12月14日に、『女芸人No.1決定戦The W 2020』(日本テレビ系列)が行われ、吉住が優勝した。今回の大会はどこが注目できるだろうか。
女芸人の頂点を毎年決める戦いも他のお笑い賞レースと同様に、面白いと評価されるまでには番組放送開始時よりなかなか時間がかかる。今回、場が盛り上がったのはBブロックからだろう。Aマッソのネタは、バックスクリーンに現れる映像を様々に活用しながら漫才をするネタであった。映像を活用することは、わかりやすくなるというだけでも有効であり、映像を活用しながらの漫才は幅を広げるもの。
続くゆりやんレトリィバァは、『サザエさん』(フジテレビ系列)のカツオの真似をしながら「姉さんは大きな間違いをしているよォ」と話し続けるネタ。人によっては全く面白くないという感想もあるが、それが証拠か、笑いとしては非常に突き抜けたものだと言えるだろう。
ゆりやんは本大会の第1回優勝者なので勝ち上がるのは他より難しい。Aマッソのネタは画期的なものなので、ゆりやんが勝つのはいっそうに難しかったはずだ。しかしながら接戦にてゆりやんが勝利を収めたのは、素晴らしい一戦だったことを裏付ける。
続いて出てきた吉住が最終的に優勝したわけだが、この点審査方式は物議をかもした。勝ち抜き戦方式なので、最初に出てきた芸人が不利だという声もある。次に、優勝した吉住に焦点を当てていきたい。本大会の特徴は、これまで優勝者がテレビでよく活躍できているということ。大会自体のレベルが高く評価されているとは言い難いにもかかわらず、しっかりと活躍できている優勝者を輩出していることは面白い特徴だろう。
また昨今売れた女芸人といえば、ニッチェ、おかずクラブ、尼神インター、ガンバレルーヤなどがあるが、これらは1年位で交代するような売れ方。今のところ『The W』の優勝者は、ゆりやん、阿佐ヶ谷姉妹、3時のヒロインと、この流れから外れることができている。単純な女性コンビが優勝していないのも特徴的だ。コンビが輩出されないお笑い賞レースと言えば、『R-1グランプリ』があるが、こちらの優勝者はピン芸人ながらもあまり個性的とは言えないのではないだろうか。『R-1』のここ2回の優勝者はコンビ芸人の片方であったりもする。
女芸人の世界では男芸人のように漫才師が重要な地位を占めがちであるという傾向がまだないようだ。ここにおいてピンの女芸人が個性を活かしてバラエティーで活躍する余地があるように思われる。ここにおいて吉住は、前に出る精神もあり、引き続き、『The W』の優勝者のバラエティでの活躍が期待できると言えるかもしれない。しかし一方で、似たような女コンビ芸人が1年交代でバラエティーで活躍するような状況もある。
ここにおいて女性バラドルを中心とする女性タレントの活躍はめざましく、最近行われた女性タレント同士が笑わせ合いをする『女子メンタル』は女芸人の活躍の場を大きく奪う可能性を示した。優勝した峯岸みなみの攻守のバランスは素晴らしく、他にも金田朋子の攻めのボケ力は昨今の男芸人でも敵わないレベルだろう。
またフリもボケもしっかりこなした朝日奈央は『女子メンタル』以来仕事が増え、峯岸とともにバラエティー女王と呼ばれるようになってきたようにも思う。今後『女子メンタル』の注目はいっそう大きくなり、『The W』や女芸人がいかに対抗できるかが問われてくるだろう。
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今年の『24時間テレビ 愛は地球を救う』(日本テレビ系列)のマラソン企画は高橋尚子による『24時間募金ラン』となった。伊集院光はラジオで疑問を投げかけたが、結果、どのような企画となったのであろうか。本稿では、様々な意見が飛び交った高橋尚子による『24時間募金ラン』を伊集院光の疑問と共に考察したい。
今年の『24時間テレビ』では新型コロナウイルス予防の観点から、毎年恒例のチャリティーマラソンを中止し、高橋尚子による『24時間募金ラン』を行った。これは高橋発案によるもので、高橋尚子が「今できること」として行ったものであるという。1周5kmを走る毎に高橋尚子自身が10万円を寄付するというもので、他にも土屋太鳳ら賛同する仲間が参加した。
