<寄席と落語家>噺家に課せられた顧客開拓の責務

エンタメ・芸能

齋藤祐子[文化施設勤務]

 
落語家の成長にとって寄席が必須か、といわれれば、寄席外に活動の場を持っている2つの会派のことが頭をよぎる。寄席は、落語家のギルドの発表と教育の場であり、かつ落語家の興行主である。
落語家は卵のうちから、そこで無給のインターンのようなものをしながら落語界のしきたりや先輩の芸を体にしみこませてゆく。やがて研鑽の結果、順調に出世して運が良ければ人気も出て、テレビやラジオ、ホール落語で看板をかけられるようになる。
それでも、次には人気の看板として寄席に集客しながら後進を育てる役回りがまわってくる。寄席芸では、出の順番によって役割がきちんときまっているため、我を抑えて次につなぐという、チームプレーや集団として寄席という場を盛り上げることを学んでゆく。寄席と落語界は、良質の客を多数かかえたプロの興行主と、芸人の供給元として互いに補完関係にある。
寄席に出ない会派は、結果として、寄席内での教育システムと歴史と実績のある興行主と法人同士として付き合う、という経験がないことになる。もちろん、それを補うような会派の定席を、独立系の2つの会派(円楽党、立川流)では設けているし、師匠が弟子を育てるシステムも昇進の基準も設けてはいる。
ただ、圧倒的に違うのは、落語界全体としての共有財産である寄席と興行主、そこに集まる観客の目に触れにくくなるため、どうしてもアウェイで顧客を開拓する必要があることだろう。つきぬけた人気を博せば、寄席の特別番組に呼ばれる、という可能性もなくはないが、あらかじめ顧客リストをもっていない、ということは自力で営業をしなければならないということになる。
独立系の2つの会派(円楽党、立川流)では、人気ある師匠の会にでて、落語好きの観客に芸を見てもらう会が、寄席に代わる機会となる。まんべんなくいろいろな落語家を聴き比べている観客ではないが、師匠の芸の好きな観客ならば、その芸に惚れて入門した弟子からすれば悪くはない顧客ではあるのだが。
立川談春がそのエッセイ「赤めだか」で喝破したように、立川流は研究所のようなものだ。安定して一定レベルの落語家を輩出する機能にたけた寄席というシステムをもたず、天才的といわれた師匠のもとに集うという性格が強くなった。昇進の基準も、数値的なものもある一方で、要するにカリスマの師匠が認めるかどうか、となる。
個性が立ってつきぬけるか、あくの強い芸でアピールするか、誰もがうなるうまさがあるか、など、守られていない彼らの個性は勢い強くならざるを得ない。
とはいえ、その顧客をがっちりもっていた寄席が、新しい顧客の開拓に苦心する昨今。どの会派も新しい客を開拓するためにあの手この手を考えている。時流に合わせて興行主自体が変化を余儀なくされる時代には、それにあわせた教育や団体を存続させるシステムが生まれてくるのかもしれない。
観客の一人としては、いい落語家の芸を少しでも多く聞いていたい、それだけなのだが。
 
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