<ネタバレ注意・又吉直樹「火花」を読んでみた>漫才には主義主張などない。面白いか否かが有るだけである

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高橋維新[弁護士]
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又吉直樹著「火花」(文藝春秋)をようやく読み終えたので、その感想を書いてみたい。
物語自体は、語り手の芸人・徳永と、違う事務所の先輩芸人・神谷の交流を描いたお話である。主に描かれているのは、神谷という人間の生き様と、それを見た徳永の感想である。
文中で徳永は神谷から「俺の伝記を書け」と命じられており、実際に神谷の振る舞いをノートにメモして溜めていっているため、その一部が小説になっているという見方もできるかもしれない。
神谷は、周りの目を気にせずどんなシチュエーションでも自分を貫ける人として描かれている。他方でそれを見ている徳永は、周りの目を気にできる(気にせざるを得ない)「普通の人」の代表である。
象徴的なのは、2人が公園で出くわした赤ん坊をあやそうとするシーンである(単行本p.77)。神谷は「いないいないばあ」という「普通」の手法をとるのに対して、徳永は「昨日考えた、蠅川柳である」と題して、赤ん坊に対して「蠅」の語を含んだ五七五を次々と読んでいく。
ここには、赤ん坊という客にウケるかどうかを一切考えず、自分がおもしろいと思ったことを貫こうとする神谷の姿勢が表れている。
また、もう一つ象徴的な描写を挙げるとすれば、神谷が徳永に合わせて自分の髪も銀髪に染めた箇所であろう。神谷は徳永から「それは結局自分の模倣であって、結局自分らしくないことではないか」という趣旨の指摘を受けるのだが、神谷は「いや、お前の髪型見てな格好良いと思って」と嘯いて憚らない(単行本p.117)。
自分が好きだと感じれば、それが他者と被っていてもそれを貫くことこそが自分らしい生き方だということを神谷は言っているのである。そこで他者から模倣だと言われないかと考えて自分の「好き」を引っ込めてしまえば、それこそが自分らしさを押し殺す生き方だということなのである。
他にも、神谷の信念は具体的な行動となってこの小説の随所に立ち現れる。
ネットで芸人を誹謗中傷する人間に対しても、

「それがそいつの、その夜、生き延びるための唯一の方法なんやったら、やったらいいと思うねん」(単行本p.96)

と述べ、それがその人の自分らしい生き方であれば、他者を傷つけるものであっても肯定する。
小説の最後には、

「どうせなら、大きい方が面白いと思って」(単行本p.140)

と豊胸手術までしてしまう。この発想も、芸人をやっているなら簡単にたどり着く程度ものではあり、陳腐なのだが、自分が面白いと思った以上実行にまで移してしまうのが神谷のすごいところなのである。
このように、神谷は、芸人・漫才師であって、それこそが自分らしい生き方だと信じている。
ところが神谷本人は、

「気づいているか、いないかだけで、人間はみんな漫才師である」(単行本p.82)

という理論を提唱する。徳永と出会ってすぐの頃には、

「本当の漫才師というのは、極端な話、野菜を売ってても漫才師やねん」(単行本p.16)

という言葉遣いもしている。
神谷のいう「漫才師」というのは、「自分を貫いて自分らしく生きられる人」のことではないだろうか。それは、職業としての芸人に限られず、八百屋であってもそれが自分らしい生き方なのであれば漫才師だということだろう。そして、人間はみな自分らしく生きたがっているというのが「人間みな漫才師」という神谷理論の言いたいことなのだろう。
しかし、人間は自分らしく生きているばかりでは社会で孤立してしまうものである。「社交辞令」「気遣い」などという嘘が世の中には溢れている。つまらないと思ったものを素直におもしろいとは言わず、他者を傷付けないために嘘をついて自分を押し殺す。そうやって、自分と他者との関係をうまいこと調整しながら生きているのが大多数の人間である。
徳永もその一人であり、「漫才師」として自分らしさを全うしようとしている神谷に感銘を受けために、長い付き合いを始めることになるのである。
でも、小説をよくよく読んでみると、神谷自身も全く自分らしさを貫徹できてはいないのである。本当に自分らしさを貫ける人であれば、自分が好きなことさえできていれば、味方が一人もいなくても泰然としていられるはずである。
ところが、神谷はまず徳永と頻繁に交流しており、売れない芸人としてけして経済的には豊かではないのに、会うたびに食事や酒を奢っている。自分を「すごい人」と崇めて肯定してくれる徳永という存在となんとかして自分のもとにつなぎとめようとしてる神谷のせせこましさが見てとれ、涙ぐましいとともに痛々しい。
こんな描写もある。徳永が「ベージュのコーデュロイパンツが嫌い」という話をした後に、2人で神谷の寝床に行くことになるのだが、神谷の座る場所がいつもの定位置と違った。
神谷は、昔買ったベージュのコーデュロイパンツを持っていることを徳永に知られたくなくて、それが隠れるような位置に座っていたのである(単行本p.71〜)。ここにも、「数少ない」味方である徳永から見捨てられたくないという神谷の弱さが看取できる。
神谷は、交際していた「真樹」という女性と別れることになった時も、人一倍の女々しさを発揮している。神谷が真樹の自宅に置いていた私物をとりにいくことになるのだが、真樹に新たにできた男がもう真樹の自宅に同居しているということであり、

「万が一そいつに文句言われたら殺してしまいそうやから」(単行本p.87)

と徳永に同道を求める。
結局神谷も、ただ一人孤独に自分の生き様を貫いていくことはできず、徳永や真樹と言った自分を肯定してくれる他者に囲まれていないと生きていけない存在なのである。自分らしく生きることは、それはそれで礼賛すべき素晴らしい生き方なのであるが、結局はそれを貫けない人間の弱さというのがこの小説の主題なのだろうと思われる。
そもそも、神谷が自分らしさを発揮しようとしている「芸人」という職業は、観客という他者に笑ってもらわないと成立しないものである。神谷が自分らしく生きようとすると、不可避的に他者のことを考えざるを得ず、そこで自分らしさを引っ込めるという妥協と調整が必要になるのである。
芸人に限らず、表現には全てこのような側面がある。表現者は、大抵「自分の表現したいもの」を持っているが、それがそのまま多くの他者にも受け入れられる人はほんの一握りである。
「どういうものが大衆に受けるか」という情報を持っている編集者なり、プロデューサーなりという存在が個々の表現の修正(それはとりもなおさず表現者の個性を削り取って観客という他者の「好み」に合わせることである)を求めてくる。
筆者も、表現者として一番表現したいのは、「ファミ通町内会」で掲載されているような4コマ漫画なのだが、あれでは大ヒットは望めないのである。
表現者のように、自分らしく生きようとすると、不可避的に自分らしさの妥協を求められる矛盾を抱えた存在があるというのも、この小説の言いたかったことだと思われる。
 
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