パリ・同時テロ事件の報を聞いて思う「窮鼠、猫をかむ」


高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]

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パリ・同時テロ事件の報を聞いて、市民、テロ実行犯側双方の犠牲者を悼む気持ちと共に「窮鼠、猫をかむ」(Despair gives courage to a coward.〈or 〉A cornered rat will bite a cat.)ということわざを思い出した。猫側は余りに強大な猫ぶりを発揮しすぎているのではないか。

反論を覚悟でこの小文を書いている。

黒澤明監督の映画「七人の侍」この映画でクロサワはアクション映画の監督として世界的名声を確固たるものにする。しかし黒澤はアクション映画だけを撮ったのではない。思想が込められていた。

舞台は戦国時代の山間の僻村。村人たちは野伏せりの襲撃により収穫を簒奪され、娘をさらわれ、困窮に極みにいた。だが、百姓たちに野伏せりと戦う力も武力も無い。

百姓たちは武力をアウト・ソーシング(外部委託化)することに決める。少ない報酬に応えて村を守ることになったのは勘兵衛(志村喬)、五郎兵衛(稲葉義男)、七郎次(加東大介)、平八(千秋実)、久蔵(宮口精二)、勝四郎(木村功)、菊千代(三船敏郎)の七人の侍であった。

勘兵衛の指示のもと、七人の侍は野伏せり舘と死闘を繰り広げる。野伏せり舘は殲滅されたが、七人の侍たちも壮絶な死を遂げ、生き残ったのは勘兵衛、七郎次、勝四郎の3人だった。

平和が戻った村の初夏。村人の歓喜の中、総出の田植えがで行われる。仲間を失った勘兵衛は七郎次につぶやく。

「今度もまた、また負け戦だったな・・・・・いや、勝ったのはあの百姓たちだ・・・儂たちではない・・・・」

猫どうしを戦わせて窮鼠が勝った。

哲学者ニーチェは言う。

すべての規則、慣例は二種類の道徳の闘争で作られた。その形態は「君主道徳」と「奴隷道徳」である。君主道徳では行為が「良」と「悪」に分けられるのに対し、「奴隷道徳」では行為が「善」と「悪」に分けられる。君主道徳の主な特徴は自己肯定、傲慢、主動であるのに対し、奴隷道徳は自己否定、謙遜、慈悲である。

このうちの自己否定はルサンチマンである。ルサンチマンは他人、特に持てる者に対するねたみ嫉みである。武力を持つ君主(持てる者)はその力で支配をすれば良いが、武力を持たない奴隷はルサンチマンから君主をも縛る規則を作る。

奴隷は革命というスイッチを押す。そして奴隷は「武力によって他人の羊を奪ってはならない」というルールをつくる。それが現在の法律だ。

奴隷は窮鼠であった。

物事を単純化して言う。1930年代後半、日本はABCD包囲網によって、貿易の制限をされた。「ABCD」とは、制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)と、中華民国(China)の頭文字を並べたものである。石油の禁輸措置によって日本は窮鼠になったとみなすことができる。窮鼠は太平洋戦争のスイッチを押した。

半島の南半分にアメリカ軍が駐留したことによって、北半分は窮鼠となった。1950年、金日成は朝鮮戦争のスイッチを押す。

1961年、にアメリカ軍は、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始した。強大な力の前に窮鼠となった北ベトナムは徹底抗戦というスイッチを押し、戦争は泥沼化した。

アメリカ同時多発テロ事件のあと、アメリカ軍は報復としてアフガニスタン紛争、イラク戦争を行った。テロの標的となったアメリカは窮鼠となっていたであろう。アフガニスタン、イラクでの死者は同時多発テロの死者数を上回っている。

窮鼠の立場になった者が、窮鼠の立場にされた者が、戦争やテロのスイッチを押すのである。ならば人は窮鼠をつくらないように、振る舞うことはできないのか。

筆者は戦争もテロも同じように憎む。先制攻撃も、報復もあってはならないと思う。そこには正も邪もない。善も悪もない。人間が愚かだという事実があるだけである。

 

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