デジタル庁トップ・石倉洋子氏のエリートすぎる人生は危険

社会・メディア

藤本貴之[東洋大学 教授・博士(学術)/メディア学者]

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鳴り物入りで設立された「デジタル庁」。その事務方トップである石倉洋子・デジタル監(72歳)が、自身の公式サイトで有料画像を購入する前の「透かし」が入った状態で不正利用しており、いわゆる「利用規約違反」「著作権違反」が指摘され、問題視されている。

ネット時代の今日、写真や画像を含めたネット上に存在するコンテンツの権利のあり方、扱い方はあらゆる場面で最も慎重にならねばいけない事項だ。インターネット上のコンテンツは、誰でも自由にアクセスでき、ともすれば「ネットはタダ」「ネットコンテンツは共有物」などと勘違いしがちなだけに、使って良い素材、使ってはいけない素材の判別に、多くのメディアが多くのエネルギーを投入している。

言うまでもなく、例えそれが無償で公開されているものであったとしても、必ず制作者=権利者が存在している。無償で閲覧が可能であるものでも、第三者による二次利用や再利用が自由に許可されているわけでも、無償が約束されているわけではない。私たちはあまりにも便利に溢れるネットコンテンツに、「全てのコンテンツには必ず制作者がおり、著作権がある」という当たり前のことを見落としがちだ。

なぜ、そんな簡単な「見落とし」を石倉洋子・デジタル監はしてしまったのか。それを誤解を恐れずに一言で書いてしまえば「エリートすぎる人生が生み出す『無知』」であろう。

石倉氏は上智大学を卒業後、海外の有名大学でMBA、博士号の学位を取得し、青山学院大学、一橋大学、慶應義塾大学など、複数の大学で教授職にあり、その間から現在に至るまで、多くの有名企業の役員や社外取締役を務めるている。いわゆる「職業的インテリ・エリート」の見本のような人生を歩んできた人物である。

もちろんその学識と経験は高く評価されるものであり、高度であろう事務処理能力と幅広いことが予想される知見は、彼女がデジタル分野の専門家でなかったとしても、「デジタル庁」の事務方トップにいても遜色のない人事であると思う。有能な文部科学事務次官が研究・教育の専門家とは限らない、ということと同じだ。

しかしながら、である。デジタル庁が対象とすることの背後には、サブカルチャーやアングラコミュニティやその技術に関わるものも多い。それは一般社会の常識や価値観とは別の常識や価値観が溢れている世界である。もちろん、生まれながらにしてそれらに染まっている世代にとっては自然なことだが、そうではない世代から見れば、「非常識な異世界」でしかない。一方で、世代を問わず誰もがネット社会の恩恵には被っている。そんな時代が「現代」なのだ。

エリートすぎる人生を展開している石倉洋子氏が、おそらく生涯で一度も触れたことがないであろうサブカルチャーがあり、昭和型エリート層から見れば「くだらない消費文化」「詐欺まがい」として一蹴されそうなものが、巨大なビジネスを構築している。これまでの社会構造とは明らかに違うデジタル社会の駆動原理と、そこに流れるお金と新しい使い方がある。

そういったものへの圧倒的な無知にも関わらず、とりあえず人並みにネットの恩恵には被り、それなりに利用している(できている)のが石倉洋子氏のような世代・階層の人たちの現状だ。しかも彼らは、なぜか為政者の側でデジタルコミュニティを統制しかねない立場に立ってしまう。

そう考えれば、石倉氏はそんな両者の埋め難いギャップに気づくこともなく、「無償で公開してるんだから、個人のブログで使うぐらいイイんじゃない? 有名な企業ってわけじゃないしさ」というぐらいの感覚で、素材サイトの有料画像を購入前に無断で利用したのではないかと思えてならない。これを「無知」と呼ばずして、どう呼べば良いのか。

