<ユルい承認を求める「いいね!」時代の批評>誰でもいきなり作りだし参加できる時代にふさわしい「新しい批評」


齋藤祐子[神奈川県内公立劇場勤務]

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批評に必要な芸ってなんだろうとつらつら考えてみた。そう考えるにあたって、気になるエピソードが2つある。

ひとつは、かの淀川長治さんのTV映画の解説である。裏番組ではもっと彼好みの素敵な洋画がかかっている時でも、それを知っているだろうはずの淀川さんはいつだって、今から自分が解説する「この○○映画劇場の今週の映画が世界で一番面白い」と信じているみたいに、その映画の見どころを一生懸命語っていた。

かといって、それを嘘くさいと思う人もなく、淀川さんの映画というものすべてに対する愛情を感じて、だからあれだけ淀川さんの名調子そのものを愛する映画ファンだっていたのだ。

たとえ自分がそれほど好きな作品ではなくても、精一杯その作品のよいところを探し出して語ってみせることは(あるいはもしかしたら淀川さんはあらゆる映画が好きだったのかもしれないが)、映画や映画にかかわるすべての仕事に対する愛情からでていることだと感じて、それはそれで一つの芸だと思えたのだ。

まさしく、彼は万人に映画の素晴らしさを広める伝道師のような存在だった。解説者として、映画好きな人だけではなく、さほど関心もない通りすがりの人(たまたまその時、暇な時間を持て余し、そのチャンネルに合わせた人)までを惹きつける。

もちろん、多くの映画を見て良しあしを瞬時に判別する、プロからしても恐ろしい批評家だったとしても、その時は映画の伝道師の役割をあらん限りの能力を傾けてしていたのだ。

そう考えれば、あの楽しい解説がいかに「凄みのあること」だったかよくわかる。淀川さんがもし別の仕事をしていたとしても、カリスマ営業マンくらいには楽になれるだろう。

さて、もう一つのエピソード。

それは筆者がさる公募展にかかわった際に、選評をお願いしたときの先生の「書き方」のテクニックだ。必ずしも、その先生がいいとは思わない作品でも、それなりにその作品を描写していくことで、読む方は「これが特別賞なんだから」と、その描写自体が「よいもので、そこが評価されるポイント」だと思いこむ。

だが、その評者の文章を注意深く読むと、その文章は作品を淡々と描写しているにとどまり、読む人が読むと、価値判断をしてはいないことがわかるように書いている、という。それどころか、淡々と記載されているなかにまずい点があれば、それも見る人がみればわかってしまうというのだ。素人目にはそこまでは分からないため、評者が褒めていると思う人が多いだろう。

どうやら、これは派閥の多い業界の中で、いたずらに敵を作らず、かといって自分の認める水準にない作品をわざわざ褒めたくないときに使うテクニックのようだった。

これには、感心し、そしてかなり恐ろしくなった。それに気が付かなかった筆者は、そのジャンルの批評眼がない素人であることが先生にはわかっただろうし、文章を読みこむ水準も大したことがない、と判断されたのだろうから。

あたりさわりなく書いているとはいえ、読む人が読めば鋭い批評になっているというテクニックもすごいが、それがこの世界には必須だということだろう。

見るべきもの、書くべきものがなければ、歴史をさかのぼって古典について書いていたという評論の大家ならともかく、立場によっては頼まれれば書かざるを得ない原稿もあろう。

そういう時にわざわざ波風をたてずに、とはいえ、わかる人にはわかるやり方で原稿を書くには相当な修練がいる。よほど注意しないと言葉の端に真意がにじんでしまうからだ。

自分が見切った点を褒め、それが「なんでわかるんだ」といわれるような鋭さをもち、相手から怖い人だが褒められればうれしい、と畏敬される評を書ければ言うことはない。だがそんな鋭い評はなかなかかけるものではない。

また、悲しいかな、それほど惚れ込めるような、あるいは気になる作品にそうしょっちゅう出会えるわけでもなかろう。

それだけに、誤解や逆恨みを買わずにさりげなく(まだまだな)相手を励ましたり、少しでもためになることを(いまいちな)作品を評する中で書くテクニックも必要になるのだろう。よく聞くのは、よい点を上げてみせ、次に足りない点を示し、人間は最後に言われたことを覚えておく生き物なので、最後にもう一度持ち上げ(褒め)て終えるというテクニック。

とはいえ、そういう小賢しい原稿は、読んでいて歯切れが悪いし、何を言いたいのかがぼけてしまい面白くない。現在活躍する人気の評者はみな、自分なりのスタイルを作り上げるまでには、それなりに文章を書き続け、時に痛い目にあってきたということだろうか。

今考えているのは、褒めるだけ褒めて作品のよいところも悪いところもわからせる、そんな文章の芸は成り立つだろうか、ということ。いわゆる褒め殺しではなく、なんだか褒められているうちに、これでは足りない点があるとなぜか気づいて真顔になって精進してくれるような。

なにしろ「褒めて育てる」というのはこれからの時代のキーワードになる。いままではクリエーションの世界は、完全な競争主義、成果主義の世界だった。さんざん競わせて一握りのエリートが総取りし残りの多くがドロップアウトする。それが当たり前とされてきた。

ところが、ウェブの世界には、作品の鑑賞者とクリエイターが同じという世界が広がっている。そしてそこでは批評よりは「褒めて承認すること」で多くの作り手を育て、すそ野が広がる世界なのだ。そんな世界では「いいね」という緩い承認の数だけを多く集めても、それが張り合いになりやがてはお金を稼ぐことにつながる。

もちろん承認を取り続けるには、不断の努力が必要なのはいうまでもないことだが。

昔のようにどこかに入って下積みすることも、誰かの引きもいらない。誰でもいきなり作りだし参加できる。そんな今までにない世界では、それこそ、そこにふさわしい新しい批評の芸も必要になるような気がしている。

 

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齋藤祐子

齋藤祐子(さいとう・ゆうこ) 1984年、筑波大学卒。現在、文化施設に勤務。文化政策や現代美術、落語等の分野に関心が深い。