これに対し、伊集院光が8月17日の深夜ラジオ『JUNK伊集院光・深夜の馬鹿力(TBSラジオ系列)において、疑問を呈するコメントをしている。伊集院曰く、高橋尚子が走った上で、自分で10万円を寄付するのはおかしいのではないか、ということだ。
[参考]<24時間テレビ>清く正しく美しい障害者を創る「感動ポルノ」という嘘
高橋尚子が走ったら、前澤友作が10万円を寄付する・・・などのように、もう1人、間に挟まないと違和感があるというのだ。また、走らないで寄付してもいいのではないか、という。なお、高橋は偽善と言われることを気にかけていたそうだが、それに対し伊集院は偽善だとは思わず、そのような批判をする人とは一線を引いている、という立ち位置らしい。
高橋のマラソン企画は、『24時間テレビ』としては新しいシステムとなった。元オリンピック金メダリストのランナーである高橋尚子による提案ということで、目標を達成しても時間いっぱいまで走り続け、マラソンは辛いものではなく楽しいものだというメッセージを伝えることにも寄与しただろう。放送中の説明によれば「募金ラン」はマラソンをした上で寄付をするというイベント性と寄付行為を重ねたもので、その意義を伝えるのに、高橋尚子のパフォーマンスは十分に説得力があった。
もうひとつの伊集院のコメントを参照すれば、それはマラソン自体への批判だが、かつて『26時間テレビ』(フジテレビ系列)の時に島田紳助が唱えた「苦しさの先の感動を求めた苦行」はあまり説得力を持たなかったが、今回は苦しいものではない、という点で、その批判をクリアしていたように思う事。
これまでのマラソン企画と比較して、マラソン選手や金メダリストらアスリートやアスリート型のトップ女優である土屋太鳳が参加した今回の募金ランは、大義名分とエンタメ性を今まで以上に高めた完璧な企画だったと言えよう。ただ、武道館へのゴールがなかったのはやはり一定の物足りなさは残ったかもしれない。とはいえ、『24時間テレビ』のマラソン企画を刷新させるものであったと思う。
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2020年1月22日にシングル「君のことをまだ何にも知らない」でメジャーデビューしたテレビ東京発のグループ「青春高校3年C組」は、オリコン週間売上ランキング7位にランクインし、2万1428枚を売り上げ、デビュー作として好スタートを切った。
この番組は平日の夕方に生放送し、おぎやはぎら曜日替わり人気芸人MCとポスト指原莉乃として注目されるNGT48の中井りかを副担任として、秋元康と「ゴッドタン」の佐久間宣行プロデューサーがタッグを組んだ、一般学生公募型番組である。
青春高校といえば、演出、三宅優樹はORICON NEWSで興味深いインタビュー(「他局のテレ東化で薄れる『テレビ東京らしさ』、 求められる「次なる王道」とは?」)を行っている。さてここで興味深いのは、青春高校は、「視聴率ビジネス」ではなく「IP(知的財産)ビジネス」だと語られていることである。三宅は、青春高校の担当も、「制作局」ではなく「コンテンツビジネス局」だと言っている。コンテンツビジネス局とは、「番組の二次展開やネット配信をしてお金を稼ぐ部署」と説明される。
IP(知的財産)ビジネスというのも、知的財産、つまりは売ることができる「コンテンツ」のビジネスのことである。視聴率ではなく、番組そのものやあるいは番組から派生したものを売って稼ぐ商売ということである。言ってみれば、自前で稼いでくるとんでもないプロジェクトである。三宅も、青春高校は視聴率は関係ないと言われて驚いている。
[参考]あいみょん「マリーゴールド」が「メダロット2」のパクリではない理由
三宅自身は、通常であれば、プロとして視聴率はとっていかなければならないと考えているが、一方で、視聴率というビジネスモデルは、時代に即していないと説明している。この説明では、ビジネスモデルの話として、IPビジネスの主張の裏返し(IPビジネスこそが新しい今のビジネスモデルであれ)でしかないが、視聴率という指標は実際限界を迎えているとみていい。
