か声を発するたびにリアクション芸でヘタレている中岡が脳裏に浮かんでしまい、リリーの例えも上滑って明後日の方向に飛んでいってしまいます。声と風貌の噛み合わなさをイジった例えを出しても良かったかもしれません。
<7>ミルクボーイ
漫才の構造的な話をすると、ボケは駒場じゃなくてコーンフレーク(と、駒場のオカン)なんです。コーンフレークのおかしなところにツッコミの内海が1人でツッコミを入れている漫才です(駒場は終盤に若干ボケる以外は、相槌を打って内海の漫談を先に進めさせる役です)。ずうっとしゃべっている内海の負担が大きそうなのですが、内海が1人でコーンフレーク漫談をしてもここまでおもしろくはならないと思います。駒場は、必要です。
煽りVTRで言われていた通り内海は顔立ちも含めてものすごく昭和の芸人然としています。これは、本人の個性が見えないということです。昭和の芸人というだけであれば似たような師匠連中がたくさんいるので、テレビで使いたいということにならないと思います。もうちょっと、個人のパーソナリティを出して欲しいです。駒場は前述の通りネタ中はあんまりしゃべっていなかったので、べしゃりの実力は未知数なのですが、そっちがダメでも春日みたいに筋肉キャラで売っていけるでしょうか。どうでしょうか。
このネタは文句なしにおもしろかったですが、録画したものを見返したらツカミのベルマークのクダリが本題のおもしろさと全然釣り合っていなかったことに若干腹が立ちました。
<8>オズワルド
審査員も言っていましたが、関西の若手みたいにワ―キャー騒ぐ感じではなく、落ち着いた漫才でした。ボケは少々トリッキーで、ツッコミもそのトリッキーさを真正面から受け止めず斜に構えており、シュールな印象を受けました。
ただよく見ると畠中のボケは大体全部ツッコミを入れられて処理されています。伊藤の斜に構えたツッコミは「何で真正面からいかないのか」というズレを作出するボケでもあるので、ここに全くツッコミが入らない(それを全部スルーすることが、畠中のボケキャラが際立たせるという構造にもなっています)からこそ、シュールな印象を受けるんだと思います。伊藤の一番のボケは「理論上はそう」というツッコミなのですが、畠中はこの発言のおかしさを全スルーしていたじゃないですか。
こういうネタなので、M-1だとハネきるのは難しいでしょうか。せめて仕事が増えてくれればいいですが、風貌以外に二人の個性が見えてこないネタだったので、まだ時間がかかりそうですね。ヒゲメガネだけならファラオとかマツモトクラブとか色々いますから。
<9>インディアンス
田渕はザキヤマっぽいんです。でもM-1で優勝した時のアンタッチャブルよりおもしろくなかったんです。田渕が一人でふざけてる時間が長くて、ツッコミが少ないからです。そして、ツッコミも田渕を制止する内容だけで一本調子だからです。優勝したときのアンタッチャブルは、ザキヤマがボケて柴田がツッコんでという一小節一小節をきちんと見せていた記憶があります。
礼二は田渕のキャラがもっと見えたらいいと言っていましたが、素もザキヤマみたいにああいうキャラなのかもしれません。そうだとしたら、まずはザキヤマの代わりという形で仕事が入ってくると思います。
<10>ぺこぱ
ツッコミの松陰寺は、ツッコむと思わせておいてフォローを入れるというボケをやっていました。シュウペイのボケよりこのボケが笑いの中核になっていました。このボケにツッコミが入らなくてもおもしろいのは、普通の漫才であれば入るであろうオーソドックスなツッコミが視聴者の脳裏に刻み付けられていて、それがナチュラルにフリとしての役割を果たしているからでしょう。だからツッコミで事後的な説明をしなくてもズレの存在と内容が認識できるのです。
礼二はシュウペイのキャラが固まっていないと言っていましたが、まだ演じ切れていない感じはしました。表情(特に笑顔)が貼りついた感じなんです。松陰寺も、あのビジュアル系バンドのナルシストみたいなキャラクターを完全に乗りこなせてはいません。汗をかきすぎで顔がテカっていることや、前髪がちょっとくたびれていることも一因かと思いますが、無理してやっているように見えます。審査員の面々も「松陰寺がこれまでに色々なキャラを試している」というのを暴露していましたが、そういうことなんでしょう。ホストネタをやる英孝ちゃんみたいな痛々しさがあります。
なので、ドッキリとかにかけてみたらおもしろいかもしれません。
*最終決戦
<1>ぺこぱ
やっていることは1本目と一緒でした。なので、「さっき見たよ」という感想しか出てきませんでした。飽きちゃったんですね。よく見るとボケの内容はちゃんと色々変化させていたので、大喜利力の下地があることは感じられました。
<2>かまいたち
言いがかりで口喧嘩を仕掛けてくるネタの構造は一本目と一緒です。「手品ができる」と自慢してくる濱家に対して山内は「トトロを見たことない」という自慢を口八丁だけで勝たせようとしていました。是非、松本みたいにこの手の言いがかりがアドリブでできるようになってほしいです。
<3>ミルクボーイ
1本目と同じ構造のネタを「最中」という題材でやっていました。コーンフレークより爆発力がなかったのが残念でしたね。コーンフレークほどのクオリティが出せる題材が何個も見つかったら苦労しないですけどね。
*総評
優勝はミルクボーイでした。松本以外の6人全員がミルクボーイに入れていました。ぺこぱと一緒でやっていることは1本目と変わらなかったのですが、1本目の勢いのままにウケをとっちゃった感じでしょうか。ただまあ、かまいたちのネタにコーンフレークに伍するほどの爆発力がなかったのも確かです。
テレビ的に使えそうな人は去年よりはいました。以下にまとめておきます。
・からし蓮根:カミナリに似ています。伊織のフランケンシュタインキャラが活かせないでしょうか。
・インディアンス田渕:ザキヤマ的にひたすらボケ続けるひょうきんものでいけると思います。
・ぺこば松陰寺:英孝ちゃんや永野みたいにオッサンが無理してキャラをやっている痛々しさがあります。取り敢えず一通りのドッキリをかけてみたいです。
ミルクボーイは・・・うん。内海は、顔は落語家で衣装は40年前の漫才師なので、若い人からの人気が出にくそうなのです。もっと年をとってからNHKの昼間とかで落ち着いた仕事をやってそうなイメージなのです。ずっとネタをしゃべってるだけで個性が見えなかったので、テレビに定着したいのであればこれから増えるであろう露出でそれを出していくしかありません。
駒場も個性が見えなかったのは同様です。筋肉キャラが活かせればいいですけど、春日並みの変人には見えないんですよね。
頑張って欲しいです。今後のM-1というブランドはあなたたちにかかっていると思います。
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2019年6月27日放映のテレビ朝日「アメトーーク」を見た。宮迫が吉本から謹慎処分を受け、出演部分がカットされて放映されるという情報が出回ってから初の「アメトーーク」である。
姉妹番組の「ロンドンハーツ」(2019.6.25OA分)でもMCの片割れである田村亮の出演部分がカットされていたが、亮はもともと番組で大した働きをしていなかったのでほとんど違和感はなかった。他方、「アメトーーク」での宮迫の役割は大きく発言頻度も高いため、でき上がった再編集バージョンがどのような感じになっているかは非常に興味を引くところであった。
結論から言うと、宮迫の存在はほぼ完全に消されていた。蛍原のアップの画の際に宮迫の左腕が入り込むことはあったが、顔は一回も映ることはなく、声も多くの人間がガヤガヤしゃべっている場面で宮迫らしき笑い声が多少入っている程度で、はっきり宮迫だと分かるものは一つもなかった。他方で、番組それ自体はそんなにおもしろくなかった。
今回のテーマは「ネタ書いてない芸人」というものであり、ネタを書いている芸人とネタを書いていない芸人にそれぞれの言い分を言わせて喧嘩(=プロレス)をさせるというのが主な内容であった。しかし、まず宮迫が一切映らず一言もしゃべりもしない映像への違和感がまだ大きいので、内容に集中できなかった。
番組での宮迫の主な役割は、誰かがスベった時のフォローや、雛壇の面々から飛び出た天然を拾ってたとえツッコミをすることである。ただ宮迫の発言を入れ込まないとおもしろくならないシーン(=宮迫の言動があって初めてオチたシーン)は全てバッサリとカットせざるを得ないので、OAされていたのは宮迫が絡まなくても笑いが起きたシーンに限定されていた。そして、番組がそんなにおもしろくなかったということは、OAされていたところが軒並みそこまでおもしろくなかったということである。
「ネタ書いてない芸人」の方には津田・ナダル・おたけといった撮れ高の期待できる天然が揃っていたので、再編集の末にカットされたシーンの中には、宮迫がガッツリ絡んでおもしろくなったクダリがたくさんあったと推察する。これを切らざるを得ないのは、番組としては大きな痛手だろう。
「アメトーーク」という番組の(他に代え難い)魅力の一つは前述のような天然芸人の「発掘」と「料理」であるため、宮迫みたいにツッコミとフォローができるMCは必要である。天然ボケというのは本人ですらも意図せずに飛び出てくるものなので、それを拾ってお客さんにおもしろさを気付かせてやる役回りがどうしても必要なのである。蛍原は、最低限の進行しかできないし、していない。
宮迫は、芝居も上手くて、歌も上手くて、ボケもツッコミもできるオールラウンダーという意味では紛れもなくオンリーワンであるが、個々の能力をバラで見るとトップクラスに突出したものは持っていないので、この「個々の能力」に限ればこれを代替できる芸人はいる。たくさんいる。そして、「アメトーーク」で求められているのは宮迫の芝居でも歌でもなく、前述のような「ツッコミ」である。
これは、MCができる芸人であれば大抵みんなできるものである。さんまやダウンタウンは当然できることであるし、そこまでの大物を持ってくる必要もない。今田や東野にもできる。有吉やフット後藤にもできる。それこそロンドンハーツのMCである淳にもできることである。
島田紳助が引退した時の「行列」や「鑑定団」のように、「アメトーーク」でも早めに後釜を見つけて番組を続けて欲しい。今のままのではギリギリ味のするシーンを切り貼りした残り物の寄せ鍋みたいな映像しかでき上がらない。その状態が続けば、番組が終わってしまう。私は、まだ「アメトーーク」には終わって欲しくない。この番組には、天然のスターを発掘し続けるという地上波での使命がある。
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雨上がり決死隊・宮迫博之が後輩芸人であるカラテカ・入江慎也の仲介で、反社会的勢力が関係しているとみられるグループの宴会に参加し、闇営業をしたのではないかという週刊誌報道があり、大きな話題となっています。法律の勉強をした身として、私見を述べさせていただきます。ただ、普通のことしか言えません。
問題は2つあります。「闇営業をした」ということと、「反社会的勢力の酒宴に出た」ということです。
前者に関してはあくまで吉本と宮迫との契約の問題です。闇営業が禁じられるのは、事務所とそういうことをするなという契約をしているから、です。事務所に所属していないフリーの芸人であれば(あるいは、事務所所属の芸人でもそういった明確な契約がなければ)、自分で仕事をとってきてその報酬を全部自分の懐に入れても何も問題はありません。なので、この問題に対しては、吉本がどういう措置をとるか、ということでしかないでしょう。
宮迫の事務所に対する貢献度は大きいでしょうから、吉本としても今回の件を仲介したとされる入江ほど簡単に切ることはできないでしょう。吉本が動くとすれば、「宮迫を残すことによるデメリット」が「切ることによるデメリット」より大きくなった場合です。紳助は、そうなったからこそ引退にまで追い込まれたのでしょう。
後者に関しても、宮迫の行為が直ちに法に触れるということにはならないと思われます。例えば東京都の暴力団排除条例(暴排条例)は、事業者に対して、一定の場合に契約の相手方が暴力団関係者であることを確認する努力義務、また契約の相手方が暴力団関係者であることが判明した場合に契約を直ちに解除することができる旨の条項を盛り込む努力義務を課しています(18条)。ただしいずれも努力義務に過ぎず、罰則もないほか、暴力団関係者と契約すること自体が禁じられているわけではありません。そもそも、宮迫が出席したパーティーの列席者が「暴力団関係者」なのかどうか(またそうだとして、どのレベルの「関係者」なのか)は、実はあんまりはっきりしていないと思います。
