脳科学者・茂木健一郎は「脳トレという言葉が嫌い」

エンタメ・芸能

茂木健一郎[脳科学者]
***
先日、読売新聞の企画で石川善樹さんと対談して、とてもおもしろかったのだが(特に、public healthというアプローチの根源的脆弱性)、その時、「ぼくは『脳トレ』という言葉が嫌いだから」と言ったら、石川さんが、「え、そうなんですか」と言った。
「嫌いに決まっているだろ〜」と言ったら、石川さんが「そうですよね」と納得した顔になった。それはそうである。『脳トレ』なんて言葉を、自ら進んで使うはずがない。世間にそういう需要があるから、また、メディアが便利に使うから、仕方ないからおつきあいで使っているのだ。
というわけで、「読売プレミアム」の連載で、ヨミウリ・ウィークリー時代からお世話になっている大切な二居隆司さんが、タイトルを『脳トレ』としてきたときには、正直「まいったなあ」と思ったが、この際だから、「うっちゃり」みたいなことをやろうと思って、書いている。
【参考】為末大氏「パラリンピック報道に違和感」
世間の『脳トレ』についての浅薄な期待を逆手にとって、たまには『脳トレ』をしないことが『脳トレ』だと書いたり(だってDMNが働くから)、ワグナーの「ニーベルングの指環」のように、『脳トレ』なんという浅薄な領域を越えたものが芸術である、みたいな技を仕掛けて実は連載書くのが楽しい(笑)。
自分が何かをやっているときに、『脳トレ』なんて意識でやっていることは1秒もないに決まっている。世間がなぜそんなものを求めるのか、ぼくは理解したことがないけれども、人間社会というものは常にそういうものなのだろう。
たとえば、小林秀雄が晩年にいろいろと模索して、考えていることを『脳トレ』という言葉で語ることがナンセンスなのと同じように、それぞれ一回だけの人生で、考え、感じることを『脳トレ』なんていうパッケージでくくることの愚かさは、時々誰かが言った方がいいのだと思う。
世間がある思い込みで動いていて、メディアが軽薄にそれに乗っているときに、それにお付き合いしつつ、土俵際でうっちゃることでしか伝わらないことがあると思っているから、私は現場で何かに抵抗しているのだと思う。『脳トレ』なんて、一秒もやらないけどね。

  (本記事は、著者のTwitterを元にした編集・転載記事です)

 
【あわせて読みたい】