インタビューで、テレ東がやるべきだった番組として評価されているテレビ朝日「ポツンと一軒家」も、実はほとんどは50歳代以上の視聴者で構成されている( 現代ビジネス「絶好調のテレビ朝日「視聴率三冠」奪取に向けた難題と危機感」)。昨年2019年で「ポツンと一軒家」の裏番組である宮藤官九郎によるNHK大河ドラマ「いだてん」も、非常に面白いというウェブ上の評判にもかかわらず、驚くほどの低視聴率となっている。
本来多くの高齢者が大河ドラマをみるところではあるが、「ポツンと一軒家」に視聴率を奪われているわけで、その理由が、「いだてん」は2つの時代を行き来するがために高齢者には理解し難いゆえと言われている。超高齢化社会である日本において、高齢者は非常に重要な主体なのではあるが、一方で、高齢者の視聴に偏ることで成否が分かれるという状況にも不満は募る。
青春高校は、内容は言うに及ばず、視聴率という指標に風穴を開けんとする番組の形態としても挑戦的な、期待が集まる番組なのである。現在はわかりやすく、青春高校は様々な部活動として、女子アイドル部、男子アイドル部、ダンスボーカル部、軽音部に分かれ音楽活動を行うことで、1つのコンテンツを産み出している。LINELIVEと提携し、全世界に同時放送をしているのもその一環である。テレビ東京「乃木坂工事中」後の5分間番組(日曜24:30-24:35)で、今全局でトップの勢いと言っても過言でなさそうなテレ東女子アナとコラボする番組「電脳トークTV~相内さん、青春しましょ~」を行っているのも見逃せない要素である。
今回の「君のことをまだ何にも知らない」の初週売り上げ枚数2万1428枚は、1日の握手会という設定ながら、よりよい時間帯で放送されていた同じく秋元康がプロデュースするテレビ朝日「ラストアイドル」のメジャーデビューシングル「バンドワゴン」の初週売上枚数4万2638枚には及ばないものの、現在絶好調である指原莉乃プロデュース=LOVE(イコールラブ)のメジャーデビューシングル 「=LOVE」初週売上枚数1万8746枚よりは多い枚数であった。
以上のように、様々に展開しうるポテンシャルを秘めている青春高校は今後のエンターテインメント界において期待できるコンテンツなのだ。
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小沢健二は年末にかけて「彗星」という曲を引っさげて活動していた。特に、小沢健二とテレビ朝日「ミュージックステーション」は、司会者であるタモリを通じて蜜月関係にある。小沢健二の楽曲を高く評価することで知られているタモリは、「彗星」での出演時もいつになく饒舌に「彗星」の歌詞について語っていた。
曰く、「彗星」は、現実がいかに奇跡かを歌っていると。現実は対比されたり、超えるものとされたりして否定されがちである。しかし、現実こそが奇跡的なものであり、肯定に値するものであると。小沢健二の「全肯定」の思想であると。「彗星」の歌詞は、1995年から始まり2020年の今に向けて、いかに偶然的な出会いとともにつながっているかを書いている。1995年に生まれた者が作り上げた音楽を2020年の今、25年を隔てた小沢健二自身が聴くことができると。
NHK「SONGS」では、まさしくそれに該当する「あいみょん」との出会いについても語っている。また「彗星」の歌詞は語る。過去に生まれた自然がいくらかの変化を伴っているかもしれないがそれにもかかわらず今現在において私たちが享受できているという出会いについて。生々流転。生成と消滅。流れる時の中で、常に私達は偶然的な出会いの中にある。
Mステで小沢健二は彗星そのものについて、水などでできていて、ギリギリで存在しているものであることについても語っている。あらゆるものがギリギリで偶然的に存在し出会っている。その奇跡的な出会いをもって、現実は無条件に肯定され、その偶然的な出会いは宇宙的規模に開かれた奇跡である。
