博士号を辞退した夏目漱石の「かわいい過激」[茂木健一郎]

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茂木健一郎[脳科学者]
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昨日、小森陽一先生(国文学者)と夏目漱石についてお話した。さすがの碩学、いろいろと教えていただくこと、気付きに至ることが多く、たいへん楽しい時間だった。その中で、へえと思ったことがある。
漱石が、当時の文部省から博士号の授与の通知を受けて、それを辞退したことは有名な話だ。それで、小森陽一先生によると、文学研究者が長らく博士号をとらなかったのも、漱石先生でさえ博士号をとらなかったのだから、という謙譲の気持ちからだったのだという。
時代は流れ、文系でも博士号をとるのが当たり前になり、東京大学教授として小森先生は、

「ぼくは、博士号を持たないで、博士号をとる学生の指導をしているのですよ」

と笑っていらしたが、その起源が漱石にあるとは、思い至らなかった。
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漱石は、博士号の辞退や、当時の首相からの宴席を断ったりなど、「国家」の権威に対する距離を貫いた人だった。だからこそ、時代の限定を超えて、今日に至る普遍性を持つと言っても良いが、その一方で、大衆的な人気も保ち続けている。
漱石はいわば、懐に世間の常識とやらを一刀両断にする刃をのんでいるのに、その作品が人気を保つ。そのことを、小森先生は、「誤読」に基づくものだろうと言われた。
『吾輩は猫である』は、里子に出された漱石の心細さ、身寄りのなさを猫に託した作品だし、『坊っちゃん』は松山にたくして当時の日本の後進性、卑劣さを描いたものだが、それが、映画化されると、見事にポップな作品になってしまう。
『我輩は猫である』にしても『坊っちゃん』にしても、その鋭い文明批評、人間批評をおいても、かわいい猫の話、熱血教師・坊っちゃんとマドンナの話というように、簡単に換骨奪胎されてしまう。そのことが、逆に、漱石の可能性なのかもしれない。
漱石自身は博士号を辞退するなど過激な人だったが、その過激さは、「かわいらしい」過激さだった。過激な思想を抱いても、それだけでは表現者として足らず、やはり「かわいい」ことが大切なのだとすると、なんだか漱石はしみじみ面白い。

(本記事は、著者のTwitterを元にした編集・転載記事です)

 
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