<TBS「そこが知りたい」とノンフィクション>1980年代はテレビが新しい番組の成立の仕方を模索していた時代

高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]
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テーマをまず決めて番組作りをはじめる。これは番組作りの王道だ。この方法では企画書も集まる。ネタの吟味も出来る。
たとえば「アマゾン川紀行」や「新宿警察密着」といったテーマ。こういった類の企画は集まりやすいだろう。今も単発企画の募集はこんな方法が多いと思う。だが、リスクもある。
そのリスクとは「想像できるものしか集まってこない」ということだ。たまに想像できないような破天荒な企画が来ることはある、だがそれはそれで別の意味でリスクが高い。
良い番組作りを継続して行うにはどうしたら良いのか? 筆者が初めてノンフィクションの番組をレギュラーとして維持していくことになった80年代、新しい番組の成立の仕方を模索していた。
一方では「囚人護送」のような企画を実現していった。こういう単発形式の番組は重要である。たぶん模範囚で刑務所を移るケースがあり、撮影が許可になったのだろう。1対1で長距離列車に乗り次の刑務所に護送された。顔は隠されていたが、リアリティーがあり面白かった。
だが、このような企画がそう集まるか、集まったとしてこういうネタが毎週見たいのか、あるいは一時間見続けられるのか? そういうリスクはあった。
では今まで見たことの無いような面白さをどう見つけていくのか? 制作プロデューサーはその悩みを常に抱えていた。
「そこが知りたい」(TBS・1982〜1997)という番組が始まって当初の3年ほどは企画を集め、何が撮れるのか、どんな展開が考えられるのかを聞き、ラインナップを決めていったのだろう。
この頃、一歳の子供を背負ってヒマラヤ6000メートル峰に上る家族登山の撮影を行ったりした。それはそれで大変だったが、興味深い取材だった。だが、このあとひとつのネタで一時間の番組を作っていくスタイルは殆んどなくなったと思う。面白いネタが先にあり、それを取材するスタイルの取材方法を徐々に避けていった。
テーマはますます日常生活に近づいていった。あるいは良く知っていると思う場所をもう一度掘り起こす。レギュラーシリーズを作り出そうとした時期と重なっているかもしれない。「各駅停車路線バスの旅」も「通勤線の旅」も「湯煙の旅」もこの時期に始まった。
当時の制作プロデューサーが考えたのは「面白いネタがあって番組をスタートさせる」のではなく、「行ってみたいと思った場所でネタを探せ」ということだ。そのためには企画書を吟味するのではなく、作り手を吟味するということだった。
制作チームの結成を重要なテーマとして考えるようになっていった。企画書では判断しないということだ。
力があれば、テーマさえ決めればネタを見つけてくる。テーマは「新宿」や「環状7号線」、といった場所の場合もあるが、たとえば「朝」、「夜」といった時間で切ろうともした。場所は東京にこだわった。
企画書が重要というわけではない。重要なのはチームだ。だがこれは難しい作業だった。それで、人が楽しめる面白いネタが見つけられるのか。
たぶんこの方法は普段見つけようとしないところで見つけるネタの新鮮さが最も大切になる。それが出来る間は、こんなところにこんなネタがあったのか、ということになる。
新橋駅を取材しているとき、制作プロデューサーが次のように言った。。

「新橋駅には三度ラッシュアワーがある。一度目は築地に買出しに行く人、二度目は通勤客、そして三度目が夕方銀座に出勤する人たちのラッシュアワーだ、というのは感心したよ」

限定されたところだから、他にはない話が見つけられる。その方法論が今までに無い成果を生み続けた。その結果、視聴率が上がっていった。80年代半ば、日本テレビに情報番組が生まれ、続いてフジテレビにも生まれた。
それぞれが新しい方法論を模索していった。
 
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