[参考]あいみょん「マリーゴールド」が「メダロット2」のパクリではない理由
小沢健二がここまで本格的に音楽活動を再開したのは驚きがある。小沢健二の芸能界への復活といえば、やはりフジテレビ「笑っていいとも」最終回直前でのテレフォンショッキングへのゲスト出演が印象的であった。復活後の小沢健二は度々タモリとともに語られた。それはタモリが、小沢健二の「さよならなんて云えないよ」という楽曲の詞を評価したことにあった。テレフォンショッキングゲスト出演の際にも小沢健二は「さよならなんて云えないよ」のタモリが絶賛した詞の部分を歌い、いいともを終えるタモリに捧げた。
「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる僕は思う! この瞬間は続くと! いつまでも」。
1996年1月29日の小沢健二ゲストのテレフォンショッキングでタモリはこの詞を絶賛したという。風景が良いという詞はよくあるが、それが永遠に続くとする詞はないと。歌詞をよく見れば、瞬間でありながらも続くと書かれている。確かに日常性が続くわけだが、日常性を瞬間瞬間と捉え、かつそれがいつまでも続くということは、その日常の瞬間性に永遠や普遍性や宇宙を感じるということである。日常性のかけがえのなさとその普遍性を捉えている。これをもってタモリは「生命の最大の肯定」であると応える。
この見立ては哲学者マルティン・ハイデガーの基本思想を想起させる。ハイデガーの考え方は、いわゆるデカルト式主客二元論ではなく、自身の存在である「現存在」が世界に対しいかに了解していくかという見方をとる。つまり、人は世界に投げ込まれて(「投企」)いくのである。人が世界をどう了解するかは、実際にされるまでわからない。
よって自身があらかじめ存在しているという見方とも違ってくる。どのように世界が出会われ、開示され(「開示性」)、自身の存在が了解されていくか(「存在了解」)、これが自身の存在である「現存在」に先立つ(「存在了解が現存在に先立つ」)。「左へカーブを曲がると光る海が見えてくる」という小沢健二の歌詞は、私には、人々が世界を開示する様を情景描写としてうまく表す歌詞に思える。世界との瞬間の出会われ方とかけがえのなさを歌う小沢健二の歌詞は、ハイデガーに通ずるものである。先のMステで風間俊介が小沢健二の歌詞の風景描写を称えたのもここに通じるのかもしれない。
またタモリの言う「全肯定」の思想といえば、タモリの師とも言える赤塚不二夫の「これでいいのだ」の思想と結びつけられる。タモリと赤塚不二夫と言えば昨今は、赤塚不二夫の葬儀において行われたタモリの弔辞が有名である。ここにおいて、メディアではカットされがちであったが、タモリはその思想について短くまとめている。
「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、『これでいいのだ』と」
これはまさしくタモリのお笑いの思想である。またここでタモリは時間が断ち放たれるという言葉を残している。つまり瞬間が永遠と同じようなものとなるということである。時間空間存在があるのではなく、関係性とかけがえのない瞬間瞬間の出会いがあるだけ、このような仏教の「縁起」の考え方が赤塚不二夫とタモリを貫いている。
タモリが小沢健二の「さよならなんて云えないよ」の歌詞を絶賛したトークの後にはこのようにも会話している。小沢健二曰く、小沢自身は大学などで学んだことを歌詞や曲にいかし、またタモリはずっと「いいとも」をやることで表現してきたのかもしれないと。いいともはまさしくお昼の生放送で、即興の笑い(=ジャズ:タモリの好む音楽)を奏で続ける場であった。タモリは言う。簡単なものを複雑に表現するバカな営みではなく、複雑なものをいかに簡単に表現するかが大事だと。
小沢健二もこう応える。「痛快ウキウキ通り」みたいに表現したいと。この記事も、タモリの弔辞を持ち出したりして、野暮かつ複雑な表現であるかもしれない。しかし評論家、思想家として、直接的に表現することも戯れの1つのエンターテインメントであると考える。
