<主人公=ヒーローはいるのか>主人公不在の「平成」で、どうやってドキュメンタリー映画を撮影すべきか?


原一男[ドキュメンタリー映画監督]

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ドラマであれ、ドキュメンタリーであれ、人間を描く場合、主人公が存在する。では、主人公とは何か? と考えてみる。

人は、みな、自身の欲望を持っている。その欲望に突き動かされて生きている。主人公を設定する時の大前提として、その主人公の出自、自己史が在る。その主人公自身がどういう課題について向き合っていて、何を悩んでて、どう生きたいか? どう願っているのか?

「どう生きたいか?」=欲望、であるわけだ。そして、その欲望が達せられた時、その人は自由になる。欲望を遂げる、ということは、欲望を自己解放できた時だ。つまり、主人公を設定するということは、その主人公の欲望を描くことを意味する。では、その欲望とは、どこから、どう形成されるのか?

人は社会を形成していきている。この社会を形成するということが実に厄介な代物なのだ。

どんな社会でも、力を持つ強者がいて権力を持ち、一方で圧倒的多数の弱者がいて彼等は支配される人たちだ。世界には異なる民族が多数存在して、それぞれの宗教を持ち、そして民族同士が争い、差別―被差別の関係を生み、憎しみが発生し、闘争を繰り返してきた。

さて、ある個人は、そのようなどこかの民族に属し、いずれかの宗教を持ち、支配層に生まれるのか被支配層に生まれか、と、みずからの出自を選べない。本来、社会での居心地をよくするはずのシステムが、人を縛り、抑圧するものとして機能している。

二重三重の、いや、それ以上の管理するシステムに張り巡らされている中で窒息しそうになるギリギリのところで生きている。そして、もっと自由になりたい、と渇望する。自由になりたい、という願望が芽生え、実現しようと葛藤する人を、ドキュメンタリーは主人公に選ぶ。主人公の出自によって葛藤のありようのディティールが変わってくる。

したがって、主人公=ヒーローは、彼と同じ出自を持つ人たちの感情を代表する、という意味をもつことになる。主人公=ヒーローとは、そういう存在である。

疾走プロ4作品は、昭和という時代のヒーローを描いてきたと筆者は考えている。時代は平成になり、さて、ヒーローを探し求めたが、どこにもいない、と気づいて愕然となったことは既に述べた通り。が、筆者は気がついた。

平成になった今、昭和という時代にはヒーローたり得た主人公と同じタイプの主人公を求めても、それは無理だということだ。つまり、平成の時代のヒーローを求めなければいけないのである。と理屈は分かる。が、現実的には…果たして魅力的なヒーローはいるかしら?

と頭をかしげるばかりなのである。

 

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原一男

原一男(はら・かずお) ドキュメンタリー映画監督。1945年生まれ。疾走プロダクション所属。1987年の映画「ゆきゆきて、神軍」は、ベルリン映画祭カリガリ映画賞、シネマ・デュ・レェール・グランプリなど、数々の賞を総なめ (奥崎謙三は、かつて自らが所属した独立工兵隊第36連隊のウェワク残留隊で、隊長による部下射殺事件があったことを知り、殺害された二人の兵士の親族とともに、処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。) 小説家・井上光晴の晩年5年間を追いかけたドキュメンタリー映画「全身小説家」は、1994年のキネマ旬報ベストテン1位・日本映画監督賞、毎日映画コンクール日本映画大賞。