<ピンポイントアカデミー大賞>「アメトーーク」は貶さなくても面白いときは面白いが、貶した方が反応は大きい

テレビ

高橋維新[弁護士]
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2015年7月31日放映のテレビ朝日「アメトーーク」のテーマは、「ピンポイントアカデミー大賞」である。要は、芸人たちが自分の興味のあるテーマについてプレゼンをするという企画である。
田中直樹(ココリコ)がサメについて、哲夫(笑い飯)が花火について、白鳥久美子(たんぽぽ)がシルバニアファミリーについて、澤部 佑(ハライチ)がフジロックフェスについて、出川哲朗がこれまで自分が経験した危険な動物と絡むロケについてしゃべっていた。
普段どうすれば自分の話がおもしろくなるかをとことん考えている芸人という人たちが、自分の興味のあることについて喋っているので、全てがインタレスティングかつ興味深かった。なので、今回は特に文句はない。
オチの出川哲郎だけいつも通りカミまくっているのをひたすらイジられていたのだが、そろそろ出川のこの扱いに筆者は飽きてきているので、控えた方がいいかもしれない。また、欲を言えば、5人の芸人が選んだテーマはバラバラで統一感に乏しかったので、もう少し全体を通しての一貫したテーマ設定を番組側でしてやった方が深みが出たと思う。
これで終わってしまうとこの記事を書く存在意義がなくなってしまうので、少し「賞賛」と「悪罵」について述べておく。
今回の記事は、アメトーークを褒める内容になっている。アメトーークの記事では何度も述べているが、何かを褒めてもおもしろくないのに対して、何かを貶すとおもしろくなる(https://mediagong.jp/?p=8317)。それは、笑いというものが、本質的に「ズレ」の存在を認知・指摘して嘲る差別の作用だからである。
ただ、何かを褒めることが全くエンターテインメント性を帯びないわけではない。何かを褒めることでファニーのエンターテインメントを作るのが難しいのは確かだが、称揚のエンターテインメントを作ることはできる。
人は、当然ながら自分が褒められると快感を覚える。そして、自分と同視できる第三者が褒められた場合も、自分への賞賛に還元することができるので、快感を覚えることができる。しかも、この第三者が賞賛されることによって得る快感は、自分が褒められることによって得られる快感よりも、逆説的に受容されやすい場合がある。
すなわち、自分に対する賞賛は、皮肉や社交辞令の可能性を考えて素直に受け止められないことが往々にしてあるが、自分に近しい第三者が褒められるという形で一段階間接化がされると、割りとすんなりと賞賛を受け止めることができるのである。
例えば、サッカー日本代表が褒められると、自分と同じ日本人が褒められているということで、自分も褒められているという風に「勘違い」できるということである。
そのため、サッカー日本代表を褒められている様子を見ると、恐らく日本人の多数派は快感を覚える。褒められている様子を収めた映像を見たがる。そのため、彼らを称揚するドキュメンタリー番組は、エンターテインメントとして成立し、一定の数字をとる。
これは、最近多く見られる「外国人に日本人を褒めさせる」番組にも同じことが言える。外国人が日本人を褒めている様子を見れば、かなりの数の日本人は自分も褒められているのだと錯覚を覚えて快感を得ることができるのである。
他方で、日本人の多数派が自分と同じだと考えない集団を扱う場合、褒めてもエンターテインメントとして成立しない。代表例が、時の政権と与党である。
多くの日本人は、彼らと自分とは違う存在だと考えているので、彼らが褒められてもサッカー日本代表が褒められたときのような「錯覚」を覚えることはできないのではないだろうか。そのため、マスメディアは基本的に政権批判に走る。
こういう集団は、貶すだけ貶してサンドバッグ扱いしないと、視聴者に快感を呼び起こすことができない。視聴者に、映像を見てもらえない。時の政権は貶した方が数字がとれるので、小さなミスも針小棒大に取り扱い、いいことをやっても無視する。ここには、確実に一定の構造的な病理がある。
そもそも、一応は国民の多数派が選んだはずの政権を本田や香川の様に「日本人の代表」と見られないところに日本人の歪みが出ている気がするが、まあ今のところはそういう気がするというだけである。
さて、「アメトーーク」という番組も、おそらく多数派の日本人は本田や香川程には自分たちと同視はできないと思われる。「アメトーーク」を自分自身と同視できるのは、番組作りに携わっているスタッフ及び演者と、熱狂的なほんの一部のファンのみであろう。
だから、「アメトーーク」が褒められても多数派の日本人は快感を覚えない。むしろ貶した方が快感を覚えられる。そのために、「アメトーーク」を貶した記事の方がビュー数も稼げるし、反応も大きいと思われる。
それをやり始めると大衆迎合のマスメディアと一緒になるので、そんなことはしたくない。筆者は、おもしろかった時は素直におもしろかったと言いたいし、言うようにしている。
 
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