社会学者・小熊英二の初監督映画「首相官邸の前で」が訴える記録する者たちの心の叫び


原一男[映画監督]

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近頃、と言っても、もうかなり以前からだが…デモの現場に行くと、スチール、ムーヴィを問わず、カメラ片手の参加者のなんと多いことか!

この人たちは撮った映像をどうするのだろうか? といつも思っていた。この作品、そんな現場で撮られた膨大な映像を集め、一つのメッセージの元に構成され命を吹き込まれて1本の映画作品として完成した。

2012年夏、東京の脱原発運動に20万人が集まった。この場に集まったカメラマンたちの個々の出自は知らないし、もとより属している組織など知るよしもない。アマチュアかプロかの違いも知らない。が、この場を記録しておかなければと「使命感」、衝動に突き動かされて来たのだと思う。

ひとりのカメラマンが撮れる範囲は目の前に起きている「こと」。これだけの多くの参加者が集う場の全体を知ろうとすれば当然多くのカメラマンが必要。が十分すぎるだけの数のカメラマンたちが存在しているのである。そして彼等が捉えた映像の質もなかなか見事なのである。

生まれて初めてマイクを手にして大勢のデモ参加者に向かってスピーチすることが、いかに勇気を必要とすることか! その緊張感に震えながら発するメッセージを丸ごと捉えた映像、その人たちの発する言葉が聴く人の魂を深く深く打たずにはおかない。私も感動のあまり幾度も嗚咽した!

福島に子どもと暮らす若い母親の涙ながらの訴え。愛する子どもたちに、故郷が放射能に覆われたのに解決できない己の力不足を詫びる。怒らなきゃいけないんですよ。人前にでるのは苦手なんです。でも言いたかったんです。これまで「豊かさ」を享受してきたことを顧みることが無かった「罪悪感」を切々と述べる年長者。

自らの存在の意義を問わずにはおれない切実な言葉と表情は、「無名性」を承知で、だからこそと言うべきか、純粋であり得たカメラマンたちだからこそ記録したものだと思うのだ。これまでニッポン人は、怒りを声として表に出すことはなかった。だが、ここに来て叫び始めたのだ。そしてそれは燎原の火の如く広がりつつある。

ドキュメンタリーにおける演出とは、人間=カメラの前の人間の感情=欲望を組織することである、という持論を私は展開しているが、この作品の見所は、このように個々のカメラマンたちの問題意識で撮られた映像を集めて整理し構成を立て1本の作品に仕立て上げたという発想に尽きる。

デモという表現の場で吐露された大衆の欲望をすくい取りオルガナイザーとしての役割を果たしたのだ。この作品の監督は、映像のプロではなく歴史家、社会学者であり慶応義塾大学教授の小熊英二。映像のプロではない人が映像の作り方の革新をもたらしたのだ。ここに大きな意味、価値がある作品なのだ。

いや、実は私も同じようなアイデアを抱いたことがあった。2011年の3・11、東日本大震災。この日起きた、ある意味で日本人の生き方、価値観を根底から揺さぶる出来事を、身近になったカメラ機器を持った多くの人たちが記録していた。その大量の映像はYouTubeにアップされ多くの人々が目にした。私もそのひとりだ。

それらの映像の長さは数十秒から数分のものがもっとも多かったと思うが、どの映像を見ても凄まじい津波の破壊力が刻まれていて言葉もなく打ちのめされた。

この膨大な映像を集めて編集し1本の作品として仕上げたらどうだろう?という思いが頭の中をよぎった。撮影したほとんどの人々はそこで暮らしている地元の人たちだろう、ほとんど本能的にこの出来事を記録したであろう。記録者であると同時に目撃者でもある。

その人たちに短くていいからコメントをもらって映像プラス目撃談とすれば東日本大震災の全貌をより立体的に、記憶として刻み込めるだろう。

今から思うと勇気と気力を振り絞ってやっておけば良かったかな、と悔やまれる。いや、こう書いたのは私に先見性があると言いたいわけではない。

同じような発想をするヒトがそこかしこにいたとしても不思議はないであろうと言いたいのだ。つまり今後も同様な方法で作品を作るヒトが現れるだろうという予感がある。プロ、アマを問わず、にだ。

今やカメラの性能はひと昔に比べて格段にアップし、高画質、高性能で、しかも低価格で手に入る時代。そんな技術の進化が表現の仕方に革新的な発展をもたらすことは映画史をひもとけばすぐ分かる。意志と情熱さえあれば誰でも“時代の目撃者”になれる。

あとは個々の映像を集めてそのエッセンスを凝縮し、そして構成していく問題意識と映像に対する知識があれば作品として完成する。

この作品が描いた現実を日本のマスメディアは無視した。大衆の欲望を見抜くセンス、覚悟を失ったマスコミは無用の長物、いや害悪ですらある。マスコミに見切りをつけた人々はネットを駆使して情報を広めた。既成のメディアが腐臭を放つなら棄てて新しいツールを使えばいい。

そして2015年夏。戦争法案を民主主義を踏みにじってまで採決した、民意を聞かない安倍政権とその一党。あくまで採決阻止を訴えて国会周辺を埋め尽くした人々とその叫び。ネットで情報をキャッチしたであろう。そして多くのカメラマンたち。2012年の光景と地続きである。がその規模は確実に拡大している。

この作品、ある意味で民主主義の危機という事態に、民主主義的な精神で捉えられた映像を民主主義的な方法で作り得た、先駆的な「希望のドキュメンタリー」である。

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原一男

原一男(はら・かずお) ドキュメンタリー映画監督。1945年生まれ。疾走プロダクション所属。1987年の映画「ゆきゆきて、神軍」は、ベルリン映画祭カリガリ映画賞、シネマ・デュ・レェール・グランプリなど、数々の賞を総なめ (奥崎謙三は、かつて自らが所属した独立工兵隊第36連隊のウェワク残留隊で、隊長による部下射殺事件があったことを知り、殺害された二人の兵士の親族とともに、処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。) 小説家・井上光晴の晩年5年間を追いかけたドキュメンタリー映画「全身小説家」は、1994年のキネマ旬報ベストテン1位・日本映画監督賞、毎日映画コンクール日本映画大賞。