<テレビの功罪?>崇高な「知る権利」とゲスな「のぞき見願望」は同じ

社会・メディア

メディアゴン編集部
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崇高だと思われている「知る権利」と、ゲスだと断じられる「のぞき見願望」は同種のものである。
ひとつの長い帯を想像したときに、左の端が、真白な「知る権利」だとしたら、右の端はどす黒い「のぞき見願望」なのである、その間は白から黒へのグラデーションのスペクトラム(連続体)として表されるのではないか。時代によって、対象によって、利害によって線引きの位置は右へ左へとずれる。
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メディアは時として、この「のぞき見願望」を、視聴者の「知る権利」だと言い張って、画面の前に人を引きずり出す。単なるゲスな「のぞき見根性」にもかかわらず、「知る権利」として、説明をさせたり、時にプライバシーの侵害さえ厭わない。
例えば、函館・北斗市の小学2年男児が「しつけのため」として放置され、失踪した事件。この事件、少年が無事救出され、問題は解決したが、この際、テレビは少年のインタビューを要求した。このような事例は、「知る権利」なのか「のぞき見願望」なのか。
こうした場合、取材に行ったNHK、民放のテレビ局は、話し合いをして、テレビ全局の要望であるとして、保護者に少年の声を取材させるように依頼するであろう。横並びでの要望であれば、仮に批判の声があったとしても、それは分散して、受けるダメージを小さくすることができるからだ。
もちろん、取材対象はそういう依頼は断ることも出来るが、今回の事件の場合は保護者の方にも断りにくい事情はある。今回のケースに限らず、そういう状況になってしまうことは多い。
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こういう時、少年の事情や気持ち、あるいは少年の未来へのしん酌などはあまり考慮されないが、テレビは横並びになったことで、「事なきを得た放送」を作ることができる。芸能ゴシップと変わらない単なるゲスな「のぞき見」だとしても、あら驚き、「知る権利」の正統な行使になってしまうわけだ。
そう考えると、現代においてテレビは「知る権利」と「のぞき見願望」の線引きをする力を持った強大な権力と言えるかもしれない。テレビは、それほど心して見なければならないメディアなのか。
 
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