<テレビはまっとうに評価されていない>テレビよりも歴史の浅いテレビゲームの方が文化的な評価を受けているのはなぜ?


高橋維新[弁護士]

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2015年6月18日放映のテレビ朝日「アメトーーク」のテーマは「読書芸人」であった。

主な内容が、又吉直樹・光浦靖子・若林正恭によるお勧めの本や読書の魅力の紹介になっていたため、「ファニー」よりも「インタレスティング」を重視した構成になっていた。

「ファニー」と「インタレスティング」はどちらもエンターテインメントの要素になり得るので、どちらが優れているということはなく、基本的には視聴者の好みと気分の問題である。そのため、今回のファニーよりもインタレスティングを重視した構成の当否をとやかく言うつもりはないが、芸人を集めたトーク番組である以上、ファニーを重視してほしいと個人的には思っている。

出演する芸人も、芸人を集めてのトーク番組に芸人として出る以上、インタレスティング重視の構成であってもおもしろい(ファニーな)ことを言うのを心掛けてほしい。光浦と若林、そして宮迫は意識しておもしろいことが言えていたが、又吉は読書や本に対する愛情が強すぎるのか、ほとんどおもしろいことが言えていなかった。

というより、又吉は普段からあまりおもしろいこと(=ファニーなこと)を言わないので、テレビの芸人に向いていない。テレビに出るのであれば知識人的なタレントという位置付けが一番座りがいいだろう。ネタは、テレビ以外の媒体でもできる。

翻って考えてみるに、なぜ「読書」や「本」がテーマになり得るのか。当然、一定水準以上の支持(視聴率)を得られるからであろうが、なぜ「読書」や「本」をテーマにするとある程度の支持が集まるのか。

それは「読書」がこの国においてまだまだ賞賛されるべき行為の範疇に属しているからだろう。簡単に言えば、本を読むのは「勉強」であり、「頭のいい奴」や「真面目な奴」のすることであるため、読書をすればするほど「勤勉で成績のいい奴」として褒められるのである。

そのため、人は隙あらば読書をしようとする。読書をして、周囲からの賞賛を受けようとする。賞賛を受けたいから、普段読書の習慣がない人でもそのとっかかりを常に無意識のうちに捜している。だから、そのとっかかりを分かりやすい形で提供すれば、一定の喰い付きがある。

ここで、「読書」の対象になっている「本」と対極にあるのが、漫画やテレビやテレビゲームである。これらは、活字の小説や評論と同じ「表現作品」でありながら、単なる娯楽とみなされてしまう。いくら摂取しても「遊んでいるだけ」と見られて、評価の対象にならない。点数が、増えないのである。

小説にも漫画やテレビゲームのような単純な娯楽作品があるのに、小説を読めば「読書家」として賞賛の対象になる一方で、同じ内容の話を漫画で読んでも一切褒められない。ここには、確実に歪みがある。

そもそも、有名な話であるが、「小説」もこの国に登場した当初は「女子供の読むもの」といってバカにされ、いくら読んでも賞賛の対象にならなかったのである。そしてむしろ、こちらの扱いの方が姿勢としては一貫しているだろう。

小説に書いてあるのは物語でしかないので、それを読んでも間接的な形でしか知識や論理を得ることができない。小説を読めば漢字は覚えられるかもしれないが、その小説に使われているものにバラバラと触れることができるだけなので、漢字ドリルをやるより効率は悪いはずである。『罪と罰』を読めば殺人がいけないことだと気付けるかもしれないが、殺人はいけないことだという生の論理を(物語に隠蔽せずに)ストレートに教えた方が早い場合はあるだろう。小説とは、その程度のものでしかない。

しかしなぜかこの国においては小説は市民権を得て、それを読むことが「勉強」として賞賛されるようになった。その理由については詳しくは考えないが、国語の教科書に小説が載るようになったことと無関係ではないだろう。

他方で、漫画は、テレビやテレビゲームよりは市民権を得つつあるが、まだ小説のレベルに達してはいない。それを読んでも「勉強して偉いね」とは褒められない。

漫画ばかりじゃなく小説を読めという人間は色々な論理を振りかざす。代表的なのは、「小説は情景を自分でイメージできるからいいんだ」というものであるが、それがどのよう形で勉強につながるのかが全く分からない。日本語や漢字の勉強は漫画でもできるはずである。

しかしながら、漫画についてはもう時間の問題だろう。学習漫画というものも既にたくさん出版されている。見ようによっては、漫画は「絵」という形で視覚的に分かりやすくしてある表現手法であり、小説より優れているものである。小説は、絵の描けない奴が仕方なしに書いている二流品という見方もできるのである。ちなみに筆者も絵が描けないので、絵のない小説が漫画に勝っている点は何かというのを必死に考えているが、今のところ特に思いついていない。「文字だけでいいので紙の分量が減る」とか「後からの改変がしやすい」など、作り手にとってのメリットはいくつか思いつくが、読者にとってのメリットは出てこない。

また他方で、テレビとテレビゲームについては漫画よりも時間がかかりそうである。特にテレビは、(あくまでまだ筆者の印象論の段階であるが)テレビゲームより歴史が古いのに、テレビゲームよりも真っ当な評価を受けていない感じがするのが気になるところである。

ここまで論じてきたような「勉強の題材になるかどうか」云々の前に、表現作品として真っ当な評価を受けていない感じがするのである。「映画評論」や「漫画評論」というとどこか恰好がつくが、「テレビ評論」というと、「そんなわざわざ評論するようなレベルのものではない」と鼻で笑われている気がするのである。理由は、考えてはいるがよく分からない。

本当に「わざわざ評論するようなレベルのものではない」可能性もあるのが怖いところであるが、そうではないと筆者は信じている。

こんな状況を改善したいという志もあって、筆者はテレビ評論を書き続けている。

 

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高橋維新(たかはし・いしん)弁護士、コラム二スト。1987年、東京生まれ。2006年、東京大学法学部入学。2010年より「マヒ郎」のペンネームでファミ通町内会へ「ハガキ職人」として投稿を始める。現役ハガキ職人を続けながら、2012年に司法試験合格。2013年、弁護士登録(函館弁護士会)。ファミ通町内会長(第5代)。