なお、小沢健二はこのように歌詞について注目されることが多いが、90年代アーティストならではの軽快に弾む特殊なメロディーは、1つのアートとして、現在に蔓延る特殊な歌い方に対する1つのカウンターとしても新鮮で価値あるものだと思う。
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NHK「有田Pおもてなす」の2019年9月7日放送回に竹中直人がゲストで登場していた。この番組は、1人のゲストのリクエストに合わせて、芸人がネタを披露する番組である。
竹中直人は、自身の持ちネタである「笑いながら怒る人」などを2018年キングオブコント王者のハナコにコントの中に取り入れるよう要求した。竹中直人は、予定調和の笑いが好きではないと笑いの好みを説明していた。
竹中直人はもともと、お笑いで世に出てきた。当時、「TVジョッキー」という番組のザ・チャレンジという素人お笑い勝ち抜きコーナーで初代チャンピオンになるなどし、そのコーナーの3代目チャンピオンはとんねるずの石橋貴明であった。
「有田Pおもてなす」の2つ目のコントでは、2016年キングオブコント王者のライスに対し、予定調和が嫌いな竹中直人らしく「コントの最中に何かが起こる」というリクエストをした。コントの途中に加山雄三のそっくりさん芸人(ゆうぞう)が乱入したり、またピン芸人・永野が乱入し、自由にネタを披露していった。予定調和を破壊する芸人といえば永野だということだった。
先程も書いたように、竹中直人はとんねるずと同世代のお笑いだった。その頃のお笑い界やテレビは、比較的自由だったのだ。お笑いはその頃より、コンビが主流になっていったり、CMに行きやすいようなオチを入れる計算がされていくなどして、どんどん洗練されていった。
これらを主導したのが、明石家さんまとダウンタウンだった。しかし、それはお笑いのシステム化とも言える。明石家さんまとダウンタウンは特にプロとしてのお笑いを目指し、技巧を洗練させ、笑いのパターンを確立していった。
しかし、お笑いのパターン化はお笑いの本質さや芸術性とは矛盾するものである。社会システム理論家のニクラス・ルーマンという現代を代表する社会学者も、芸術の本質を新奇性としている。
芸人ならばパターン化された笑いではなく、新しい見たことないものを見せて笑わせたい、そこには芸術性が宿されているのだ。ちなみに明石家さんまとダウンタウン松本人志では、ここに大きな違いがあり、明石家さんまはパターンの笑いを追求し、松本人志は笑いの芸術性を追求している。プロの芸人ならばいつでも笑わせることができるべき、明石家さんまの場合はこの発想から、笑いのパターン化を追求し、芸人のプロ性の追求は必然的にこの方向へと至る。
社会のシステム化、パターン化は消費社会論で著名なジャン・ボードリヤールから導くことができる。大量生産の先にある様々な色違い商品は、小さな違いを生むといえども、やはりそれはパターン化へと至る。見慣れた商品やエンターテインメントは、あらゆることがらのパターン化された社会へと至る。それを、どれが本物でどれが偽物かの区別がつかない物で溢れているパターン化された「シミュレーション社会」という。
そのパターン化されたシミュレーション社会を克服し、あたかも本物の何かを求めるかのごとくという中に挑戦的なお笑いが存在する。お笑い芸人が有り余り、ひな壇というスタジオセットに多数の芸人が並び、短い時間のやりとりでしか自分を表現することができない。
関西よしもと流の、ひとネタ振って、いつものひとネタが返ってくる中で「笑いが成立した」とされるお決まりなやりとりを素地にすると、その場で生み出される新しい笑いのやりとりの自由は奪われる。
「笑いの成立」のシステムの中で、サラリーマンに限らず、サラリーマン的になった芸人が歯車として扱われる。偉大な社会科学者カール・マルクスのいう「物象化」である。スター芸人が現れなくなった背景もこうしたところにある。