宮迫が今回の営業でギャラをもらったのかどうかはあまりはっきりしませんが、もらっているにしろもらっていないにしろ、契約書までは作っていなさそうなので、解除の条項を盛り込むなどということは当然していない可能性が高いですし、契約の相手方(=営業の依頼主)が暴力団関係者であるかどうかをきちんと確認していないのは確かだと思われます。ただそういったことを全くしていなかったとしても、元が努力義務でしかないので「しようと努力はした」と言い訳をする余地が残っています。またその言い訳が通らなかったとしても、努力義務違反にしかならないので、直ちに何か法的な効果が生じるということではありません。
(※仮にギャラをもらっていたとすれば、それをきちんと申告したかどうかという税法の問題は残ります。)
そうすると、あとは努力義務違反の可能性がある宮迫を世論やスポンサーがどう思うか、ということになります。バッシングの声が広がれば、宮迫が出ている番組から下りるスポンサーが今後増えていくでしょう。そうなると、メディアとしても宮迫の起用を避けるようになります。
すると、宮迫の吉本に対する貢献度も下がっていき、吉本としても「宮迫を残すことによるデメリット」が「切ることによるデメリット」を上回る状況ができ上がるかもしれません。他方で、吉本と直接取引関係のある大企業が吉本との取引をやめようとするかもしれません。そうなれば、吉本に直接のダメージが入ります。そこまでいけば、吉本としても宮迫に対する処分に動き出すかもしれません。
ただまあ、現状世論がそこまでの盛り上がりを見せているようには見えない、というのが正直なところです。週刊誌報道後最初に放映されたアメトーーク(2019.6.13OA)も、この問題に関する謝罪や言及も特になく、普通に放映されていました。今後、この問題はそのまま沈静化していくのではないでしょうか。
私としては宮迫みたいなきちんと実力のある芸人にはちゃんと生き残っていて欲しいと思っているのが正直なところです。
確かに宮迫は、有吉の言葉を借りれば、プライドが高すぎて芸人であるにもかかわらず自分をイジらせない「バリア」を張っています。芸人なのに、ハゲも不倫もビビリも奥さんのこともファッションセンスがダサいくせに変にカッコつけていることも満足にイジれないのです。そのくせ自分はそのバリアの中という安全な位置から他の芸人をイジりまくるので、対等なプロレスができておらず、一方的なイジメに見えてしまって笑いを阻害する(=宮迫から一方的にイジられている芸人がかわいそうに映ってしまう)というとんねるず化現象が起きています。
色々なことができすぎる反面分かりやすく突出した武器があるわけでもないので器用貧乏の誹りは甘んじて受ける必要があるでしょうし、コント向けの敢えて若干クサさを醸し出す芝居がコント以外の局面では鼻につくこともあります。
しかし、あれだけ芝居もできて歌も上手くて誰かがスベってもきちんとツッコんでフォローできる芸人も珍しいのです。芸人として必要な「芸」の基礎がほとんど全ての分野で備わっているんです。そんな吉本の宝を、易々と手放してほしくはありません。
だから、これからはきちんと自分がイジられて笑いをとるという方向性の仕事も解禁していったらどうでしょうか。自分から敢えてヨゴれて、普段自分がバカにしているヨゴレ芸人の戦場に降りていき、一緒に泥に塗れるのです。そうやって仕事の幅を広げれば、吉本への貢献度も上がるかもしれません。そうすれば、首の皮がつながる可能性も上がります。
【あわせて読みたい】
2019年4月18日に放映されたアメトーークの最後に、同年2月14日に放映された「高校中退芸人」の回において「西成高校及び西成地区について事実と異なる発言や差別的表現があった」ことを理由に謝罪がされていました。
具体的にどういった内容が問題になったかは番組の公式サイトでも述べられています。長くはないので、以下に全てを引用します。
(以下、引用)
2月14日放送の「高校中退芸人」で、大阪府立西成高校および西成地区についての過去のエピソードを紹介した中に、事実と異なる内容や差別的な表現がありました。
西成高校について、「椅子が机と繋がっている理由は投げられないようにするため」「窓がガラス素材でない理由は、ガラスだと割る人が多いから」「トイレットペーパーを職員室に取りに行く理由は、盗まれるから」という内容を放送しましたが、これらの事柄を不良生徒の対策だとしたことについては番組側の確認が足りず事実と異なっていました。また「当時9クラスあった学年が卒業時には5クラスになった」としたことも誤った説明でした。そして、西成地区については「行かない方がいい地域」といった差別的な表現がありました。
こうした表現によって大阪府立西成高校と西成地区が問題のある学校や地域であるとの印象を与えてしまい、在学中の生徒、卒業生、保護者、学校関係者並びに西成地区の住民の皆様に多大なるご迷惑と不快の念をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。また、視聴者の皆様にも誤った印象を与える結果になりましたことをお詫びいたします。
(引用ここまで)
読んでいただければ分かるとおり、番組側が謝罪の理由としているのは「事実誤認及び差別的表現により、西成高校の関係者や西成地区の住民に不快の念を与えたこと」であります。ただこの内容だけでは、実際に「西成高校の関係者や西成地区の住民」といった直接のステークホルダーから抗議があったかどうかは明らかではありません。西成という地域の特殊性に鑑みて、大規模な抗議が為されないうちに先んじて謝罪をしてしまった可能性もあるでしょう。それほど、テレビで扱うにはセンスィティヴな話題なのです。
その点を措くとしても、今回の謝罪で言われているようにテレビが放映した笑いのコンテンツに「嘘」が混じっていること、またそのコンテンツにおける表現で傷つく人が出てくることはよくあることである。本稿は今回の謝罪問題を契機にこれについての私の考え方を示すものであります。
まず確認しておきたいですが、笑いをとるために嘘をつくこと自体が悪い、というわけではないはずです。上沼恵美子は「大坂城に住んでいる」というホラを吹きますし、エピソードトークの内容を盛ることは普通に行われていることです。嘘をつくという行為はそれ自体が笑いの素である「ズレ」を生み出すものであるため、笑いの世界ではむしろ武器として利用していくべきものです。そもそもコントでお芝居をするときは、自分の本心ではないことをさも本心であるかのように言うではありませんか。演技は、全てが嘘なのです。問題になるのは、嘘をつくことそれ自体ではありません。その嘘が、他人が大きく傷つけるような内容だったことが問題になるのです。
ただ、他人が大きく傷つけるような嘘もそれ自体が禁止されるわけではありません。松本はよく「浜田はヤクザだ」と言って笑いをとっています。通常この手の嘘を放映する場合、「この人が言っていることは嘘ですよ」と視聴者にもはっきりと分かってもらえるような演出をします。この演出は嘘つき(=ボケ)へのツッコミであると共に、嘘をついた人をおかしいと糾弾することで傷つけられた人をフォローする役割を果たします。
例えば、以下のようなものですね。
*「嘘をつくな!」というツッコミを入れる
*「※そんな事実はありません」というテロップを入れる
ただもちろんこういった演出も丁寧にやりすぎるとゴテゴテして「笑い」という主題がボケてくるので、スッキリと済ませたいものではあります。そのため、嘘の内容そのものが荒唐無稽で視聴者もそれを聞くだけですぐに嘘だと分かる、というようなものの場合、こういった演出を一切入れないこともあります。「浜田はゴリラと人間のハーフ」というような松本の発言は、一例です。
今回のアメトーークの場合、スタッフ側としては話の内容そのものが荒唐無稽であるがゆえに視聴者にも「嘘だ」と分かってもらえると思って敢えて大した演出をしなかったのかもしれません。ただ、特に何も考えずに無配慮なOAをした可能性もあり、OAを見ただけでは断定ができません。いずれにせよ、「(事実誤認とされた問題の発言が)嘘であると分かってもらえない」と考えた視聴者がいた(あるいは、番組側が「いる」と考えた)からこそ、謝罪にまで発展してしまったのでしょう。確かに、視聴者はOAを見て嘘だと断じてくれるような分かりのいい人ばかりではないので、作り手と視聴者のこの認識のズレが今回のような問題の根本にあるのは間違いありません。
ただ本稿で勧奨している「『この人が言っていることは嘘ですよ』と視聴者にもはっきりと分かってもらえるような演出」というのは、あくまで今回のような問題の発生をできる限り事前に予防するための対策であって、笑いたい人と傷つきたくない人との利害対立を緩和する調整弁のようなものでしかありません。私個人は他人を傷つけるような形で笑いをとることが(現時点では)いいとも悪いとも言うつもりもありませんし、言いたくはありません。
笑いというものは、多かれ少なかれ、本質的に対象を蹴落とすことで自分がいい気持ちになる感情・現象なので、その感情の発露によって傷つく他人が出てくることは(とても根源的な部分で)不可避であります。少人数での会話や陰口で笑いが起こる時は傷つくであろう他人への配慮は通常為されません。ただ、テレビのような大多数の目に触れるメディアでは、同じようにはできません。笑われることによって傷つく人もそのメディアに触れる(そして、実際に傷つく)可能性が大いにあるので、何らかの配慮が必要です。
笑いのコンテンツとしてテレビを含めたメディアに表出しているのは、笑いたい人と傷つく人との間で何とかかんとか調整の利くごく一部の内容だけなのです。だから、テレビで笑いを扱うという営為はどこまでいっても綱渡りになってしまうのです。作り手が攻め過ぎた結果、受け手(視聴者)から反発を食らうというのは日常茶飯事です。今回は、この調整がうまくいかずに摩擦が生じた(あるいは、摩擦の発生を番組側が予期した)ということでしょう。テレビが笑いを取り扱う以上は、この「調整」のプロセスとそれを適切に行うためのバランス感覚は不可欠なものです。
今回のアメトーークの問題に関して言えば、(ここまで述べてきたように)笑いという表現において本質的に摩擦の発生は避けられないものである以上、メディアにも芸能事務所にも(そしてスポンサーにも)、実際に「事実誤認」とされる発言をした芸人の未来をこの問題だけで閉ざすような対応はしないでいただきたいです。今回の問題は笑いをメディアで取り扱う以上不可避的に生じるとても根深いもので、今後も笑いのコンテンツを提供し続ける以上コンスタントに発生する問題です。
前述のとおり、コンテンツの作り手であるテレビ局は、この問題に今後も向き合い続けなければいけません。発言者の芸人だけに責任を負わせるトカゲのしっぽ切り的な対応で解決できる問題ではないのです。何より、最終的な責任は確実にあの発言を容認して(カットせずに)放映したテレビ局の側にあるので、一芸人のせいにして逃げ回るのはとてもカッコ悪いです。
そういう対応をしたら演者たちも「今後テレビ局は何かがあっても守ってくれないんだ」と思って萎縮してしまうので、ますますテレビがつまらなくなってしまいます。少なくとも私個人は、これ以上テレビにつまらなくなって欲しくありません。
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2019年2月27日に放映された「水曜日のダウンタウン」の1企画としておぼん・こぼんというベテラン芸人の解散ドッキリが行われていた。これに対して賛否両論巻き起こっているようなので、筆者個人の考えを記しておく。
ドッキリではおぼんの方が仕掛人となり、こぼんにウソの解散話を持ち掛けていた。それに先立って同じ漫才協会に所属するナイツが「2人の仲が現在非常に悪くなっており、8年間私語を交わしていない」というエピソードを紹介して、視聴者の緊張を高めていた。
実際におぼんが解散を持ちかけるとこぼんは喧嘩腰でこれに応じ、両者はエンターテインメットでは扱わないようなマジ喧嘩を始めてしまった(流石に、演技には見えなかった)。本当にそのまま喧嘩別れで解散しかねない勢いであったが、現場でモニタリングしていたナイツが事情の説明に入り、なんとか事なきを得たという展開であった。スタジオの小籔とダウンタウンが必死のフォローを入れてなんとか形にはしたものの、後味の悪さだけが残る映像であった。
はっきり言うが、笑いのコンテンツには全くなっていなかった。そして、「笑い」以外のエンターテインメントになっていたかというと、それも怪しかった。私も、個人的に見ているのが辛いレベルの映像であった。
