<今ではどこもやっている>ワイドショーの「新聞読み」コーナーのオリジナルは「あの番組」だった

テレビ

高橋秀樹[放送作家]
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筆者がテレビ業界に入った頃のこと。配属されたADの仕事はアイロンをかけることだった。
何にアイロンを掛けるのか? 不思議に思うかもしれない。答えは「新聞」である。新聞紙のシワをしっかりと伸ばして見やすいようにボードに貼り着ける。これは専門職のようなもので、その技術はADからADへと伝承されていった。
ワイドショーのいわゆる「新聞読み」は、どの番組で始まったのか。アイロン掛けの技術を伝承していた番組、それは『ヤジウマ新聞』(1985〜1987・テレビ朝日)であると思われる。
テレビ朝日は民放としては後発局で、それ以前はNET(日本教育放送の略称)と呼ばれ、教育番組を放送することが義務付けられていた。それが娯楽番組などもできる総合放送が可能となり始まったのが『おはようテレビ朝日』(1981〜1985)である。
そこに『ヤジウマ新聞』というコーナーがあった。このコーナーは人気が高く、後に単独の番組『ヤジウマ新聞』として発足する。以後番組タイトルを変えながら、形は現在のテレビ朝日の朝番組にも踏襲されている。
なぜ「新聞読み」が始まったのか?
後発のテレビ朝日が「3強1弱1番外地」(三強=日テレ・TBS・フジ、一弱=テレ朝、番外地=テレ東)と評された当時の東京キー局。テレビ朝日が「1弱」に当てはめられてしまったのは、番組の制作費が少なかったからである。それこそが「新聞読み」が始まった理由である。
読み手と新聞解説者とアイロン掛けのADと、新聞があれば放送できる「新聞読み」。しかも、これは朝のサラリーマンのニーズを的確にとらえていた。
そう考えれば、今はどこの情報番組でやっている「新聞読み」というアイディアは、そもそもはテレビ朝日のオリジナルだったのか。
しかしながら、筆者はテレビ朝日がオリジナルであるとは思っていない。本当のオリジナルとして、更に遡る先行番組、日本テレビの『テレビ三面記事 ウィークエンダー』(1975〜1984)を挙げたい。
「新聞によりますと・・・」を枕詞に三面記事の裏側をスチール写真で取材に行って、司会の漫画家・加藤芳郎に報告するという形式の番組である。番組を発明したのは、日本テレビの鬼才・細野邦彦(現・東京MXテレビ取締役相談役)。たいていの番組は先行番組のパクリやアレンジで作られているが、この番組だけは新しかった。
これは、細野邦彦の「発明」で作られたオリジナルの企画だった。
取り上げる新聞の内容は「金と、女と、事件」。この方針は週刊新潮の編集長を務めた齋藤十一の編集方針と全く同じものであり、齋藤はこれを「俗物主義」と呼んで誇った。『テレビ三面記事 ウィークエンダー』もまさしく俗物主義を誇る番組だった。
リポーター陣からは女浪曲師出身の泉ピン子、上方落語の桂朝丸などのスターが生まれている。後に再現ドラマで事件を描くこともあったことを考えあわせると『テレビ三面記事 ウィークエンダー』には、「リポーター」「再現ドラマ」「新聞読み」といった現代のワイドショーの要素が全て詰めこんでいたのである。
いわば、『ヤジウマ新聞』はこの『ウィークエンダー』を上手にアレンジしたのである。
「新聞読み」は、直ぐに他のワイドショーに真似され、各局に広がっていった。何しろ金をかけずに長い時間を埋められる。だが一方で軋轢も産んだ。報道局からのクレームである。

「いやしくも報道機関たる放送局が他の報道機関の記事を垂れ流すとは誇りはないのか」

「その記事はウチではまだつかんでいないのに、報道局に恥をかかせる気か」

「ウラは新聞社が取ったからいいという考えなのか、誤報だったらどうするのか」

こうした軋轢は今もあるが、「新聞読み」が視聴率を取るので、報道局の空騒ぎに終っているのが現状だ。
ここまで「少ない予算と人員で手軽にできる新聞読み」という立場で論を進めてきたが、それだけでは実は遺漏がある。バカにしてかかると手痛いしっぺ返し(低視聴率)を食らうのもまた「新聞読み」だからである。
「新聞読み」に関わる人はすべてがプロでなければならない。読み手は少なくても読む記事の内容をすべて理解しておかなければならない。(視聴者にこの読み手は全部わかっている人だと思わせなければならない)読み手のそばにいる識者は記事に対してただの印象批評をいう人であってはならない。
「そんなことはアタリマエだ!」と言われるかもしれないが、そうではない。ワイドショーが実はたくさんあることは視聴者に既に見ぬかれている。視聴率の良くない「新聞読み」コーナーがあるワイドショーは、上述したアタリマエのことができていないのである。
忘れていたが、きちんとアイロン掛けの出来るADも必要である。
 
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