今回のゲストで登場した芸人の永野はある程度の尺を持つ自分のネタを比較的自由に入れ込めるいかにも自己表現が強い芸人の代表である。今回の番組ゲストであった竹中直人やその同世代のとんねるずも、自己表現が強く、予定調和を嫌うシステムの笑いの批判者であり、彼らがよしもと芸人と合わないのもはっきりとした故あるものである。
ちなみに、竹中直人に憧れる、よしもとの経歴も持ついかにも予定調和破壊芸人ハリウッド・ザコシショウは、予定調和破壊ポジションを手にしつつも、笑いのパターンに入り込めるやり方をも手にしている。
また、よしもとの予定調和破壊型芸人くっきーは、テレビ朝日「ロンドンハーツ」で、とんねるずからの多大な影響に言及している。 この記事の具体的な芸人は、上記の通り、永野がその代表事例であった。この記事は冒頭の通り10月初旬に起草したものである。
この記事を書いて以来、「そういえば永野は最高な芸人だった」と思ったものであったが、かといってそうは言っても、永野がこれ以上テレビで活躍するビジョンは正直見えてなかった。
そうこうしているうちに永野を最近ちょっとずつテレビで再びよく見るようになってきた。今後も永野をよく見ることが期待できる番組は1つはやはり同じく有田哲平のフジテレビ「全力!脱力タイムズ」である。
最近はアンタッチャブルを復活させた番組として、これまた注目されている。元々、有田哲平はザキヤマこと山崎弘也の兄貴分的存在なので、この番組でアンタッチャブルが復活するのは、むべなるかなというところであるが、有田哲平が永野を重用するとはなかなか驚きなことである。しかし有田哲平はホリケンこと堀内健と昔から仲が良く、以前は2人でテレビ東京で「アリケン」という番組もやっていたことを考えれば、このような芸人の使い方もなるほどというところである。
有田哲平自身は、すごくベタなボケを中心としていたり、昔はザキヤマとともに寡黙なキャラをやってみたり、不思議な芸人ではあるが、「脱力タイムズ」で見られるように、芸人のプロデューサー的存在として重要な地位を占めていると考えることは大いにできる。
「脱力タイムズ」では、コウメ太夫をうまく使っていたり、 コアなお笑いファンからすると、 非常に求められているものをなしており、また芸人の名プロデュース番組であると言える。脱力タイムズは、今後もお笑い界において重要な位置づけをなす番組であろう。
なお、永野は、最近では、斎藤工のおすすめ芸人として再びよくテレビに出ている。以前から斎藤工はお笑いに寄り添うような仕事の仕方をしていたが、まさかここまでコアなお笑いの趣味であり、フィクサー的な動きをしてくるとは誰もが驚いたことであろう。
斎藤工もコアな好感度をここにおいて上げていっていることと思われる。こうした動きは、お笑いの硬直化を防ぎ、お笑いの進化を保障するものだ。永野こそ今こそ求められ、時代を切り裂く芸人の1人だと言えよう。
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2019年11月18日、木下優樹菜が活動自粛を公表した。これは木下優樹菜の姉とその友人とのタピオカ店店長との間でのトラブルに対し、木下優樹菜がTwitter上のDM(ダイレクトメール)でタピオカ店店長に対し恫喝をしたとして騒がれているものだ。
しかしこの騒動もまたやたらと一方的な展開である。この経過の初期を見ていたものならわかることだが、木下優樹菜の姉は Instagram に長文を投稿している。このサイトにもあるように、 木下優樹菜姉妹側の言い分は簡単に見ることができる。
簡単にまとめれば、元々、木下優樹菜の姉のママ友であったタピオカ店店長は、やたらと不当に木下姉妹をタピオカ店経営に利用したということだ。妹である木下優樹菜も宣伝に使われてしまって姉としては問題視せざるを得ないのは当然であろう。一方の主張を鵜呑みにはできないとしたとしても、この騒動は、簡単に、一体誰が悪いのか迷うようないざこざを見てとることができる。