ただ、お互い嫌い合って喧嘩をする人間たちの「醜さ」というものは存分に出せていたとは思う。そして「水曜日のダウンタウン」という番組(と、藤井健太郎という作り手)は、笑いを提供することを第一目標とはしておらず、人間の弱さ・汚さ・醜さを画面上に析出させることを第一目標にしている節がある。クロちゃんの醜さがこれでもかと炙り出され、プレゼンターのたむけんも「ほぼホラー」と評していた『MONSTER HOUSE』や、大トニーが絶叫してスタッフに悪態をつくという「禁じ手」をやってしまった「ジョジョの鉄塔」企画なんぞはその最たるものであろう。藤井氏が以前に手掛けた「カイジ」という番組も「人間の醜さを炙り出す」という趣旨で作られた企画だと思われる。笑いは、あくまでその中で副次的に生み出されるものに過ぎない。
筆者は笑いを分析する物差しは持っているが、それ以外の表現を分析する物差しは大したものを持っていない。だから「醜さを出せていたか」という観点からの詳細な分析はできない。「十分出ていたとは思う」とは記したが、それ以上に中身のあることは言えない。「笑い」がどれぐらいできていたかの分析は(ある程度)できるので実行するのだが、それ以外の分野については物差しがない以上あまり無責任な評論もできないし、するつもりもない。
この番組が主題として取り扱っている(と思われる)「人間の醜い部分」がエンターテインメントになるかというと、私はならないと思う。人間の弱さ・汚さ・醜さを前面に出されても、基本的には正視に堪えない映像ができ上がってしまう。「自分もこうなのではないか」と身につまされる部分があると視聴者に自己嫌悪の感情も出てきてしまうため、尚更見ていられなくなるだろう。ただ、テレビ局が作っているテレビ番組という商品(もっと正確に言うと、「テレビ番組の合間に広告を出す権利」という商品だが)の買い手はあくまで視聴者ではなくてスポンサーなので、それを買ってくれるスポンサーがいる限り番組は成立し、存続する。そこはわざわざ止めるようなことではないと思う。
確かに私個人も、クロちゃんや今回のおぼん・こぼんのように、具体的現象として立ち現れた人間の醜さをまじまじと眺めるのは苦手である。とはいえ私も人間は所詮弱くて汚くて醜くて徹頭徹尾自分自身のことしか考えていない利己的な動物だということは確信しており、その点については知的興味もあるので、折に触れて自分のウェブサイトでもそれを発信しているつもりである。
他方で今回の企画を「おもしろい」「素晴らしい」と称賛する声も少なくないようであるが、注意して中身を吟味した方がいい。水曜日のダウンタウンはこれまでに独創的な企画やおもしろい企画を数々世に送り出してきた番組であるため、現存しているテレビ番組の中で(「ほぼ唯一」と言っていいほどの)絶対的な権威を獲得している。今回の企画も、その「権威」がやったことだから無意識に擁護されてしまっている面は大いにあると考えられる。タレントや番組制作者が擁護意見を言っている場合は、もっと注意した方がいい。彼ら彼女らは「水曜日のダウンタウン」関係で仕事をもらえればお金になるため、むやみに番組を非難するのは難しい。すなわち、擁護意見を言うもっと直接的な動機があるのである。
ただそうやって権威や多数派やお金の出どこに無意識にすり寄ってしまうのも、まさに番組が伝えたがっている人間の弱くて、汚くて、醜い習性である。そういう反応を炙り出すことをも狙ってのOAだったというのは、考え過ぎか。
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3月10日にフジテレビ系列で放送された「R-1ぐらんぷり2019」。
筆者がこれまで何度も同じことを言っていますが、R-1はあくまで「ネタのおもしろさを競う大会」です。そして、「ネタ」という手法は、笑いを生み出す手法としてはさほど優秀ではありません。基本的には台本がガチガチに固められたものなので、アドリブの意外な展開や、天然ボケのおもしろさには決して敵いません。
まして、R-1における審査対象は演者を自分1人しか使えないピン芸です。2人以上の演者が使える漫才やコントと較べても、できることは大幅に制約されます。筆者は「一番おもしろいものとは何か」をずっと探求していますが、R-1を含めたネタや賞レースの中ではそれは見つからないということだけははっきりしているのです。
もちろん、R-1やネタという手法にに存在価値がないわけではありません。R-1みたいな賞レースやそこで競われているネタの存在価値は主に3つです。
(1)「一番おもしろいもの」ではないにしても、それが好きな人は(少なくとも商業的に成り立つ規模で)存在するので、その人たちに向けてやればお金が儲かる
(2)芸人が自分の芸や実力をトレーニングする材料になる
(3)芸人の実力をクリエイターが見極める機会になる
これは、Jリーグで例えると分かりやすいことに最近気が付きました。Jリーグは、世界最高峰のサッカーが展開されているわけではありません。それでも、Jリーグに存在価値がないということにはなりません。
(1)ファンは商業が成り立つ規模で存在するうえに、(2)選手がJリーグで試合に出ることで自分の実力を磨けて(そして、磨き続ければいずれは世界最高峰の舞台に行ける)、(3)Jリーグでのパフォーマンスを通して選手の力量をスカウトたちが品評することができます。そういうことです。
逆に言うと、ネタにも賞レースにもそういう存在価値しかありません。あくまで「一番おもしろいもの」を作り上げていく過程でのファームに過ぎないので、ここで最高峰の笑いが展開されているというような宣伝広告は羊頭狗肉が過ぎます。もっとはっきりと言えば、嘘です。
作り手も受け手(視聴者)もそういう自覚を持ったうえでネタの品評に臨みましょう。
なぜ視聴者にまでその自覚を要求するかと言えば、今年のスタジオの観覧客の笑い声がかなりうるさかったからです(これは、色々な人が指摘していることですが)。特に笑いどころでもないところ(前フリやネタ冒頭の設定の説明の段階)で笑い声が入ったり、拍手や歓声がかなりの頻度で(それも大音量で)巻き起こったりして、ネタへの没入を阻害してきました。
エンタの神様や通販番組の客みたいで、不自然なんですよね。生放送のはずなので、後から足した笑い声ではないと思います(と思いたいです)が、もっと静かなお客さんで固めた方がいいと思います。
枕はこれぐらいにして、各ネタの寸評に移ります。
<1:チョコレートプラネット・松尾>
松尾が最近テレビでよく披露するIKKOのモノマネ芸でした。松尾扮するIKKOが、一休さんがとんちで対抗した「虎を屏風から出してくれ」という要求に挑むというネタです。
全体的に、IKKOの普段の言動をよく知らないとあまりピンと来ない感じがしました(なので、ものすごくウケている客席に早くも違和感を覚えました)。モノマネのネタとして切り取っている部分がそれほどおもしろくない(=それ自体でズレを生んでいるわけではない)からです。
松尾のモノマネはかなり似てはいるのですが、こすりすぎなのでムチャクチャ似ているだけでおもしろい段階はとうに通り過ぎています。もっと、それ自体でズレを生んでいるIKKO本人のおもしろいシーン(その場でツッコミを入れれば笑いが起きるようなIKKOの言動)を切り取ることを意識した方がいいでしょう。 あと、声を張らない時のしゃべりはあんまり似てないと思います。そこも改善した方がいいですね。
<2:クロスバー直撃・前野悠介>
「2つの壁と壁の間を通った者が何かを当てるクイズ」というネタでした。最初のボケは「焼きそばに見えるものが実は皿に盛った輪ゴムだった」というものだったのですが、このテイストのボケはこの一発目だけで、あとは自作の珍妙な小道具の紹介に終始していました。
この小道具はいずれもかなりトリッキーなものだったので、ネタの好みはハッキリ別れるかと思います。トリッキーさにツッコミが入ればそれなりにオーソドックスな笑いはとれるのですが、ピン芸なのでそれは無理か・・・(自分のボケに自分でツッコんでもおもしろくない、というのは笑いの鉄則です)と思っていたら最後の最後にこの小道具をメルカリで出品した際に他のメルカリ利用者から入ったツッコミが紹介されていました。
ただ、オーソドックスな笑いをとりにいく場合、小道具がトリッキーすぎるゆえにツッコミが「なんやねんそれは」みたいなワンパターンなものになってしまうので、袋小路に追い詰められたネタだと思います。
個人的には、一番最初の「焼きそばに見えるけど実は輪ゴム」というテイストのボケが一番好きです。私はこのテイストでネタ全体を固めて欲しいですが、本人としては小道具を出したいんでしょうねえ。難しいですねえ。
<3:こがけん >
「歌が上手くなるマイクを買ったはずなのに、このマイクを通すとどんな音楽でも80年代洋楽風に歌わされてしまう」という設定のネタです。
根本的な問題として、こがけん自体の歌がもうちょっと上手くならないと説得力に欠けると思いました。あと、どうせならもっと伏線を張り巡らして、「ある曲での歌わされ方を別の曲でもしつこく出す」、みたいなクダリを入れて欲しかったです。ただまあ歌が全部英語になってしまうので、印象的なフレーズにしていかないと「さっきの歌でも出てきたやつだ」ってなかなか気付いてもらえないと思いますが。
<4:セルライトスパ・大須賀>
寝入った乳児の娘を抱いているという設定の下、ささやき声で世の中のおかしな点にツッコミを入れていくというネタです。つぶやきシローのネタに似てますね。
一つ一つのツッコミに共感できるか、それがささやき声という設定とマッチするかがキモになってきますが、ここは完全に個人差があるので云々しません。 ただ一つ一つのツッコミがぶつ切りでただの足し算のネタになっていました。事前に台本を考えるからにはこの時点で満足せず、天丼みたいな伏線を随所に入れ込んで欲しいんですよねえ。
<5:おいでやす小田 >
「金持ちになったけど金持ちの風習に馴染めない人」を演じつつ金持ちのおかしなところにツッコミを入れていく構造のネタです。成金を皮肉りたかったのかどうかは分かりませんが、構造は(4)大須賀と一緒なので、コメントも同じです。事前に台本を考えるからにはもっと練って、天丼みたいな伏線を随所に入れ込んでください。
<6:霜降り明星・粗品>
去年のR-1決勝で披露したものと完全に同じテイストのフリップ芸でした。フリップに描かれたボケに粗品が一つ一つツッコミを入れていくという構造です。
一つ一つに共感できるかはやっぱり好みの問題なので、そこは何もコメントしません。ただ去年も指摘した「フリップの絵が下手」という問題点が改善されていません。部分的に上手い所もありましたが、かえって下手な絵とのギャップが気になってネタに集中できませんでした。外注するなら全部外注する、という一貫性が大事だと思います。
それから、粗品は衣装としてパジャマを着ており、最初に「夢って……なんか変ですよね」と言ってからネタを始めるのですが、その設定フリとその後のネタの展開との関連性がよく分かりません。フリップに描いてあることは全部夢で見た内容だということなんでしょうか(そうだとしたら、オーソドックスなボケばっかりだったのであんまり夢のカオスさが出ていないと思いました)。
やはり、(4)大須賀、(5)小田と同じで、事前に台本を考えるかにはもっと内容を練って、前後に関連した似たようなのを入れ込むとか、天丼とかをもっと意識してください。ボケフリップ→粗品のツッコミ→それを受けて改善されたけどきちんとツッコミが反映されていないボケフリップ→「そういうことじゃないねん」みたいなツッコミをもう1回入れる、みたいなのが一番いいです。時間差を入れるとなおいいです。
例えば(あくまでも「例えば」ですが)今回のネタだと「31というメガネをかけた人」のフリップに粗品が「それ平成でやらんねん。西暦でやるねん」という趣旨のツッコミを入れていました。これをこのワンストロークで終わらせずに、何個か別のフリップを挟んだ後に「2019」の「19」部分をメガネにしている人のフリップを入れる、とかいったことは考えられます。このフリップに対しては、「西暦になったけども!」「真ん中の数字にせいや!」というツッコミを入れるんです(しつこいようですが、全く例えばの話です)。
違うボケの端っこにこの31メガネの人を再登場させる、みたいなのもあり得るかと思います。そもそも、こういう重層的な構造を入れやすいかどうかでボケフリップの内容も考えていくべきなのです。たまにフリップに折り畳まれている部分があったりして、重層的なボケもなくはなかったのですが、不十分です。時間差のあるような重なりはありませんでした。
<7:ルシファー吉岡 >
教師役の吉岡が生徒に語り掛けるという設定はおととし本人が披露したネタと一緒でした。 吉岡の演技は堂に入っているとは思いますが、やっぱり「このコントは一人でやるのが最良の方法なのか」ということは疑問に思わざるを得ませんでした。生徒役がいた方が、分かりやすくないですか? 生徒役を捜索・選考する手間、ネタ合わせをする手間をサボっているだけではないですか?
