外国語学習における「サイレント・ピリオド」こそ学びの醍醐味 – 茂木健一郎


茂木健一郎[脳科学者]

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<言語習得におけるサイレントピリオド>

脳の神経回路網の変化は、ゆっくりとしか進行しない。しかし、その進行を進めるのはある特定の課題に取り組むという「文脈」だけである。だから、辛抱強く、地道にやるしかない。

第二言語の習得においては、「サイレント・ピリオド」という期間があることが知られている。たとえば英語を学ぶときに、しばらくは周囲で英語を話していても、その話者は黙っている。表面的には、何の進歩もないように見えてしまう。

しばらく何の進歩もないから、英語学習の進歩がないように見えるが、それでもその英語の環境に置いておくと、やがて、ある時期が来ると突然顕著な進歩を見せるようになる。サイレントピリオドが終わったのである。

サイレントピリオドにおいて、脳内では何が起きているのだろうか。外部へのアウトプットというかたちで進歩が見えなくても、神経回路網には徐々に微小な変化が蓄積しているものと思われる。それがある「しきい値」を超えた時に、顕著な進歩が外在化する。

脳の神経回路網の変化は連続的だから、サイレントピリオドにおける変化に比べて、進歩が顕在化した後の変化の方が特に大きいということではない。むしろ、サイレントピリオドで潜在的に進行している変化の方が、習得の準備という意味においては実質的である。

言語習得における文法構造や意味の理解の多くは無意識のうちに潜在的に起こる。そのような視点からも、一見何の進歩もないように見えるサイレントピリオドの重要性が推認されるのである。

【参考】<創造性の核心>創造性は生み出すものにとっても「驚き」である

<サイレントピリオドの一般的な意味>

外国語学習において、表面上なんの進歩もないように見える「サイレントピリオド」があるということを認識することは重要だが、それは、その期間粘り強く努力を続けるということに限らない。

そもそも、学習の成果とは何なのだろうか。学習者は、努力に見合った見返り、すなわち進歩や他人からの承認という報酬を求めがちだが、学習の成果が、ずっと後で、一つの「イースターエッグ」として顕れることもある。

たとえば、自分がよく理解できない言葉で話している人たちに囲まれて、その中で無力感、疎外感、もどかしい感じ、頼りない感じ、情けない感じを体験するということ自体が持つ、認知的学習のきっかけがある。

母語の中でぬくぬくとしていた人が、異なる文化、言語の環境に置かれた時に感じる孤独、頼りなさは、その人の魂を鍛えるし、また、コミュニケーションというものについて根本から考え直すきっかけにもなる。

ある高名な小説家は、小説を書くためにはどうすればいいかと聞かれて、何でもいいから外国語を真剣に習得しなさいと言ったそうだが、異なる言語に触れることの効用は、その言語の習得ということに留まらないのであろう。

外国語に真剣に向き合うことで、ひるがえって母語に対する感性が磨かれるということはある。英文学の中に耽溺して日本語世界に戻った漱石はその好例だろう。漱石にとって英語習得そのものが日本語磨きのサイレントピリオドだった可能性すらある。

【参考】オタク魂を持っている人は人間として成長する

<面白さのしきい値>

外国語習得において、表面上進歩がないように見える「サイレント・ピリオド」の意義は、類似のさまざまなプロセスの意味にも通じる。たとえば、何かを学習する時の「面白さのしきい値」のようなことにも応用できる。

どんな分野であれ、最初はとまどいもあり、また構造や意味もわからないため、つまらないなと感じることもある。ところが、しばらく我慢して続けていると、突然、ああ、面白い、と感じることができる「しきい値」を超える。

中学生、高校生と話していると、たとえば英語学習において、この「面白さのしきい値」を超えていないな、もったいないなと感じることがある。「面白さのしきい値」を超えると、ぐんと英語学習がたのしくなる。

「面白さのしきい値」を超えるためには、すぐには見返りを求めずに、とにかく素直に人の話を聞いたり、ものを見たりする段階が必要である。価値判断をしない「マインドフルネス」の状態は、この時期を経験する上では適した状態である。

「これを学ぶと何の役に立つのか?」「どんなご利益があるのか?」「何が面白いのか?」といった結論を性急に求めるのではなく、虚心坦懐に受け入れることで、やがて、「面白さのしきい値」を超えることができる。それが学習の最大の醍醐味である。

教師にとっては、生徒が「面白さのしきい値」を超えるのを手助けするのが最大の課題になる。そこを超えれば、あとは生徒が勝手に自分で勉強するようになる。心に火をともせば、その炎は一生燃え続ける。

【参考】継続させる秘訣は「常に今、ここ」に没入すること

<面白さのしきい値超えは無意識からのメッセージ>

何かに取り組むときには、面白さのしきい値を超えるところまでがんばらないといけない。その際には「サイレント・ピリオド」を経過しなければならないけれども、そこで起こっているのは、実は「理解」の構造化である。

面白い、と思えることは、つまり「理解」できたということで、本来面白いものが面白いと思えないということは、つまりは理解できていないということである。理解が面白いにつながるとすれば、面白さのしきい値超えを目指すのはつまりはそれを理解するということだ。

ペンローズが理解は意識の象徴であり、コンピュータには実装できないとずっと主張しているように、理解という事象を解明するのは現時点では難しい。人工知能には理解はない(おそらく)。理解は非局所的な事象である。

ペンローズのモデルでは、理解というのは個々の要素の積み重ね(たとえばアルゴリズム)では書けないのであって、非局所的な相互作用が行われなければならないのである。つまりは、それは意識と同型になる。

実際には、理解の実質的なプロセスは無意識の中で起こるのであるが、それが意識に顕れるときには、「ああ、そうか」という気づきとなる。意識がメタ認知を通して理解の状態をモニターして、それを主体がうけとめる。

面白さのしきい値を超えることは、無意識の中の連続的プロセスとして準備されるのであるが、それが意識化されて初めて主体は認識する。面白さのしきい値超えは、このように、無意識から意識へ向けてのメッセージでもある。

(本記事は、著者のTwitterを元にした編集・転載記事です)

 

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茂木健一郎

茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)脳科学者。株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所上級研究員。1962年10月20日、東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程終了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を出て現在に至る。「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究するとともに文芸評論、美術評論にも取り組んでいる。