私たちのネット社会の根幹にあるのは、サブカルチャー、ネットカルチャーと一言で言ってしまえるような簡単なものではない。なぜなら、それが今日の巨大なお金の流れを作り、社会システムを構成し、時に政治にまで影響力を与える世論を形成しているからだ。

事実、2021年9月3日現在、画像を規約違反利用した石倉氏のサイトは「メンテナンス」と称して閉鎖し、火消しに奔走しているのだろうが、残念なことに「魚拓」や「アーカイブ」として閉鎖前の状態は閲覧できる状況である。本人は隠したつもりでも、実は全然隠れてはいないのだ。

その意味では、石倉洋子氏のデジタル監人事は今後、あらゆる場面で「じゃない感」がダダ漏れてくる危険性を感じてしまう。

今更ながらだが、石倉洋子氏の前にデジタル監への起用が取り沙汰されていた元・マサチューセッツ工科大学教授・メディアラボ所長の伊藤穰一氏の脱落が悔やまれる。

伊藤穰一氏は、児童への性的虐待と買春で有罪判決を受けた実業家ジェフリー・エプスタインから、匿名で資金提供を受けていたことが問題視され、所属していたマサチューセッツ工科大学の職を辞している。デジタル監への就任も、このことがすぐに問題視されて、当然、起用の話は流れた。

キャリアや学識の面でも伊藤穰一氏は石倉氏にも引けは取らないが、それに加えて、石倉洋子氏には絶対ない圧倒的な能力・見識を保有していた。それは、80年代から今日に至るまでの連綿と続くサブカルチャーやネットカルチャーのあり方や、それらに裏付けられた現代のライフスタイル、ネット社会の価値観や行動様式に対する実践的な理解だ。

世界的なインパクトのあるスキャンダルに関わっていた伊藤穰一氏を起用することができないのは当然であるし、国際的に見ても正しい判断だ。しかしながら本来であれば、伊藤穰一氏のような経験と知見をもった人材こそが、デジタル社会とその現場を統括する人材には相応しいはずだ。惜しむらくは、伊藤氏に代わるような人材が日本には見当たらない、ということだろう。

もちろん、事務方トップとしての石倉氏が決定的に間違えた人選であるとも現段階では断言できないが、それでも「じゃない感」溢れる役不足は否めない。少なくとも、素材画像提供サービス大手である「PIXTA」のような会社も、彼女の目には、星の数ほどある無名のネットベンチャーに映っているのではないか、とさえ思う。Amazonよりも有名書店の方が「立派な会社」と思っているパターンの認識力だ。

今日のデジタル社会はアングラコミュニティを含めたサブカルチャーやオタクカルチャー、既存の経済学やビジネスメソッドが通用しないネット消費と不可分だ。特に、ネット上に溢れるコンテンツの取り扱いは、それが「自由に閲覧できるモノ」であるからこそ、その利用には細心の注意が必要となる。このあたりの詳細は、ぜひ、拙著『パクリの技法』(オーム社)をご一読いただきたい。

石倉洋子氏のエリートすぎる人生は、デジタル庁のトップを務めるには、いささかリスキーだ。絶対に彼女の周りには存在していないであろうネット民や、デジタルネイティブ、Z世代と言われる「今時の人たち」が、どのような視線で、何を、どのように見ているのか、ということは学校では習えないし、論文にも書かれていない。

デジタル庁が、単に「脱アナログ」だけを推し進めるなら、コロナ接触アプリ「COCOA」のようなほとんど利用者のいない不評・不具合アプリをリリースしたり、目的不詳のオリンピック・パラリンピックアプリを高額で発注するなど、納税者の理解が得られない「脱アナログを標榜した税金濫用」という結果が目に見えている。

デジタル庁トップ・石倉洋子氏のエリートすぎる人生の「無知」は危険ではないか。なぜなら、デジタルカルチャー、デジタル社会の80%ぐらいは、石倉氏が会ったこともないような人たちが担っている、想像もつかないようなサブカルチャーやアングラカルチャーで彩られているのだから。

 

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