1人でやった方がおもしろいという結論に達するまで、とことん自問自答して考えてみましたか? 少しフォローすると、個人的には「女子高生は、朝みんなに会った時に、『おはよー』って言ってきます」という台詞が今年のR-1で一番おもしろかった瞬間でした。
<8:マツモトクラブ >
この人がいつもやる「録音と会話する」体のネタです。人間が嘘をつくと吠えるイヌを連れている友人と行き会ったという設定でした。
本人が演じる人物は見栄を張って嘘をつくせいでイヌに吠えられまくるのですが、後半には吠えないパターンという裏切りを入れてくるのも流石です。 オチは「そんな気分じゃなくなったよ」に吠えさせてもいいとは思いましたが、好みの問題です。
<9:だーりんず・松本りんす>
かぶったカツラをとったり戻したりしてハゲが見えそうになるヒヤヒヤ感を楽しむネタです。同じ事務所のアキラ100%のネタと似ています。 股間と違って見えてもいいものなのでいっそハゲを見せちゃった方が大きな笑いが起きるのではないかとも思いましたが、松本本人が男前なので引かれるような気もします(本人は、色々試したうえで今のスタイルにしているのだとは思います)。
あと、見せちゃうとそれ以上の展開がなくなってしまうので、それをやるとネタ自体がすりつぶされてしまうという危惧もあるのかもしれません。
<10:河邑ミク >
大阪のおかしなところにツッコミを入れるやすともみたいなネタです。多分、ツッコミの一つ一つはレベルの高いものが揃っていると思います。河邑本人も大阪出身らしいのでやすともと同じく地元民による自虐の構造にはなっているのですが、ネタでは標準語でしゃべっているし「大阪に引っ越していく」という設定から始まるので、地元民だということは伝わってきません。
少し、嫌な感じが出てしまうのは問題だと思います。イジりイジられの文化がある大阪をイジっているからこそ、それでもギリギリ成立しているような気もします。 「ノリツッコミって言うんだって」は今年のR-1の中で2番目におもしろかったです。
<11:三浦マイルド >
広島弁でボケていくフリップ芸です。(4)大須賀、(5)小田、(6)粗品と一緒で、もっと伏線を張り巡らせて練った複雑な台本を作ってください。東南アジアに行った校長先生は2回登場しましたが、あれだけでは不十分です。
<12:岡野陽一 >
鶏肉を生前よろしく風船で飛ばそうとする狂気的な人物のコントです。 もともとこういうテイストのネタが得意な人だとは思いますが、ピンになってからの方が生き生きしている感じはします。ただ、狂気を出したいんだったら足りないとは思います。
鶏肉→生前は飛んでいた→だから飛ばそうとする という思考の因果律ははっきりしていて論理的ですからね。本当の狂気においては、この因果律が破綻していて論理的に成り立っていないはずです。それはもう、おもしろいという範疇を超えてしまう可能性はありますが。
以下、ファイナルステージの寸評です。
<1:セルライトスパ・大須賀 >
設定は変えてきましたが、「声を出せない状況でささやき声でツッコミを入れる」という基本線は1本目と同じでした。1本目でウケた下敷きのクダリをもう1回入れてきたことは流石ですが、もっとこの手の時間差の伏線を張り巡らせてください。
<2:霜降り明星・粗品 >
1本目と同じテイストのネタだったのでコメントも一緒です。 コナンやバンクシーの絵だけ上手いのが不思議ですね。絵を何枚も描くうちに「誰かが描いた絵の模写」だけは上手くなったんでしょうかね。他方で、「誰かが描いた絵の模写」ではない場合はまだまだヘタです。海の絵とかは棒人間だらけだったので悲しくなってきました。あそこは1人1人ちゃんと描いた方が確実におもしろくなります。
それと、フリップを床に捨てるのではなく用意した机に置いていたところは物を大事にしている感じが伝わってきて好感が持てました。
<3:だーりんず・松本りんす >
この人も1本目とやっていることは一緒でした。特に追加で言うことはありません。
最後に「総評」です。
優勝は「霜降り明星・粗品」でした。決勝では大須賀が同数の審査員票を獲得していたので文句なしの優勝という感じではありませんでしたが、それでもみんなM-1優勝という肩書に騙されている気もします。もちろん、芸人はそういう肩書も実力のうちなので、それを言っても始まらないですね。
顔や名前が売れていたり世間に広く浸透している肩書やキャラクターがあったりする人はそれをフリとして使える分、有利なのです。
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「チコちゃんに叱られる」というNHKの番組が人気である。最近の視聴率も本放送で15%前後という高い数字で推移しているようである。
テレビ番組はエンターテインメントであり、エンターテインメントとは人の正の感情を呼び起こして満足させてくれるものである。いくつかあるその「正の感情」の中でこの番組がエンターテインメントとして対象としているのは、疑いなく「知的好奇心」である。
番組の核となっているのは、「さして、疑問を持たず、人間(日本人)の実生活に溶け込んでいるものの、よく考えてみるとなぜそうなっているかが気になるもの」である。直近の1月4日放映分からいくつか例を挙げると、「なぜホコリは灰色なのか」「鯛焼きはなぜ鯛なのか」といったようなものである。ただこの手の知的好奇心を満たすだけの番組であれば他にいくつも例がある。
同局の「あさイチ」や「ためしてガッテン」に代表されるような情報バラエティだって、取り扱っているのは「お得な情報」であり、満たしてくれるのは人間の知的好奇心である。
この番組が他と違うところは、知的好奇心以外にもう一つ人間の「正の感情」を題材としている。それが、(ビシッとした言葉がないのが恐縮であるが)、「他人が怒られているのを見るのは楽しい」という感情である。終了した番組だと「愛の貧乏脱出大作戦」とか「ガチンコ」とか「マネーの虎」とかが代表的であるが、昔から他人が怒られているのをエンターテインメント化した番組というのは数多くあったのである。人間は、自分を安全な位置に置いて他人が怒られているのを見ることで自分にプラスの感情が生じる醜い生き物なのである(「醜い」というのは評価なので、そのような人間を「醜い」と評価するかどうかは人それぞれではあるが)。
これはおそらく、怒られている他人と、直接怒られているわけではない自分を対比することで、自分が怒られている彼らより上だと認識できるからである。「チコちゃんに叱られる」でも、まずは取り扱う「疑問」をスタジオに出演しているゲストの芸能人に聞く。彼ら彼女らは、基本的に正解を出せない。次に、テーマである「疑問」を街の一般人に聞いてみる街頭インタビューの映像が必ず入る。このインタビューに答える人たちも、当然ながら正答を出せない。これらスタジオの芸能人やインタビュイー達は「ボーっと生きてんじゃねーよ」とチコちゃんに怒られる役回りであり、視聴者に下に見てもらう対象である。
実のところ、視聴者も正答を出せないことの方が多いと思われるので、チコちゃんの怒りや叱責は視聴者にも向けられている。本来、エンターテインメントでは受け手(視聴者)に負の感情を呼び起こすのは御法度である。それでもなぜこの番組がエンターテインメントとして成立しているかといえば、番組がスタジオの芸能人やインタビュイーの一般人を視聴者よりも一段階下げて扱っている(=より正確に言えば、視聴者がそのように思える構造を構築する演出に注力している)からに他ならない。
芸能人の方は、分かりやすい。彼ら彼女らは一般人の視聴者よりも知名度と財力がある人たちなので、視聴者は「彼ら彼女らのような知名度・財力がある人たちであれば知っていて当然」と思えるのである。実際は彼ら彼女らの方が物を知っているというのは完全なフィクションなのだが、少なくともそのように勘違いできるのが人間なのである。知名度や財力といったヒューリスティクスから人間の能力まである程度の判断をしてしまう人間の認知の歪み(これも人間の「醜さ」の一つ)をうまく利用しているのである。
もう一つの街頭インタビューの方にも同じ構造がある。インタビューに出てくるのは、決まって「正解を知ってそうな条件を満たしている人たち」だからである。例えばクリスマスがテーマの疑問であれば、クリスマスのイルミネーションを見ている人たちにインタビューを敢行し、視聴者が「イルミネーションを見ていない俺たちであれば知らなくても当然だな」と思える感情の逃げ道を用意しているのである。
実のところ、イルミネーションを見ていない視聴者もイルミネーションを見ている街の一般人と同じくらいクリスマスを楽しんでいるかもしれないので、これはあくまで見ている側にとっての感情の逃げ道でしかない。ここでも番組は、視聴者にヒューリスティクスによる単純化された判断をさせているのである。もっと具体的に言えば、「イルミネーションを見ている奴の方がクリスマスに詳しい」と無意識のうちに納得をさせているのである。それを助けているのが、街頭インタビュー映像の最後に決まって入る「○○のなんと多いことか」というナレーションである。
イルミネーションを見ているか、見ていないかという程度の違いで自分のことを棚に上げられる人間の感情もやはり「醜い」ものなのであるが、番組はこの醜さを利用して「チコちゃんの怒りは自分に向けられたものではない」と視聴者が思えるような構造を作り出し、絶妙なバランスでエンターテインメントとして成立をさせているのである。だから、例えば「チコちゃんに叱られる」を毎週見ている番組ファンにこの手のインタビューをやるのは厳禁のはずである。これをやると、視聴者は自分が怒られていると思ってしまう。自分が怒られていると思って番組の視聴を不快に感じたら、エンターテインメントではなくなってしまう。
この基本構造を押さえたうえで、番組はこれを笑いとして昇華している。チコちゃんの怒りもあくまで本意気の怒りではなくて、笑いを呼び起こすためのツッコミとしている。「5歳の少女」というチコちゃんの設定も、チコちゃんの怒りや毒を中和し、容赦してもらうための材料である。子どもの言っていることであれば、内容が生意気でも何となく大目に見て許してしまう人間の心の構造を利用しているのである(これは、クレヨンしんちゃんで毒を吐くしんちゃんと同じ構図である)。
それでも毒が過ぎることがあれば、毒を吐かれた人にフォローを入れて更なる中和を図るのが岡村の役目である(もっとも、それはスタジオの出演ゲストでもできることではあるので、未だに岡村の立ち位置はフワフワしたものになっている。番組が長く続けばもう少し変わってくるかもしれない)。
番組は他にもいろいろな手段で笑いを生み出そうとしている。取材に協力してくれた専門家たちもツッコミどころがあれば容赦なくイジる。関係ない話が長くなればVTRをブツっと切ってしまう。疑問に答えるためのハイクオリティな寸劇やパロディがたくさん入る。このあたりは、「トリビアの泉」と演出がそっくりであるが、何のことはない。作っている人間が共通しているようである(番組のプロデューサーの小松氏は従前フジテレビの従業員であり、トリビアにも関わっていたそうである)。
ただ、トリビアが終わってしまったように、雑学や豆知識を核とした番組は、いずれネタ切れが来る。直近放映分にも最後の最後に「諸説ある」という注釈が入っていたものが多かったが、これはネタが切れ始めていることの証左である。初期は、きちんとウラが取れるネタだけで固められるかもしれない。そして、それが一番安全である。
しかし、いずれそういった固いネタだけでは限界が来る。そのうち、甲乙両論あるうちのどれか一つを「正解」として扱わなければならないネタが増えていくだろう。番組の核はあくまで「知的好奇心」なので、正解を何とかひねり出さなければエンターテインメントとしては成立しない。「よく分かっていません」という結論では、大学の講義にはなっても、エンターテインメントにはならないのである。当然ながら、オンエアの背後には取材しても答えがよく分からなかった「没ネタ」が山のようにあるのだろう。
