<情報番組で起こっている極端なキャスター不足>情報番組のキャスティングは番組の消長を決める命綱
高橋秀樹[放送作家]
2014年5月3日
情報番組にとって、キャスティングは、番組の消長を決める命綱である。アメリカでは時折、巨額の金が動くキャスターの引き抜き劇があるのが、その証左である。 どんな人をキャスティングすべきかは、別稿に譲り、今回は、その形態、つまりキャスティングの仕方に絞って話を進める。
昔、テレビが弱小メディアであったころ、出演者はほかのジャンルに求めるしかなかった。 ジャズ界からデビューしたのが大橋巨泉。落語界から引き抜いてきたのが古今亭志ん朝、立川談志。大阪では桂三枝。浅草の軽演劇からは多数のスターがテレビに移ってきた。萩本欽一。東八郎。映画俳優からは、草笛光子。山城新伍。
これら、往時テレビスターになったものは基本的にプロデューサー(P)やディレクター(D)が足しげく現場に通って見つけてきた。DやPには、資質を見抜く眼力が要求された。テレビという新しいメディアにとって、どうしても必要なアドリブ(ネタの引き出しがいくつあるかによって決まる)はできるか、会話に瞬発力はあるか。なにか聞かれたときにすぐに応答できるか。「わかりません」と答える者では話にならない。
DとPは未分化であったから、どちらも昼間から局の金で演芸場に通った。それが仕事なのである。 テレビが、メディアのセンターを占めるようになると、キャスティングは格段に楽になった。芸能プロダクションが整備され売込みが引きもきらなくなったからである。
一方で、芸能プロダクションがあまりに巨大な力を持ち、局のキャスティングに口を出すようになった。「あのタレントを使うなら、このタレントも出してくれ」「うちのタレットとほかのプロダクションのタレントは一緒にやれない」。
時を経てPとDは分化していくほうに進んでいった。で、なるべくしてなる状態が生まれた。キャスティングの任を負うPは、プロダクションと癒着しはじめた。キックバックのうわさが、飛び交った。
Wプロダクションに占拠され身動きが取れなくなったことがあるのが日本テレビ。英断で、Wプロダクションと縁を切って危機を回避したが、所属タレントが使えなくなった日本テレビは低迷した。Pの存在価値は大物タレントがキャスティングできるかどうかで判断されるようになった。
僕は、フジテレビでこんな電話をしている人の声を聞いたことがある。
「ひろみだよ、ひろみ、何とかなるでしょ2時間くらい。TBS? 断ればいいでしょ。誰が電話してると思ってんの。おれだよおれ。おれがだれかって?カーバー(馬鹿のひっくり返し)こいてんじゃないよ。○○だよ」
これは純粋なキャスティング依頼の電話だったのだろうか。僕は、周りの人に聞かせるためのコケオドシだと思った。
正しいキャスティングはこうあらねばならない、と僕が思っていることがある。あるプロデューサーは明石家さんまの大ファンだった。さんまとどうしても仕事がしたいと思った。 しかし、一面識もない。電話一本でキャスティングできるような人ではない。
そこでプロデユーサーはさんまがやっているラジオ番組をひたすら聴き続けた。そしてある日、これだ、と膝を叩いた。独り身のさんまが、ラジオで今一番欲しいのは「自分を温めてくれる電気コタツ」だと、発言したのである。プロデュサーはすぐさま電気コタツを購入すると、それを携えて、ラジオ番組を終えて、外に出てくるさんまを摑まえこう切り出した。
「コタツ持ってきました。僕の番組に出てもらえませんか」
さんまは承諾した。日本テレビのプロデューサーの話である。
最近、こういう努力をするPやDは皆無になった。最後は不幸な事にはなったが、直近で知っているのは昼の帯をやっているみのもんたを、朝の帯にも起用した、TBSのプロデューサーだけである。そのプロデューサーから、巨額のギャラを提示されてどうしようか迷っていると聞かされた僕は、「それはギャラ提示ではなくて、やりたくないという意思表示なんじゃないの」と答えたものだ。しかし、熱意に負けたみのもんたは、自らギャラの額を下げて仕事を受けた。
番組を作るのは現場である。
だから現場の人間にはドラマであれ、バラエティであれ、情報であれ、報道であれ、この人と仕事をしたいという人物が絶対いるはずである。しかし、現実は編成が見栄えだけを考えてキャスティングした出演者や、ドラマとのバーターで決まった出演者を現場におろして作らせる、という形がどのテレビ局でも定着している。 好きでもない出演者を押し付けられて現場は意気が上がらない。
この成功例が、かつてのフジテレビのトレンディドラマであった。編成が人気タレントを中心に、先に俳優女優を押さえる。何をやるかは後回し。順番が回ってきた人気役者にあて書きした内容の薄いドラマでも、そこのけそこのけと視聴率をとった。他局は人気役者を押さえられて、ドラマが作れないと嘆いた。役者は山のようにいるのだから、そんなことはないのに浅はかな考えである。
で、他局もこのやり方を追随して、編成の力ばかりが強まった。脚本に口を出すのは現場だけでいいのに、ドラマ脚本についてなんの研鑽も積んでいない編成も、プロダクションも余計な口を出して、多くの船頭が作る砂漠を走るようなドラマが出来上がっていった。比例するように現場のキャスティング力は地に落ちていった。
編成局のキャスティングという悪弊は今も続いている。例えば帯番組で、毎日、日代わりの司会者が努めて成功した番組はこれまでない。『いいとも』後に始まった、フジテレビの『バイキング』がこうした形式だが、視聴習慣が視聴率を支える帯番組で、これは最初からハンディである。編成局もキャスティングに関わっているに違いないが、編成のキャスティング力も落ちているということか。
「タモリでは成功しない」と多くの人に言われた『いいとも』で、キャスティングをしたのは現場の人間である。マーケティングのことなど知らない、現場は馬鹿なキャステイングもするが時々大魚も釣り上げる。でも、今の現場はマーケケティングのことも知っているからそうはならないか。
情報番組では、今極端なキャスター不足状態が起こっている。テレビ初期のように、他の世界に目配りをして冒険するしかないだろう。どうせ冒険なのだから、現場は自分の足で探すほうが良いに決まっている。
ところで、キャスターを探している時に関口宏と話す機会があった。僕はこう相談した。 そして怒られた。
「関口さん、関口さんみたいにきちんと大学を出てて、役者では売れなくなったので司会をしたいと思っている人はいませんかねえ」
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