<後継者を育てるのは「作品」>「宮崎駿監督は後継者を育てなかった」という批判は見当違い

映画・舞台・音楽

岩崎未都里[ブロガー]

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映画は、映像・音楽・音響など多岐にわたる総合芸術です。もちろん、アニメーションのその代表的な一つです。よって、筆者は、宮崎駿さんや高畑勲さんの作品を「アニメ」ではなく、総合芸術である映画として鑑賞しています。言うまでもなく、映画監督は芸術家だと定義に異論はないでしょう。
さて、イタリアの美術家ブルーノ・ムナーリが、

「芸術の源泉は『個』にあり、デザインの発端は『社会』にある。」(「芸術家とデザイナー」・みすず書房・2003)

と書いているように、芸術家の作品制作の原動力は「自己の信念を表現すること」にあります。
ジブリ映画とは、パトロンであった徳間書店が、出版社として作家を大切にするという姿勢を貫き、「金は出すが口は出さない」という芸術家とパトロンの大事なスタンスを存在させていたのだろう、と筆者は感じています。
ところが以前、ジブリに関して、筆者が驚く批評・批判を目にしたことがあります。宮崎監督の一昨年夏の引退宣言の後、

「宮崎駿監督は後継者を育てなかった。ジブリは後継者を育てなかった。ジブリを一体どうするつもりなんだ!」

と叩く批評が散見されたのです。
記事だけではありません。昨年の「思い出のマーニー」(2014年)上映期間中、ジブリが制作部門の休止を発表したことに対し、押井守監督までもが、映画記者会見でゲストに呼んだジブリ鈴木プロデューサーへ、

「宮さん(宮崎監督)はジブリのアニメーターをどうするつもりなんだ!」

と、自身の映画よりジブリの体制(後継者を育成しなかったことなど)を鬼気迫る勢いで追及する一幕までありました。
しかし、考えてもみれば、後継者を育てる芸術家が現在までにいたでしょうか? 美術史を俯瞰しても、ピカソやゴッホなど、高名な芸術家が後継者を育てた記録は見当たりません。そう考えれば、芸術家である映画監督が後継者を育てないことを責めるのは見当違いではないでしょうか。
ところが、興味深いことにジブリの身近なところには、芸術家の育成へ挑戦した奇異な天才がいます。あのウォルト・ディズニーです。しかしながら、ウォルト・ディズニー自身は、やはり後継者を育てておらず、1966年の死後には、ディズニースタジオは長期間低迷していました。
これに関しては、宮﨑駿さん自身も以下のように語っています。

「ディズニーは学校を造って、アニメーターの養成をくり返したし、移民局にまで人を送って人材の発掘に努めたのである。人材のためには金を惜しまなかった。それでも、後継者は育たなかった。天才とは、関係のない所で、ポコっと生まれるものなのだ。ディズニーとその良きスタッフのオールドナインだって、カリフォルニアの砂漠にポコっと生まれたではないか」

結局、ディズニーもウォルトの残した『ピノキオ』『ダンボ』『シンデレラ』『ピーター・パン』などの名作を観て育った世代から、ジョン・マスカーやゲイリー・トゥルースデイルいった後継者達がポコッと現れたのです。
そして彼らは1990年代に『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』『ライオン・キング』といった作品を成功させ、ディズニー・ルネッサンスと呼ばれる第二次黄金期を迎えてます。
筆者は『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』『かぐや姫の物語』といった作品を観て育った世代から、ポコッと日本のアニメーション界を担う後継者が現れるだろう、と予想してます。ひらたく言えば、後継者を育てるのは「作品」なのです。
作品に感銘を受け、愛し、影響を受け、学び、つくる。そうして世に認められれば芸術家として登場します。稀に天才と呼ばれる芸術家も現れます。もし、お金を生む後継者を当初から望むなら、その仕事は芸術家のものではないのです。モノツクリの環境をつくり、学ばせ、選択肢を与え、間違いのないよう導く。これはプロデューサーの仕事です。
もちろん、両方完璧に兼ねられる方も存在します。しかし、そういった人が、所謂「稀にみる天才監督・天才芸術家」なのでしょう。
 
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