この番組はたまにそのような没ネタすら自虐的に取り扱うことがあるので、そのあたりにもトリビアと似た精神構造を感じるが、それはあくまで箸休めに過ぎないので、本ネタを用意し続けなければ番組が続かないというのは揺るがないことである。
私は、ネタが切れたらスパッと番組を終わらせる潔さをもっていて欲しいと思っている。ジタバタして番組の晩節を汚して欲しくはない。一番ひどいのはネタ切れを糊塗するためにネタを捏造した結果、それがバレて番組が終わってしまう、というパターンである。これは、それまでの優良番組としての歴史をも全て闇に葬ってしまう最大の愚策である。
すでにもう、諸説ある中での一番おもしろいやつ、一番演出しやすいやつ、一番寸劇が作りやすいやつを「正解」として扱うというような演出上の取捨選択をしてはいないだろうか。ここにも「おもしろさのために正確さを後退させる」という嘘がある。捏造はこの延長線上にあるので、決して異質なものではない。よくよく、気を付けて欲しい。
ところで、チコちゃんの声を担当しているのは木村祐一である。木村の回しも、見事である。ただ見てくれが木村本人であったら苦情の方が多くて続けられなかったと思う。見た目や年齢といった設定そのものをプロデュースされた状態で世に送り出されたのがチコちゃんというキャラクターなのである。見た目や年齢も人気を獲得するうえでは非常に重要なので、今後もっとテレビの世界にもこういったキャラクター(タレント)が増えていくだろう。
ネットの世界にはすでにVTuberというものが存在している。人気のために見た目をイジるという発想はチコちゃんと一緒である。初音ミクに人気があるのは、美少女としての見た目を最初に設定してしまったからである。声も見た目も含めた全ての要素を人気が出るようにイチから作り上げられたバーチャルなタレントが登場する未来は、そう遠くあるまい。こうやって見た目で物事を判断してしまうのも、人間のヒューリスティクスであり、「醜い」側面のひとつである。
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12月2日、2018年「M-1グランプリ」(テレビ朝日)の決勝大会。もう同じことは言いません。M-1は、ショウではなくて、あくまでコンテストであって芸人の品評会として見るべきものです。なので、この原稿でも、あくまでネタと芸人の品評に徹します。最後目に涙を浮かべていた松本にちょっともらい泣きしそうになっているので、これ以上M-1やネタという手法を腐すようなことはもう言いません。評者も、人の子なのです。
テレビ局がテレビで品評会をやる以上、どうせならテレビで売れる人に優勝して欲しいというのが私の思いです。M-1はこの手の品評会の嚆矢にして親玉である以上、R-1やキングオブコントみたいな後追いの優勝者が次々と崖から転がり落ちていったのに比べれば、まだまだ優勝者の面々に他の追随を許さない格がありました。ただ、2016年優勝の銀シャリ・2017年優勝のとろサーモンのことを考えると、優勝者の格がだんだんと落ちてきてはいないか、それに伴ってM-1という大会の権威も続落していないかというのが最近の筆者の懸念でありました。
そもそも芸人が今のテレビで売れるには何が必要かというと、少なくとも以下の3つのうちの1つが必要です。
(1)アドリブ力(台本で予定されていなかった事象が大なり小なり生じてもディレクターが望むような言動を行える力)
(2)天然
(3)強いキャラクター
これは、M-1で試される漫才の能力(台本を考える大喜利力・漫才の登場人物を演じる演技力・台本を維持する記憶力としゃべくり能力みたいなもの)とは必ずしも一致しません。だから、M-1で優勝した人がテレビで売れないという乖離現象が生じるのも無理からぬことであります(だからこそ、私にM-1というものの存在意義に毎年疑問を呈しているのです)。
とはいえどうせ日曜ゴールデンの貴重な時間に尺をとって品評会を続けるのであれば、きちんとテレビで売れる人を優勝させて、「M-1」というブランドの格と権威を保ち続けて欲しい。次代のテレビを担う人材を発掘・発見し続けて欲しい。これが筆者の思いであります。
私がそういう目線で今大会を見ていたことを踏まえて、以下の寸評にお進みください。
<M-1ファーストラウンドの寸評>
1.見取り図
上沼は前半が「古い」と言っていました。確かにツカミはツッコミの盛山のデブイジリでしたが、盛山の見た目がデブであるとは分かりにくい(=ぱっと見デブには見えない)ので、これをやるならそのへんをもっと分かりやすくした方がいいです。ボケのリリーの、ポーカーフェイスでボケていく能力は高いです。ただ盛山のツッコミは声が甲高いからかなんなのか台本を読まされている感が抜けないので、もっと演技力を磨いて欲しいと思います。また、時間差で過去のボケをツッコんでいくやり方は、4分という短いネタ時間の中でやられるとどうしても面食らってしまいます。もっと時間をとれる場でやった方がいいと思います。
2.スーパーマラドーナ
田中と武智が同じ舞台設定でコント風に漫才をやっていました。サイコパス風のヤバい人どうしの対決という設定は新しいと思いますが、二人ともサイコパスとしての説得力を持たせるほどの演技力がありません。設定に負けています。田中はボケ役なので、まだヘタクソさも「そういうキャラなのかな」と思わせる逃げ道がありますが、ツッコミ役の武智の大根は言い訳ができません。
3.かまいたち
ブラマヨ風の喧嘩漫才でした。よくしゃべる変な人を山内がきちっと演じられています。ただ山内が演じていた「タイムマシンで過去に戻ってやりたいことの第一希望が『ポイントカード作成』である人」っていう設定がそこまでおもしろくありません。なんでしょうね、「せっかくタイムマシンができたのにそんな願い事でいいの?」っていう大喜利のお題に対する回答として「ポイントカードを作る」っていうのがそんなにおもしろくない、という感じです。
山内がそれを言った時にもあんまり笑いは起きていなかったし、そのあとそれをもとに喧嘩を続けられても少し上滑りしちゃうんですね。この山内の希望をバラすクダリはツカミにもなるので、大喜利の回答としてもおもしろいものを用意できたら最高だと思います。当然、その後のネタの展開のしやすさとの兼ね合いもあるので、大喜利の回答としておもしろければそれでいいというもんでもないですが、両奪りができたら理想的だということです。
4.ジャルジャル
全然、毛色が違うネタでした。他のグループと同じ土俵で点数を付けなきゃいけない審査員がかわいそうでした。まあ、「ゼンチン」や「ドネシア」の語感の楽しさだけで最後まで突っ走っていて、変化はあまりありませんでしたが、もっと長くやってもっと変化を見せて欲しいです。あと、フリもウケもアドリブにして遊んでみたいです。長くやれば「ゼンチンじゃなくてジェリアだろ」とか、「トラリアじゃなくてリアだ」みたいな変化球のボケも入れられると思います。
根本的な問題として、富澤のコメントが一番芯を食っていて残酷でしたが、このネタであれば演じるのはジャルジャルじゃなくてもいいんですね。ある程度華のある漫才師であればこの手のネタでも個性や色気みたいなものが出るもんですが、後藤も福徳もどうも地味ですね。それはやっぱり、4分という短いネタを台本ガチガチでやっているというところにも起因していると思います。アドリブでフッて追い込んだり、長いことやらせて疲れさせたりすれば、2人の個性も滲み出てくるかと思います。
5.ギャロップ
しゃべりは、2人ともウマいです。林のハゲも活きていたと思います。ただ、合コンにハゲのオッサンが一人だけ混じるっていう設定は手垢塗れです。寄席で見る分にはいいんでしょうけど、M-1で勝ちを狙える設定ではないと思います。
6.ゆにばーす
去年よりダメでした。複数の審査員が言っていましたが、ツカミが全然ウケていませんでした。「見た目家で爆弾作ってそうな奴」も「実行犯」も「爆乳清宮くん」もそんなにウケていませんでした。「ヘドが出るわ!!」に至っては、ツッコミも入ったのに客席が静まり返っていました。
これは、何でと言われても分からないので、運が悪かったとしか言えないです(「清宮くん」はちょっと古いのかな? あと、オール巨人が言っていたように、「ヘド」は言葉が強すぎる可能性があります)。そういうことは起きるので、普通は事前に試しておくものですが、1回試してウケたものが別の場ではウケないということも間々あるので、そうだとしたらやっぱり運が悪かったとしか言いようがないです。
ツカミがウケなかったのでその後もずうっとフワフワしていましたが、川瀬にはらの変なキャラを捌ききれるほどの演技力がありません。山ちゃんは、ちゃんとしずちゃんを捌けるんですけどね。
7.ミキ(敗者復活組)
正統派のしゃべくりじゃないですか? 昴生のブサイクやデブをイジるのは、ギャロップと一緒で手垢塗れです。上沼は「こっちは突き抜けてるからいい」と言っていましたが、正直根本的な違いはありません。あるとすれば、好みの差だけであって、上沼の言っていることは「私はギャロップよりミキの方が好み」という以上の意味はないと思います。
これも寄席で見る分にはいいですけど、M-1で勝ちを狙えるネタではないと思います。
8.トム・ブラウン
「(サザエさんの)中島くん5人を合体させる」というかなりトリッキーな入りの漫才でした。ツッコミも変化球だったので(というか、あれはツッコミだったのでしょうか)、シュールな部類に入るのでしょう。ただ変な人を演じるには演技力が不足しているというのはスーパーマラドーナと一緒です。あと、「中島くん」も大喜利をちょっとかじった人であればすぐに思いつく手垢塗れの存在なので、設定上も狂気が足りません。結果、普通の人が変な人を無理して演じている感が抜けず、見ているこちらはどんどん真顔になってしまいます。
9.霜降り明星
せいやが一人でワ―キャー動き回りながら大声でボケていくのを傍で見ている粗品がツッコんでいくスタイルです。NON STYLEやおととしのスーパーマラドーナに似ているかしら。せいやは、誤解を恐れずに言えば、「学校にいるちょっとおもしろいお調子者の陽キャ」感が抜けません。多分、「その陽キャを教室の隅で睨みつけながら『俺はアイツよりはおもしろい』と思っている作家タイプの陰キャ」からの支持は受けられないのです(「大衆にはウケるけど玄人にはどうかなあ」という志らくのコメントもほぼ同じことを言いたかったのだと思います)。別にネタに出てきたボケがしょうもないわけでもなかったので、霜降り明星の大喜利力がこの陰キャに負けているわけでもないのですが、どうにもこのお調子者感が抜けないのです。
10.和牛
これも審査員が言っていましたが、優勝候補の大本命なのにスロースタートのネタでかなりハラハラしました。冒頭の設定の説明の中で出てくる「殺す」ていうワードがゆにばーすの「ヘド」と一緒でお客さんを若干引かせちゃうんですね。でも、ちゃんと決めてくるあたりは流石です。ネタ順が最後になったうえできちんと最後の3組に残ってくるあたり、持っています。今年のM-1の決勝で披露された13本のネタ(最終決戦の3本含む)の中でも一番おもしろかったと思います。最初ハラハラした分、そこがきちんとしたフリになっていて、水田が川西と一緒にゾンビになってしまったクダリでは声を出して笑ってしまいました。
<M-1最終決戦の寸評>
1.ジャルジャル
見たことあるやつでした。私は純粋に結構おもしろいと思うのですが、審査員は一人も票を入れていませんでしたね。やっぱり、ジャルジャルじゃなくてもできそうなのが問題なんですね。2人のパーソナリティが見えてこないのです。2人の演技力がないのが問題なのか、台本ガチガチなのが問題なのか。もっと長いことやって、アドリブもどんどん入れて追い込めば、2人のパーソナリティはもう少し出てくると思います。
2.和牛
不思議と私はそんなにおもしろいと思えませんでした。実の親に振り込め詐欺的な電話をかけて騙す水田をあそこまで変な奴扱いするネタの展開に、違和感を覚えてしまったからです。警察とかで「一回自分の親を騙してみて注意喚起をせよ」みたいな振り込め詐欺防止法を指導してませんか? 弁護士だからそういう情報が入ってくるだけですか?