世論やネット世論は一方的なものである。特には何を持ってしても「恫喝は悪い」と一言で済ませようとする意見が多い。何が木下優樹菜をそんなに怒らせたかということを考える意見は皆無と言っていい。しかし、姉への仕打ちや木下優樹菜というタレント商品を利用したことを考えれば、木下優樹菜の怒りは妥当であるし、厳密に考えてしまえば、木下優樹菜への宣伝料は結構な額になるだろうし、それは所属事務所を通してのビジネス上の取引となることは当然である。よって事務所が怒ったとしても当然なことである。
ネット世論の重要な引っかかりはこの所属事務所というところに1つあった。木下優樹菜の所属事務所はバーニング系事務所プラチナムプロダクションであるので、芸能界で大きな権力を持つネット世論のある種のキーワードでもある「バーニング」という名前に1つのネット世論の引っかかりがあったのである。
また木下優樹菜のイメージも元々微妙なバランスにあった。木下優樹菜のブレイクはいかにもフジテレビ「ヘキサゴン」という番組であり、いわゆるおバカキャラとしてブレイクした。またヤンキーキャラを持っており、FUJIWARA藤本敏史と結婚してからは、実はしっかりしたヤンママキャラとして、好感度夫婦のイメージをウリにしていた。
元々微妙なバランスでの高い好感度と、それへの反動によるスキャンダルでのバッシング、そして何を言っても最終的には否定されてしまう、何を言っても「恫喝が悪い」の一言で叩かれてしまう、この現象はまさにベッキー騒動を思い起こさせるものである。数年経って落ち着くと、ベッキーの何が悪かったか、今は Web 上ではここに、ベッキーは会見などで「嘘をついたから悪い」と結論付けられることが多い。
[参考]<パクリ企業の謎>世界一有名な無名デザイナー三宅順也って誰?
元々ベッキーは川谷絵音の結婚を知らされていなかったとされている。つまりベッキーは川谷絵音に騙されていたわけだ。しかし事細かにベッキーはいかにも共犯扱いされてしまう。そして結局何が悪かったか、結論として会見での「嘘が悪い」などと言われてしまう。このケースでは、結局「嘘をついた」がゆえにベッキーは多くの仕事を取られてしまったのかと、今回の木下優樹菜騒動以上に、おかしな一言総括がされてしまう状況である。
ネット上の世論は、ますますここに来て、短絡化が進んでしまう。こうした状況では、芸能界や事務所側もなんとか騒動を鎮めたいと思うのは無理のないことである。こういう状況では、マスメディアも芸能人を守ろうとすると、徒党を組んでいるものとして叩かれてしまうし、権力事務所が言論を統制していると事実とは無関係に批判されてしまう。
明石家さんまはこの騒動に対し、インターネットの出現による表現上の問題を指摘している。もちろんこれに対してもネット世論は、明石家さんまのイメージとしては古い業界の人間であり、常に芸能人を守るというイメージがあるので、時代錯誤として一蹴されてしまう。
しかしこれもよく考えれば、元々はママ友同士なのだから本来は話し合いや言葉の応酬で解決するはずのものであり、「事務所総出」というといかにも暴力団的な恫喝に聞こえてしまうが、そのような恫喝であったのかは、もしも対面での言葉の応酬であれば表現の仕方が変わっていたことは大いに考えられる。
通常の話し合いでは相手がなぜ怒っているのかを互いに探り合い話し合うものである。既述の通り、怒る側には怒るだけの理由があり、Web上に現在出ている情報をそのまま受け止めれば、木下優樹菜が怒る理由も正当なものである。既述の通り、事務所が出てきて対応しても全くおかしくない事態である。
管賀江留郎の『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』という著書がある。冤罪事件を詳細にとりあげた上での終盤の分析に評価がある。タイトル通り、冤罪事件はなぜ起こるのか、それは人々が正しい心を持とうとする道徳感情によるものだということである。人々が容疑者に鞭を打とうとする人々の沸騰した状態を著者は「市民の間に盛り上がる囂々たる空気」と表現している。
インターネットの出現は、これをいかにも表現しやすくなった。木下優樹菜の騒動もベッキーの騒動も、単にこれまで全面的に支持できなかった芸能人を叩けるチャンスが来ただけなのではないかと見ることもできるが、人々の冷静な思考を停止させているものがあるとすれば、それはまさに道徳感情による悪を罰したいという正義感である。
