<2015メディアゴンはこう考える⑦今年は「テレビ元年」になれるか>テレビの凋落は加速する?下げ止まる?それとも…。

社会・メディア

藤本貴之[東洋大学 准教授・博士(学術)]

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新年を迎える度に「今年は○×元年」といった文言が登場する。近年では、この「○×」には、おおむねネット媒体やデジタルコンテンツやデバイスなどが入る。例えば、「電子書籍」「クラウド」「バイラルメディア」「スマホ」などだ。
もちろん、その中にはスマホやインターネットのように、急速に普及したものもあれば、2010年の「電子書籍元年」や2014年の「バイラルメディア元年」のように「あれって一体なんだったの?」とも思える場合もある。言うまでもなく、グーグルで「2015 元年」と検索をすれば、今年も様々な「元年」があることが分かる。
この「○×元年」は、テレビや新聞・出版などの「既存メディア」に対置するように設定される場合が少なくない。特に、「娯楽の王様」であったテレビの凋落を肌で感じるような「元年」が毎年様々に登場しているように思える。もちろん、その方がスキャンダラスで話題になりやすい、ということもあるだろう。現在のテレビへの不満の表れなのかもしれない。
「動画広告元年」と言われた2013年に続き、昨年2014年は「動画元年」だったそうだ。同じパッとしないにしても、「電子書籍元年」や「3Dテレビ元年」ほど知名度も話題性もなかったので、筆者自身、「動画広告元年」も「動画元年」もあまり記憶にない。しかし、ちょっと調べれば、確かにそのような「元年」を騒いでいた形跡はなくもない。もちろん、冷静に考えれば「テレビは動画じゃないの?」と突っ込みたくはなるが、それは「テレビとネット動画」という対置をしているわけだ。
2010年は「3Dテレビ元年」と言われたが、これも「既存のテレビ」に相対して置かれたものである。少なくとも、専用眼鏡をかけて画面を凝視しなければならない3Dテレビは、既存のテレビメディア(複数人で自然に/気軽に「ながら視聴」できる媒体)のコンセプトとは真逆にあるものだ。
いづれにせよ、「○×元年」は既存メディアに対する「対抗馬の候補予定者」のエントリーであることが多い。そのような「元年」が近年、やたら登場している背景と、昨今のテレビを中心とした、これまで支配的だった既存メディアの影響力と価値の低下は無関係ではないだろう。
しかしながら、逆に考えれば、「元年」の乱造は、「メディアの構造に流動性が生まれている」と見ることもできる。あるいは「多様化した」とも言えるだろう。インターネットやパソコン類は言うまでもなく、スマートフォンのような新しく安価で、しかも個人でもコントロールできる環境やツールの普及によって、これまで不動であると思われていた巨大な「既存メディア」の影響力やあり方が大きく揺らいでいるのだから。
そういう意味では、「元年」の乱造も決して悪いことではないのかもしれない。
さて、新年を迎え、色々とニュースに気を配っているものの、今年は思いのほかインパクトのある「元年」がないように思う。「バイラル元年」とか「IP電話元年」のように、「えっ? 何それ!」と思わず聞き返してしまうような「元年」が見当たらない。少なくとも、テレビの凋落を加速させるようなエネルギーを持っている「元年」は今のところ目にしない。
そういう中で、筆者なりに「今年は何の元年になるのかな?」と考えてみたところ、奇妙なことに気がついた。テレビの凋落を象徴する「元年」がない2015年は、もしかしてテレビの凋落が下げ止まった年なのではないか? ということだ。
もちろん、これは楽観的な見方である。逆に言えば、今年がたまたま凋落するテレビに対抗できる「元年」が登場していない「残念な年」なだけかもしれない。あるいは、既に凋落を印象づける「元年」が登場しないぐらい、その影響力を低減させているだけなのかもしれない。
そのいづれであっても、若者のテレビ離れが止まらない、という事実に変わりはない。結果として、このまま行けば、統計的には着実に「テレビは見られなくなる」。それが分かりきっているのであれば、むしろ、テレビはネットが絶対にできないようなことや、ネット特有のインディーズ発想ではないことを敢えてやってはどうだろうか? コンプライアンスに抵触しない方法でも、非ネット的でユニークなこと、面白いこと、魅力的なことは、アイデア次第でいくらでもできるように思う。
つまり、筆者は今年が「テレビ元年」になれば面白いだろうな、と思っている。
 
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