まあでも、最後の化かし合いの展開は流石でした。
3.霜降り明星
1本目と同じでせいやがワーワーギャーギャー動き回りながら粗品が傍らでツッコミを入れていくネタでした。感想も1本目と一緒です。
<2018年M-1グランプリの総評>
優勝したのは霜降り明星でした。和牛はまた優勝ならず、という結果です。おもしろい陰キャをお調子者の陽キャが差したというレース展開は2008年にNON STYLEがオードリーを降したのを髣髴とさせ、結果にはネット上で異論も出そうです。ただ、個人的には和牛の2本目に1本目ほどの爆発力がなかったので、4対3という僅差で優勝を持っていかれたのもしょうがないかとは思います。とはいえ、審査員も迷っていた様子は窺えたので、和牛が優勝していてもおかしくなかったとは思います。
最終決戦では、オール巨人・礼二・塙・志らくが霜降り明星に、富澤・松本・上沼が和牛に入れていました。陽キャが霜降り明星に、陰キャが和牛に入れたというわけでもありません(礼二や塙は陰キャだと思いますし、上沼は陽キャだと思います)。陰キャが陽キャを支持し得ないのは、大喜利力が低い癖に大声と思い切りだけで笑いをかっさらっていく(=自分にそういう思い切りがないことを棚に上げている)からですが、霜降り明星のネタはそこまで一つ一つのボケがしょうもなかったわけでもありません。
それでも陰キャの私が反発を感じてしまうのはなぜなんでしょうか。せいやのキンキン響く声質やクソガキみたいな顔の見た目にも原因があると思うので、テレビで売り出していくにあたっては芸人として同じ弾道のザキヤマやホリケンみたいな愛くるしさを身につけていった方がいいと思います。あと、作家気質の陰キャが唸る大喜利力ですね。ネタをどっちが書いているのかは知りませんが、粗品に全面的に依拠しているのであれば危険です。
さて、冒頭に私の個人的な希望として記した「テレビで売れる人を優勝させてほしい」という観点からするとこの結果はどうでしょうか。繰り返しになりますが、今のテレビで売れるには以下の3つのうちのいずれかが必要です。
(1)アドリブ力(台本で予定されていなかった事象が大なり小なり生じてもディレクターが望むような言動を行える力)
(2)天然
(3)強いキャラクター
そういう意味では、下馬評で優勝の最有力候補とされていた和牛にはどれもないのです。だから、私は実は和牛には優勝して欲しくなかったのです。とはいえ、私の知っている他の決勝進出者の中に上記(1)(2)(3)のどれかでも満たす奴がいたかというと微妙(はらとせいやには(3)強いキャラクターがありましたが、2人ともテレビにはもうそれなりに出ていたので、どうせならまだ発見されていない掘り出し物を見つけたかったわけです)だったので、私の知らない見取り図とギャロップとトム・ブラウンに期待していたわけです。でも、3組とも不発でした。
今年のM-1は大した収穫がなかったというのが正直なところです。せいやは、もう一皮剥けるには上記のように作家気質の陰キャの支持も得られるようにプロデュースをしていくといいでしょう。
和牛は、まあ今年も運が悪かったという感じですが、優勝できなかったところも含めて全体的に「持っている」感じはしました。漫才は一級品なので、テレビで売れなくても(2人の仲さえ悪くなければ)営業でずっと食っていけるでしょうから、もう実利的な目的でM-1に出る意味もないと思います。2人がどこを目指しているのかは分かりません。
もしかしたらテレビで売れたいのかもしれません。でも、オードリーや千鳥やメイプル超合金みたいに、優勝しなくても売れた芸人はいます。和牛も既に同じくらいの露出はあるので、それでも売れなければやっぱり(1)アドリブ力も(2)天然も(3)強いキャラクターもないということなんでしょう。テレビで今より更に売れたいのだとしても、もう散々露出があった以上、来年以降M-1で優勝すれば変わるもんではないと思います。しかし、ここまでM-1と付き合ってきたなら優勝を目指したらどうでしょうか。
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2018年11月24日放映の「ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ」を見た。
今年3月をもって終了した「とんねるずのみなさんのおかげでした」の人気コーナー「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」を切り取った特番である。 この番組の事前情報が出回ってから、ネットでは木梨が出ないことが話題になっていた。ただ、とんねるずには、広告塔、あるいは番組の企画を局内で通す時の「看板」以上の意味はないので、出る出ないは筆者にとってはどっちでもいい。主役はあくまでモノマネを披露する演者たちである。
しかし、結論から言うと、今回披露されたモノマネたちに全盛期の「細かすぎて」のパワーはなかった。おもしろいモノマネはいくつかあった(個人的には優勝した「たつろう」の1ネタ目とご婦人シリーズが好きであった)が、誇張なしに出てくるネタ出てくるネタ全部に声を出して笑えた往年の「細かすぎて」のことを考えると、寂寥感の方が勝った。
とはいえこの状態はいまに始まったことではない。「みなさん」がまだ放映していた頃から、「晩年」の「細かすぎて」はすでに全盛期のパワーを失っていた。全盛期の「細かすぎて」は爆笑できるモノマネと笑えるモノマネが半々ぐらい(=笑えないモノマネがない)という高いクオリティを誇っていたが、晩年は笑えるモノマネが3割ぐらいで、爆笑できるモノマネは全体の中の2,3個、残りは笑えないというレベルにまでクオリティが落ちていたのである。
元々このコーナーは、文字通り「細かすぎて笑えないモノマネ」を落とし穴で物理的に闇に葬るスベリ芸的なコーナーとしてスタートしたものだと思う。ところが回を重ねるごとにそれ自体が独立でおもしろいモノマネがどんどん増えていった。 爆笑できるモノマネを1個だけ持っていても、他に取り柄のない芸人は通常であればテレビに出られないのであるが、そういう芸人を大量に集めて尺を埋め尽くすことで、彼らが1個だけ持っている爆笑ネタに陽の目を見させた(この番組作りの発想は、同じフジテレビの「爆笑レッドカーペット」や「決めてほしい話」にも見られる)。
無論こういう番組を作るには、オーディションという形で膨大な量のネタを見るという労力をかけなければいけない。それは、売れてない芸人たちの端にも棒にもかからないネタ(基本的には、そういうネタしかないから売れていないのである)の中から僅かな砂金を見つけ出すという気の遠くなる作業である。この番組のスタッフは、このドブさらいの労を惜しむことはなかった。だからこそ、おもしろい映像作品ができていたのである。
この手のインダストリアスな労を避けていてはいいモノ作りはできない。 モノマネそれ自体におもしろい物が増えていく中で当初はスベリ芸に対する無言のツッコミ役として設置されていた落とし穴は、単にモノマネの終わりを分かりやすく区切るための装置へと役割を変えていった。
モノマネは、基本的に締まりが悪い笑いのとり方であって、ウケるものであってもどことなくグチャっとしてしまうので、次のクダリへつないでいくことが難しい。しかし、落とし穴でモノマネが終わった演者を見えなくしてしまえば、この締まりの悪さも一緒に闇に葬ってはっきりとした区切りをつけることができるため、次のネタへのバトンが渡しやすくなるのである。
特に「細かすぎて」のように短めのネタをテンポよく見せていく映像展開においては、ネタとネタの間に分かりやすい区切りをつけることは非常に重要である。落とし穴というギミックは、図らずもこの番組のコンセプトとがっちり噛み合ったのである。
以上のとおり、この番組の主役はあくまで「それ自体がおもしろい短めのモノマネ」である。モノマネは、似ていればおもしろいという物でもない。笑えるシーンを切り取ってみたり、対象の特徴を誇張してみたり、声だけでなく挙動や見た目まで似せてみたりと、何かしらの一工夫が必要である。そしてそこまでやっても実際にウケるかどうかは、現実にお客さんに披露してみるまで分からない。
だから、爆笑できるモノマネのネタができるという現象は、本当に誇張なしに奇跡のような出来事である。この番組の出場者たちが(一部の例外を除いて)そういうモノマネをそれぞれ数えるほどしか持っていないのも無理からぬことである。「砂金」は「砂金」なだけあってそう簡単にどこにでも転がっていない貴重品なのである。
ゆえに、この番組がおもしろくなくなっていったのは、ドブに眠っていた砂金を掘り起こしすぎて枯渇させてしまったからだと思う。筆者は、鉱脈がその力を回復するまで、3年は休山にして欲しいと言ったはずである。 にもかかわらず、今回は最後のOAから1年も経たないうちの放映である(「みなさん」が終了してから8ヶ月、「みなさん」の中で最後にOAされた「細かすぎて」(2017年12月21日放映)から11ヶ月か経っていない)。
完全回復していない鉱脈を掘り起こしても、大したものは出てこない。これじゃあ慌てて売り買いを繰り返して元手をすり減らしていくばかりのヘボ相場師と一緒なので、もっと辛抱をしないといけない。 もう一度言うが、次をやるなら3年(欲を言うと、5年)はインターバルを置いてほしい。
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2018年11月3日放映の「コントの日」という番組を見ました。 番組自体は2時間半の特番で、ビートたけしを中心に据え、別々に撮った独立の短編コントを集めた内容になっていました。それも、NHKの番組なのです。NHKのコント番組というと、私が以前ボロクソに書いた「LIFE」(こちらは、内村中心のコント番組)が思い出されます。
本来この番組のように最初から「コント」と名乗ってやるコント番組は、スタート地点から大きなハンディを抱えています。視聴者が「おもしろいものが見られるのではないか」と考えて勝手にハードルを上げてしまうからです。めちゃイケやガキのようにドキュメンタリーを装うとか、タレント名鑑の芸能人検索ワード連想クイズみたいに普通のクイズを装うとかいったことをして、仮面を被せてやるのが現在のテレビの一般的な手法になっています。
よほどの自信か別の強みがなければ、コントと名乗ってコントをやることはできません。「今から爆笑漫才をやります」と宣言してから漫才を始めるようなものなんですよ。
このようなハンディの存在を考えた時に、この番組が押している「強み」は明らかに「たけし」でした。普通の視聴者は「NHKで往年のタケちゃんマンや27時間テレビの火薬田ドンのようなコントが見られるのではないか」と期待するでしょう。 しかし、LIFEの内村がちゃんと数々のコントにガッツリと出演していたのとは異なり、2時間半の番組でたけしが実際に出てきたコントは3本の短編だけでした。
たけしは番組の主役ではなく広告塔に過ぎなかったのです。これじゃあ、羊頭狗肉もいいところです。もっと強い言葉を使うと、詐欺的なやり口です。 そしてこの3本のコントも、大した出来ではありませんでした。たけしの強みは、しょうもない台本でも何となくおもしろくなってしまうような彼自身の芸人としての華(「フラ」と言ってもいい)です。
それが存分に出ていたのは彼が火薬田ドンよろしく水に漬けられる恐怖の大王のコントでした。水に落ちるだけであそこまでおかしみを出せるのは、たけしならではです。ただ他の2本は、たけしを活かしきれていませんでした。1本は、たけしが単なる脇役でした(ボケの主役は、ゲイらしき人物に扮した富澤でした)。
そしてもう1本はたけしが記者会見に臨む官房長官に扮し、彼自身がテレビでよく見せるフリップ大喜利のように平成に続く新元号(のボケ)を次々と発表していくというものでしたが、これは正直たけしの良さが活きない手法だと思います。本人が好きだからこそテレビで何回も披露しているのでしょうが、今の滑舌が良くないたけしにしゃべらせると何を言っているのかがよく分かりません。そのうえボケ後のたけしの補足説明が押しなべてそんなにおもしろくないので、テンポが悪いのです。見ている方としてはもっとポンポンとボケだけを披露していって欲しいのです。
たけしが出たコントですらこの有様なので、たけしが出ていないコントは、何をか言わんや、という状況です。台本がしょうもないのに、ロッチみたいに演技力が伴っていない演者もいて、見るのが辛くなります。そのくせNHKのコントは先述のLIFEのようにこのしょうもない台本をガチガチに守らせようとしてくるので、笑いが頭打ちになっているのです。それも、かなり低い位置で、です。
台本をガチガチに守らせようとしているのは、フリでの不自然な説明セリフの多さや、BGMや、SEや、カメラが演者を抜くタイミングがバッチリと合っていく映像展開を見ていれば一目瞭然です。演者がアドリブを入れる「隙」も僅かにしか存在しないため、笑いで大事な裏切りは生じる余地がほとんどありません。
そのうえ演者の「台本を守らなければならない」という緊張感が見ているこっちにも伝わってしまい、笑っていいものか面食らってしまいます。本来、この緊張感が出ないように自然な芝居ができる芸人もいる(そして、芸人であるからにはそのような自然な芝居ができないといけないはず)のですが、1人でもダメな人がいるとそれがコント全体に波及していまいます。
何でNHKはこんなにガチガチにやろうとするんでしょうか。思えばこの局は紅白歌合戦でもミニコントをちょいちょい挟んでくるのですが、あれも台本ガチガチなのです。生放送で尺を守らなければならない歌番組だからこそガチガチにやらなければならないというのは分かるのですが、そのような悪条件下ではおもしろいものは作りようがないのだから、余計なことをしなければいいのにと毎年思います。歌番組で視聴者が見たいのは歌なんじゃないですか?
