<自分の障害を笑ってほしい障害者>小人プロレスのテレビ放映がなくなった時、小人レスラーたちは「俺たちの仕事を奪うな」と言った。

高橋維新[弁護士]

「最強のふたり」というフランス映画がある。
事故で頸髄を損傷し、首から下が一切動かせなくなった大富豪のフィリップと、その介護要員としてフィリップから個人的に雇用されたドリスの交流を描いた物語である。
この映画を見て、筆者は泣いてしまった。2人の絆に泣いたわけではない。自分の無力さに泣いたのである。
フィリップは、首から下が動かない。ゆえに、寝るとき以外は車いすの生活である。食事も風呂も下の世話もドリスがやる必要がある。完全に、障害者である。
一般的な日本人は、こういう障害者然とした障害者を前にすると、身構えてしまう。彼らの障害をバカにして笑うと、「不謹慎だ」「本人の気持ちを考えろ」という排撃が飛んでくる。彼らと会話をするときも、下手なことが言えなくなる。結果、付き合いもよそよそしいものになってしまう。
健常者同士の付き合いであれば、相手の欠点や失敗を笑うのは普通にあることである。障害者も「障害」という欠点を持っているが、その欠点に 「障害」という名前が付いているというだけの理由で、途端に、それを笑うことが禁止されてしまう。付き合い方の幅が狭くなるのである。
周囲からのそういう扱いに窮屈さを感じていたフィリップは、自分を一人の人間として扱ってくれるドリスと友情を深めていった。ドリスは「ウンコの世話まで俺にさせるなよ」とはっきりと文句を言う。筆者も含め、一般的な感覚を持った日本人ならハッとしてしまう発言である。ドリスはそれを平然と言ってのけるのである。
筆者にはできないことである。笑いの世界に生きることを志向していながら、障害者を「客」として前にすると、「これを言うと不謹慎と言われないか」「これを言 うと相手を傷つけないか」と必要以上に考えてしまい、結局何も言えなくなる。身動きが、とれなくなるのである。
筆者には、ドリスほどの腕がないのである。
自分の無力さを痛感したというのは、こういうことである。
当然ながら、自分の障害を笑われたくない障害者はいる。ただ、障害を笑われてもいい、あるいは笑ってほしい障害者もいる。これは普通の人が持っている、(障害に至らないような)普通の欠点と全く一緒である。
デブを笑われたくないデブもいれば、笑われてもいい、あるいは笑われたいデブもいるだろう。人間は、相手のデブがそのデブを笑われてもいい人間かどうかを見極めながら、推理しながら、人付き合いをしている。笑われてもいいデブだと判断すれば、そのデブを冗談にする。ダメだと判断すれば、触れない。この判断を間違う場合もある。間違ったときは、素直に謝る。
この推理と判断の過程は、人間が他者との関係を律するにあたって常にやっていることである。
問題は、障害者を相手にすると、どんな障害者相手でも 「その障害は笑うな」という見えない圧力がかかることである。人間が普段の人付き合いで当たり前のようにやっている思考が、まったく放棄されてしまうのである。
そういうのを辞めようというのが、ノーマライゼーションという考え方である。障害者でも、普通の人と同じように、障害を笑われたい人は、笑ってあげようという考え方である。
彼らは、障害があるというだけで普通の人よりは大変な生活を送っているのである。もしかしたら、笑われるぐらいしかその障害の活かし方はないかもしれない。だとすれば、それを健常者の都合で笑うなというのは、彼らから食い扶持を、アイデンティティを奪うに等しい。笑われるぐらいしか活かし方のない社会を作ったのは、おそらく健常者の責任だからである。
そこを目指した、「バリバラ」という番組があった。脳性麻痺の人が脳性麻痺を生かしたコントや漫才をやっていた。ただ筆者自身、見ていて「これは大丈夫なのだろうか」という悪寒しか感じなかった。演者の腕の問題もあるのだろうが、心から笑うことができなかった。
この番組は一つの画期ではあったが、まだまだ世の中からは受け容れられていない気がした。
結局、障害を笑ってもらうには、まだまだ障害であるということを隠してやるしかない。「識字障害」ではなく単なるバカとして、ADHDではなく単に落ち着きのない人としてテレビに出るしかないのである。このへんがなんとかなれば、笑いの幅はもっと一気に広がる気がしているのだが。
小人プロレスのレスラーたちは、「善意」の人たちの意見で小人プロレスのテレビ放映がなくなったとき、こう発言した。
「俺たちの仕事を奪うな」
 
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