<演出不足か?努力の放棄か?>アメトーーク「スマホ使いこなせない芸人」は嘘くさい

テレビ

高橋維新[弁護士]
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2016年1月28日放映のテレビ朝日「アメトーーク」のテーマは「まだまだiPhone使いこなせない芸人」である。
ちょうど1年ほど前に、同じテーマの放送回があり、今回はその続編ということになる。ひな壇にいる「iPhone使いこなせない芸人」の面子も出川哲朗が加わった以外は前回と同じであり、司会の横にいてツッコミと解説を行う「iPhone使いこなせる芸人」枠の面子も前回と同じである。
筆者が前回の放映を見て感じた問題点は「嘘くさい」ということだった。
「iPhone使いこなせない芸人」というテーマは、典型的な「ケナシ回」であって、iPhoneに振り回される芸人たちがその振り回されっぷりを自虐的に語り、バカにしてもらうというのがメインコンテンツとなる。
ひな壇の「使いこなせない芸人」たちは、自分が持っているiPhoneの操作法が分からないとか、対処法の分からない問題が生じたとかいった「バカにされるべき」エピソードを順に紹介していくのだが、みな芸人としては確かな実力を持っている面子であり、地頭はいいはずなのである。
すなわち、彼らの地頭をもってすれば、少し立ち止まって考えれば分かるようなことを大袈裟に「分からない」と言っているのではないかという疑念が拭いきれないのである。
実際に今回、「使いこなせない芸人」の一人が「使いこなせる芸人」のサバンナ高橋から促されて実際に生じた問題を解決するという一幕があったが、彼らは自分で落ち着いて考えるだけでこの操作ができると思われるのである。
もっとストレートに言えば、話を盛っているのではないかという疑念である。本当は分かるものを大袈裟に「分からない」「怖い」と言って自分の滑稽さを増幅し、笑いにつなげようという浅ましい魂胆である。
筆者は、嘘がいけないと言っているのではない。このような「嘘」は、笑いにつながるのでさえあれば歓迎すべきものである。
ただ嘘は「嘘だ」とバレた瞬間に「わざわざ人に笑ってもらうために話を作っているのだからきちんと中身が練られているはずだ」と視聴者が考えて、ハードルが上がってしまうのである。
嘘をつくなら、上がった視聴者のハードルを正面から超えるほどに綿密に練るか、嘘だと分からないようにしないといけない。今回の「iPhone使いこなせない芸人」は、そのどちらもできていなかったのが問題だと言っているのである。
もちろん、ここに書いてあるのは筆者の推測にすぎないので、彼らの言っていることも嘘ではないのかもしれない。
でも、嘘ではなかったとしたら、嘘のように見えてしまったことが問題なのである。要は、嘘にしろ、嘘でないにしろ、視聴者の上がったハードルに応えられないような内容のものであれば、嘘だと見えないようにするのがプロの仕事だということである。
今回、真実味があったのは普段からポンコツキャラで通っている出川のみである。実際に、彼のiPhoneに貯まっていた618件もの未読メールは、彼が本当にiPhoneを使いこなせていないことを強く印象付けた。
あとの面子は、前述のように地頭がよさそうな実力派芸人ばかりであり、出てくるエピソードもサバンナ高橋が少しアドバイスすれば解決するもの、あるいは前回も出てきたものばかりだった。
そう考えると、彼らの「iPhone使いこなせない」が嘘や演出でないとすれば、ただ単に分かろうとする試みを自ら放棄しているだけではないかと思われた。それだと、こんな感想になってしまうのである。
実際、今回一番おもしろかったのはiPhoneのカメラ機能を使って撮った蛍原の「チョイ溶け」写真である。これは、iPhoneを使いこなせないこととは関係がない。
ちなみに、この状態で一つ演出として考えられるのは、ひな壇から「使いこなせないエピソード」が出るたびに司会の側が「嘘だ~」「そんなわけないだろ~」などと応対して邪険に扱うことである。前に出たくて「使いこなせないエピソード」を盛ってくる芸人たちの、その必死さを嘲笑うという大木こだま的なドキュメンタリーコントである。別に、「iPhone使いこなせない芸人」というテーマでなくとも、アメトーークであれば盛られた嘘くさいエピソードはたくさん出てくるだろうから,いくらでもやりようがあるだろう。1年前も同じことを書いたが、真っ先にアメトーーク自身でこのセルフパロディをやってしまえば、この番組は本物である。
 
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