※ちなみに、番組のウェブサイトで各演者のコメントが紹介されているのですが、NHKのガチガチ加減を指摘してしまっている人がいるので以下に引用しておきます。演者が自認しちゃってるんですね。
<以下、引用>
ビートたけしさん
NHKさんの方から、『コントの日』というのをやりたいというご連絡をいただいたときは、内心「縛りがきついんだろうな」とか「どうせ好きなコントはやらせてくれないだろう」と嫌な予感がしたんですよ(後略)
劇団ひとりさん
正直言って、NHKのバラエティー番組はリハーサルも長いし、段取りもすごく細くて面倒くさいなあと思うことがあるんですよ(後略)
<以上、引用>
とはいえ、台本のしょうもなさをあまり指摘しすぎるのもかわいそうな面があります。もう、大体のコントはやり尽くされている感があるからです。どんな設定も、どんなボケも、カッチリしたコントにしてしまえば既視感が拭えません。逆にだからこそ、いくら事前に台本をうんうん唸りながら考えてもしょうもないものしかでき上がらないからこそ、演者のアドリブにもっと任せて欲しいのです。だって、同じボケでもその場でアドリブで思いついたように言った方がおもしろいのは明白じゃないですか。そっちの方が、ウケ狙い感が減るし、視聴者は「そんなおもしろいことをこの場で思いつけたのか」と感じてくれるのでズレや裏切り感も大きくなるんですよ。
だから、人工のコントで一番おもしろいのは「アドリブ大喜利コント」だと筆者は信じています。番組のコントの中でこの片鱗が僅かに見えたのが「だるまさんがころんだ」というコントでした。居酒屋でブス(渡辺直美)と美女(新川優愛)が話している中で、美女が思わせぶりな発言をするたびに周りの男性(店員や他の客)がテンションを上げて美女に近付いていこうとする、という設定のコントです。
テンションの上げ方や美女へのアプローチのしかた、ブスが話に戻ってきた時の誤魔化し方やテンションの下げ方でいくらでも自分なりのボケが出せます。明確なツッコミ役はいませんでしたが、筆者には逆にそのシュールさがおもしろかったです。どうせなら、もっと長くダラダラとやってもらって、直美や周りの男役に色々なパターンを見せて欲しかったです。
まとめると、コント番組を名乗るコント番組の欠点は以下の二つです。そしてこれは、致命的な欠点です。 (1)「コント」と名乗ることでお客さんが勝手にハードルを上げてしまう。 (2)台本通りにやってもしょうもないものしかできない。 これに対する対策も、はっきりしています。 (1)コントであることを隠す。 (2)アドリブを多めにして裏切りを盛り込む(こうすれば演者の天然も引き出せる)。 とはいえ、今回のような「コントと名乗った台本ガチガチのコント」が好きな方も一定数いるのでしょう(特に、作り手側に)。
先ほど引用した番組のウェブサイトにも「いま減少の一途をたどっている『コント番組』の灯を絶やさぬよう、2時間半の大型コント番組『コントの日』の放送が決定しました!」という文言が踊っています。ただ、上記の2つの欠点が致命的だからこそ今の地上波から「初めからコント番組だと謳っているコント番組」は駆逐されてしまったわけです。同じボケでもその場でアドリブで思いついたように言った方がおもしろいのは明白だし、人工ボケより天然の方がおもしろいのは明白じゃないですか。
今のテレビのバラエティは、この2つとこれらを装ったものに支配されています。アドリブと天然の強みを捨て去ったガチガチコントがおもしろくないのは、コント明けにスタジオに帰ってきたときに常に仏頂面だったたけしに如実に表れていました。まあ、実際にあのスタジオでコントを見ているかどうかはよく分からないのですが、たけし本人は笑うフリさえしていませんでしたよ。
とはいえ、ガチガチコントが好きな人がいること自体は否定しません。それはもう個人的な好き嫌いの領域なので、筆者にどうこう言えるものではありません。でもそっちの方が好きだという方はもう物好きの少数派になってしまうと思われるので、やりたければCSでやればいいと思います。そのような「物好き」が地上波でコンスタントにコント番組ができるほどにたくさんいるとは思えません。ほら、CSだったら少数派の趣味人向けのチャンネルがいくつもあるじゃないですか。釣りとか、公営ギャンブルとか、マイナースポーツとか、その類。
やっぱり、作り手の作りたいものと受け手の見たいものの乖離というのは、いつになっても世知辛いですね。
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2017年12月31日に放映された「笑ってはいけない」(日本テレビ)で、ダウンタウンの浜田雅功が映画『ビバリーヒルズ・コップ』に出演していたエディ・マーフィに扮して顔を黒く塗っていたことが人種差別的な表現だとして問題になっています。欧米でも、BBCやニューヨークタイムズで取り上げられているようです。
BBCとニューヨークタイムズの記事では、いずれも浜田のこの扮装を「ブラックフェイス」(黒人以外が黒人を演じるために施す舞台化粧や表現。ステレオタイプな人種差別を想起させ、タブーとされている)だと報じ、黒人で日本在住のBaye McNeil氏というコラムニストがこのようなブラックフェイスの表現をやめるようツイッターで呼びかけているということを紹介しています。
以下、若干両記事を引用します。
「The New Year’s Eve show featured celebrity comic Hamada appearing in a Beverly Hills Cop skit with his face blacked up.Using makeup to lampoon black people – a practice known as blackface – is seen by many to be deeply offensive.」(その大晦日の番組には、有名な芸人の浜田が顔を黒く塗った状態でビバリーヒルズ・コップの一幕を演じているシーンがあった。黒人を風刺するためにメイクを使う手法―ブラックフェイスという名で知られる―は多くの人から非常に攻撃的だとみなされている)[BBC:2018年1月4日付:筆者訳]
「A Japanese comedian is facing criticism for performing in blackface in a widely viewed television show……」(ある日本の芸人が、広く見られているテレビ番組に「ブラックフェイス」のメイクで出演したことで批判に直面している)[ニューヨークタイムズ:2018年1月4日付:筆者訳]
伝統的なブラックフェイスでは、顔を黒く塗るだけではなく、白人の考える黒人のステレオタイプな部分が強調されます。「blackface」で画像検索すれば分かりますが、唇が分厚く誇張されるのが常であり、演じられるキャラクターも、英語が下手で、ひょうきんで、怠け者で、好色という白人の考える黒人への偏見を強調したものです。
もちろん、黒人はこんな人ばかりではありません。むしろ、このステレオタイプにカッチリとあてはまる黒人の方が少数派でしょう。いわゆるブラックフェイスによる黒人表現は明らかな間違いや偏見を誇張して黒人を笑うためのものであり、黒人がこれを快く思うはずがありません。だからこそ、これらの表現は人種差別だとみなされるようになったのです。
1950年代から60年代にかけての「公民権運動」により黒人の差別が解消・撤廃されていくにつれ、これらステレオタイプな黒人像の間違いも盛んに喧伝され、ブラックフェイスという人種差別的な表現も排除されていくようになりました。
これらの歴史的・文化的背景があるため、ブラックフェイスという表現は、少なくともアメリカでは「黒人をバカにするためにやるもの」という独立の記号としての意味を帯びるに至っています。
それは偏見に基づく間違った誇張などの揶揄的表現を伴っていないもの(例えば今回の浜田のように顔を黒く塗っただけ)でも、黒人をバカにするためにやっているとみなされてしまいます。少なくともアメリカの黒人はこれに不快感を覚えてしまうわけです。中指を立てるジェスチャーが挑発・侮蔑の意味を持っている記号であるのと同じように、ブラックフェイスはそういう意味を持っている記号なのです。
ではなぜ、単に「顔を黒く塗っただけ」でもそういう意味を持つようになったのでしょうか。もともとのブラックフェイスはそういった間違った偏見の誇張をしていたからこそ、黒人をバカにする意味合いがこもっており、快く思われていなかったものに過ぎないはずです。他の意味で「顔を黒く塗る」という表現だってあっても良いはずです。
おそらく、ブラックフェイスで一番視覚的に目立つ部分が「顔を黒く塗っている」ということであるため、この「黒塗り」がブラックフェイスそのものの「象徴的な特徴」と理解されるようになり、その結果「黒塗り=黒人をバカにするブラックフェイスである」という一種のすり替えが起きたのでしょう。
ブラックフェイスが上記のような揶揄・侮蔑の意味を持った記号的な表現だという事実は動かしようがありません。これをアメリカの黒人に対してやることは、要は欧米人に中指を立てるのと同じような意味合いがあります。
よって「浜田はあくまで顔を黒く塗っているだけであって黒人の間違った特徴を誇張してはいないし、浜田本人や番組の作り手に黒人を揶揄する意図がない」と言ってもあまり意味がありません。そういう誇張の有無や主観的意図とは関係なく、黒く塗られた顔という表現自体の客観的・外観的な視覚要素が揶揄や侮蔑の意味合いを持ってしまうのです。
一方で、このような「意味合い」はあくまでアメリカの文化的・歴史的背景に根差したものであり、世界中で通じるものではありません。中指を立てても挑発や侮蔑の意味が生じない国・地域があるのと同じです。
他文化の尊重も大事であることは当然で、今回の「笑ってはいけない」はその点があまりに無防備だったとは思います。それでも「郷に入っては郷に従え」という言葉もある通り、自文化が全面的に譲歩しなければならないわけでもありません。他文化と自文化が折衝する局面においては、場面場面でどちらをどの程度優先させるかを適切に調節していくものでしょう。
例えば、他文化の人間を客としてもてなす時は配慮をした方が良いでしょう。ムスリムを観光客として日本に招き入れたいならイスラム教の行動規範を尊重してやった方が良いでしょうし、東京オリンピックでは世界中の人間が日本に来るわけですから、できるだけ不快な思いをせずに帰ってもらった方が良いと思います。他方で、筆者は日本でやっている日本人向けのバラエティ番組でそこまで他文化に配慮する必要があるとは思えません。
ただし、「笑ってはいけない」は英語圏でも人気のコンテンツで、私的に作成された英語字幕が付いている動画がインターネット上に出回っています。だからこそアメリカの方々にも浜田のブラックフェイスが視聴されて、問題になったのでしょう。しかし、その英語字幕版はあくまで勝手に作られたものです。番組の作り手(日本テレビ)がそこにまで配慮する必要があるとも思えません。
逆に、日本テレビが今後公式に「笑ってはいけない」の海外輸出を目指していくのであれば、もっと配慮した方が良いでしょう。場面場面で他文化と自文化の適切な調節というのは、そういうことです。
筆者がここまでに述べたのは、「ブラックフェイスを見て不快に思う人に配慮する必要がある時はブラックフェイスを控えた方がいい」というある意味で当たり前のことです。しかしながら、筆者はここから更に進んで、「配慮のしすぎもまた良くないのではないか」と考えています。
ブラックフェイスが忌避されているアメリカの今の状態は、差別に対する配慮が行き過ぎていて、笑いの表現が過度に制約されているように思います。日本で障碍者などの社会的弱者を笑う表現がタブー視されていることや、ドイツではたとえ冗談でもナチスを礼賛するような表現が許されないのと同じで、黒人自体が腫れもののような扱いにくい存在になっている気がするのです。
黒人にも色々な人がいます。中には笑われたい人もいるかもしれません。白人が自分の顔を黒く塗って黒人に扮することで大笑いできる黒人もいるかもしれません。今のアメリカでは、黒人を笑うこと自体が絶対的なタブーになっており、むしろ息苦しい状態が生じている感じがします。
だからこそ、せめてそういった文化的背景がない日本ではそれを解禁した方が良いのではないかと思います。そうすれば、そういった表現で笑いたい人々の受け皿になるような気もします。
エディ・マーフィは自分の顔を白く塗って白人に扮したこともあります。それが大丈夫で逆が大丈夫ではない社会の方がむしろ不健全ではないでしょうか。現代に至ってアメリカ社会における黒人のプレゼンスはどんどん増しており、むしろ白人を凌駕するほどにもなっているので、そろそろ今の「文化」を見直してもいいのではないでしょうか。
無論、そうは言っても笑われるのが嫌な黒人は多いでしょう。筆者も白人が「釣り目に出っ歯」のメイクで日本人を演じたら腹が立ちます。笑われるのが嫌な人が、笑われたことに抗議するのは全くもって自由です。
それでも、そのような揶揄の表現を禁止するのは行き過ぎだと思います。そのような表現が禁止された社会よりも、お互いの表現の自由を認めた社会の方が確実に豊かでしょう。白人も黒人を揶揄できるけど、黒人も白人を揶揄できるのです。そうすれば、おあいこではないでしょうか。