本書では、アダム・スミスの『道徳感情論』と現代の進化生物学をリンクさせながら道徳感情がいかに人を誤らせるのかを説明する。大雑把に要約すれば、助け合うことが自身を最も生きながらえさせるということからくる、人類に埋め込まれた道徳感情だということである。良いことをしていれば間違いなく報われるはずなのだという感情であり、公平に悪いことをしている者は罰せられるべきだという感情である。
そして自分が正しいことをしていると思っている時は冷静な判断を失い、結局は正しくない行動を、誤った行動を人間はしてしまいがちなのである。著書ではこれをアダム・スミスの古典的哲学を出発にしつつ、虫も動物も古代人も現代人も共通にしているはずの生物の生態を進化生物学でもって、著者は説明している。
私は Web 上の批判(炎上)による芸能人の追い落としを最初に跡づけたのは2007年の沢尻エリカの「別に」騒動だと記憶している(カウントの仕方にもよるが)。当時はネットメディアも乏しく、J-Castというネットメディアがネット世論に公的に与している程度であった。
つまり、これがYahoo!トップに掲載されることで、ネット世論の権力は一段大きく上がった。沢尻エリカの「別に」騒動は、実際はネット世論以上に、業界内を騒がせたということが大きかった(中山秀征の日本テレビ「ラジかるッ」という番組での態度も不評を買った)。
しかし、まもなくして2008年、倖田來未の「羊水が腐る」発言の炎上はまさしくネット世論の力で発言を周知させ、倖田來未を謝罪に至らせたと言えよう(これも数年後には(当時からも言われていたが)、倖田來未の発言は正しかったじゃないかとWeb上で度々言われてしまう始末である。倖田來未はこの事件を機に落ち目になるのを促進させている)。奇しくも最近の2019年11月16日、沢尻エリカは大麻所持で逮捕されている。
これらから約10年経ち、ネット世論の短絡化は極まった感がある。ネット世論の冷静な思考を鈍らせているのは道徳感情であるのはそうだが、一方で、発言者やターゲットが誰かによって叩かれ方がまったく違ってくるというのも否めない。木下優樹菜の姉のママ友であるタピオカ店の店長は、木下姉妹への不当な扱いが多々あったにもかかわらず、悪く言ってしまえば、木下優樹菜を陥れるに十分であるDMを得たことで一方的な勝利を手にしてしまった。
いや、本来は双方の言い分を巡ってWeb上で応酬や論争がなされるはずではなかったのか。 悪く言ってしまえば、木下優樹菜といういかにも批判されそうなタレントによるいかにも批判されそうなDMを得たことによって、いとも簡単に一方的な勝利を手にしてしまったのである。ネット世論を味方につけることでの一方的な勝利といえば、(元)NGT48の山口真帆へのファンによる暴行騒動が思い起こされる。
この騒動自体のここでの詳述は避けるが、込み入った様々な問題が、山口真帆によるネットイナゴとでも言うべき存在の誘導によって、問題の拡大が起こったのは間違いのないところであろう。山口真帆との関係がどうであるかに何の根拠もないにもかかわらず、NGT48メンバーへの脅迫による逮捕者も幾人か出ている始末である。まさしく(それと言うにはあまりにも短絡的に生じた)冤罪被害者が(ネット世論による私刑だが)多く出た感のある騒動であった。2019年のネット世論は、ともすれば、ネット世論を簡単に操ってあらゆるメディアや世論を誘導できる時代に進みつつある一歩を踏み出したかのようにみえる。
政治言論がそうであるように、Web 上の言論によって、リアルの意思決定がそのまま動かされるようではいけないのではないか。Web 言論の間接民主制(権力の分散)を果たすべく、ネットメディアやマスメディア、番組スポンサー企業が、もっと自律的に考えて、社会的責任、倫理性を果たせるようにならなくてはならない。
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