筆者は笑いを表現する手法はできるだけ多い方が良いと考えています。笑いに限らず、表現というものは他者に伝えるものである以上、不快に感じる人を一人も出さずにやり過ごすことは不可能なのです。
今回の「笑ってはいけない」の表現に、日本テレビの無思慮・無配慮があったのは明らかです。しかし、逆に言えば無思慮・無配慮だったからこそポンと出せたのです。筆者は、ブラックフェイスが禁止されている息苦しい社会よりは、ブラックフェイスが許容されて白人も黒人もお互いの扮装をして笑いあえる社会の方が良いと感じます。
ブラックフェイスが許容され、白人も黒人も(もちろん黄色人種も)お互いの扮装をして笑いあえる社会では、白人も何も考えずにただただポンと黒人の扮装をすることができるはずですから。
今回の浜田の黒塗り騒動がそんな社会を目指すための先鞭になることを期待します。
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2018年1月2日放映のテレビ東京「池の水ぜんぶ抜く」は不定期に放送されているドキュメントバラエティ番組であり、今回は新年の3時間スペシャルであった。
筆者はこのシリーズを初めて見るが、「おもしろい」という評判はよく聞いていた。実際に視聴してみると、確かにおもしろい番組だった。水を抜くと色々な生き物が出てくる。デカくて大量にいる魚・カメ・カエルの映像のインパクトはものすごい。
トカゲやウーパールーパーみたいな変わり種も出てくる。他方で在来種(大抵は外来種より小ぢんまりとしていて可愛らしい)が出てくると、ほっとするなど、見ている側にも起伏を起こしてくれる。
少し変化球の動物番組であるが、おもしろい番組ができたうえに外来種駆除にもなって社会貢献もできるとなれば、言うことはないではないか。
しかしながら、気にならないことがないわけではない。筆者が今回のオンエアを見て少し気になったのは、以下の3点である。
(1)前フリが長い
(2)過去の映像の紹介が長い
(3)番組の内容を煽るような演出が少しうるさい
「(1)前フリが長い」というのは、池を紹介したり、その池で問題になっているようなことを地域住民からインタビューしたりというような内容の映像である。それが長いのだ
「(3)番組の内容を煽るような演出が少しうるさい」というのは、「このあとどうなる!?」や「いよいよアリゲーターガーの姿が見える!?」といったテロップやナレーションが余計な演出になっており、うるさく感じるということである。
はっきり言ってしまえば、視聴者としてはそんな前フリや煽りなどはどうでもよい。さっさと池の水を抜いて何が出てくるかを見せて欲しいのである。それがこの番組のメインコンテンツでもあるはずだ。上記のような「周縁部」の映像は、最低限で良い。
これらが長くなってくると、肝心のメインコンテンツの方に撮れ高がなかったから「周縁部」を増やして尺を埋めようとしているのではないか、煽りのテロップやナレーションで内容のつまらなさを糊塗しようとしているのではないかという邪推さえ働いてしまう。
「(2)過去の映像の紹介が長い」に関しても、たまたま筆者は全てが初見なので新鮮な気持ちで見ることができた。しかし、毎回それを繰り返しているようであれば、番組を追いかけているファンほど突き放してしまうことになるだろう。
この番組は通常放送はしておらず、不定期に特番としてやっているわけだが、人気が出たとしても現在の不定期放送を維持した方が良いだろう。人気が出たという理由だけで通常放送に移行してしまうと、毎週1時間分の映像を作る必要があるので、ネタ切れが加速するはずだ。
今回の放送ですら、すでに前フリや過去映像で尺を稼ぐ兆候が出ていたので、通常放送の開始による負担増は番組としての死を早めるだけである。質を維持するのであれば、いい「ネタ」がとれたときだけに不定期に放映するぐらいのスパンでちょどいいだろう。
特にこの番組は、NHKの動物番組と違って動物の様子を長期間にわたって追っているわけでもないので、エサを食べたり繁殖行動に出たりといった動物の「動き」はほとんど映像に納められない。池からその動物が出てきた時のインパクトが全ての「出オチ」のような番組である。コイやソウギョやブラックバスやブルーギルといった「よく出る」動物ばかりだとあっという間に飽きが来てしまう。
通常放送化した結果、ネタが切れて終了した番組は数えきれないほどある。タチが悪いと、ネタ切れを防ぐためにネタを捏造し始める(その場合も、結局は捏造がバレて番組が終わってしまうのだが)。
まさかこの番組で捏造をやることはないとは思うが、インパクトのある映像を捏造するために事前にコッソリ池に珍しい動物を仕込むようなことは決してやって欲しくない。そうやって消えていった番組は少なくない。
捏造をしたくて番組を始める作り手はいないと思うので、環境が彼らを追い込むのである。前述のように、無理せずにおもしろい画が撮れた時にだけ番組をやるということでいいだろう。
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大晦日の恒例となった日本テレビ「笑ってはいけない」。2017年12月31日放映回のテーマは「アメリカンポリス」。2006年(大晦日に移ってからの初年)の「警察」とかぶっているような気もしたが、毎年のことながらこのテーマ自体にさほどの意味はないので、あまり気にせずに話を進める。
さて、今回の放送を見てまず感じたことは「ヤマがなかった」ということだろうか。
「笑ってはいけない」は、毎年色々と毀誉褒貶が激しいボージョレ・ヌーヴォーのような番組なのだが、筆者は去年の「科学博士」は近年の「笑ってはいけない」の中では比較的良い出来だったと思っている。レクリエーションでのダウンタウンとジミーちゃんと蝶野ビンタの前に顔が発光する方正のくだりなどは、笑い転げることができたからである。
今回も、特にダラダラしたところもなく、鬼ごっこなどは去年よりだいぶ良い出来だったように思う。一方で「ムチャクチャおもしろい」と感じさせるところが特になかった印象だ。
レクリエーションでのダウンタウンはほぼ去年の焼き直しだったし、ジミーちゃんもちょっとしか出てこなかったし、蝶野ビンタにも去年ほどのインパクトはなかった。
蝶野に関しては、途中、アクシデントらしき流れで松本がいったんビンタされそうになるというくだりが挟まれていたが、あれも最初から全部仕込みだった可能性を感じた。(もちろん、それだからといって、おもしろくなかったというわけでもないのだが)
他にも、方正がこまわり君に扮していた場面などは、かなりの尺が割かれていたので、あそこは作り手も自信を持っていたのだとは思う。しかしながら筆者的にはあまりハマらなかった。方正が蝶野ビンタの時のようにグズグズ抵抗するわけでもないので、意地汚い部分が映らず、少し可哀想になってしまったからである。
ようは、方正が理不尽な仕打ちを受けることを自分の心の中で正当化できなかったのだが、これは好みの問題なのかもしれない。いずれにせよ、パッとしたヤマがなかったことはなんとも残念だ。
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2017年12月29日放映のTBS「朝まであらびき団SP あら-1グランプリ2017」は、前回(2016年12月28日放映)に引き続き、年末に放映されたあらびき団の復活スぺシャルである。(2017年7月13日にもやっていたようだが、筆者はこちらは見ていない)
今回のオンエアは、「あら-1グランプリ」と銘打ち、出場者のネタのナンバーワンを決めるという触れ込みだったが、もちろん、これは真剣なコンテストではない。
コンテストと審査の仕組みは、笑いを生み出すためのひとつのギミックに過ぎず、決勝への進出者も優勝者も東野幸治が独断で決めていたので、公正妥当な基準で審査をして一番おもしろいネタを決める番組というわけではなかった。
現に東野は「ケツが見たい」という理由で決勝進出者を選んだり、当初のルールを無視して決勝進出者を1人多く選んだりして笑いを呼び起こしていた。
あらびき団は、おもしろくない芸・ヘタクソな芸を集めてそのヘタクソっぷりを笑う番組である。ヘタクソさにツッコミを入れてそれを視聴者に気付いてもらい、笑いを呼び起こすのはネタを見た後の東野と藤井の役目なので、2人の感想コメントを見て初めて映像作品としては完結する。今回は少しそのバランスが悪く、ネタに時間を割き過ぎていた感じがした。
それに加え、あらびきパフォーマーたちも、通常放送時代の番組を支えていた面々や去年のスペシャルにも出てきた人たちが多く、新鮮味もなくなっていた。
この番組はスベリ・ヘタクソといった天然ボケを笑う番組だが、天然キャラにもボケ方にパターンがあるため、ずっと同じ人を見ていると視聴者がボケ方のパターンみたいなものに気が付いて、その後の展開が予想できてしまう。笑いで大事なのは裏切りから来るズレなので、その状態に陥ってしまうと笑いを阻害すること甚だしい。
今回で同番組のスペシャルは3度目がある。もっと新しいスターを発掘していった方がいいだろう。それをやるには大規模なオーディションをやったり、地下の劇場に通ったりする労を惜しんではならない。
あらびき団はそういう裏の労を惜しむ番組ではないので、今回はたまたま分かりやすい新星が見つからなかったということだろう。次に、期待したい。
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2017年12月17日に放映されたフジテレビ「THE MANZAI 2017」でウーマンラッシュアワーが披露した漫才がネットで評判になっているようです。
ネタのフォーマットは、彼らが得意とするハイスピードなしゃべくりでした。話題になっているのはその内容で、原発・沖縄の米軍基地・被災地の仮設住宅・北朝鮮など今の日本が抱える諸問題を取り扱っていました。
このネタを政治諷刺と評する向きもあります。確かに彼らの漫才は、これらの諸問題が現在も解決されぬままになっていることを指摘しているという意味では、現政権の腰の重さを批判するものであります。ただこのネタの眼目は、むしろこれらの諸問題に無意識の自国民を批判し、そのような自国民に合わせて有名人の不倫報道ばかり取り扱うジャーナリズムを批判することにあったと思います。
とはいえ、ジャーナリズムも「第四の権力」と言われているような存在であって公権力とは相通じる部分があります。また、これらの諸問題に無関心な国民は裏から現政権を支持しているとも言えるので、ひっくるめて政権に近い存在を論難しているネタだったという見方もできると思います。
テレビで漫才をやっているにもかかわらず報道機関の一つであるテレビを批判するのも度胸の要ることでしょう。ただこれらの点に関してはそういった難点をあることを分かったうえで村本が言いたいことを言うのを優先したということだと思うので、その決意それ自体に賛意を評してこれ以上のことは言いません。
しかし、「ネタがおもしろくなかった」ことは問題だと思います。
スタジオで観覧しているお客さんもウーマンラッシュアワーの早口の掛け合いが決まるたびに拍手を送ってはいましたが、笑ってはいませんでした。三遊亭円楽が笑点で見せる政治批判の回答と一緒で、感心を呼び起こすものではあっても、笑える内容ではなかったということです。
今後同じようなネタを作る場合、もう少し笑える内容にすることを意識して欲しいですが、ここを目指すと立ちはだかる高い壁がひとつあると筆者は思っています。
政治諷刺というやり口は、「王道」に過ぎるのです。
諷刺を受ける政権は、国内における「主流派」であって、アメリカのスクールカーストにおけるジョックのような存在だと見ることができます。政治諷刺の主体は、ここから一段階斜に構えたポジションで主流派をシニカルに皮肉る人たちです。
ただ、筆者みたいな天邪鬼は、「主流派の批判」などという笑いのやり口は、下ネタと一緒で誰にでも思いつく陳腐なものだと感じてしまいます。現に、公権力に対する諷刺は大昔から存在する表現であります。読者の皆様方も、江戸幕府を皮肉る狂歌や川柳を勉強したことがあるでしょう。
かく言う筆者自身も、政権批判という笑いの呼び起こし方は陳腐でおもしろくないのではないかと思っているので、敬遠してしまいます。茂木健一郎は、日本においてはアメリカのような政治諷刺が見られないと言っていました。しかし、これは逆ではないだろうかというのが筆者の仮説です。政治諷刺は一段レベルの低い笑いであって、日本はとっくにそこを通り過ぎたのではないだろうか、ひょっとしたらアメリカよりレベルの高いことをやっているのではないだろうか、ということです。
これだってまだ筆者の印象論に過ぎず、確たる根拠があるわけではありません。政治諷刺とそれ以外の笑いにも優劣なんてつけられず、どっちがおもしろいのかなんてのは好みの問題に過ぎないかもしれません。
だからこそ、村本には是非とも今回の漫才の芸風を磨いていって、本当に笑える政治諷刺を見せてほしいと思っています。政治諷刺が下ネタと一緒で誰にでも思いつける陳腐なものだとしたら、漫然とやるだけでは笑いを呼び起こせないはずです。そこには、何かしらの一工夫が必要だと思うのです。
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