[茂木健一郎]<役割を失った?大学の文系学問>現代の「啓蒙」はグーグルやスマートフォンによって行われる


茂木健一郎[脳科学者]

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「大学の文系が危機だ」という話を、しばしば目にする。そのことに関連して、「啓蒙」ということが難しくなった時代について考えたい。

かつて、日本の大学の特に文系の先生方の役割の一つは「学問の輸入」であり、そのことに一定の意味があった。

明治以降の日本の国家の成り立ちは、基本的に欧米に追いつき、追い越せであり、その際、学問を日本語でできるようにするために文系の学者さんたちが果たした役割は大きい。近年でも、80年代のニューアカブームまでは、輸入学問の構造があったように感じる。

ところが、欧米の学問を輸入して啓蒙するという日本の文系学者の基本的な役割が、成立しなくなってきた。一つには、ネットの発達により海外の情報が瞬時に伝わるため、輸入のタイムマシン経営が意味なくなったこと。もう一つには、そもそも欧米の方が進んでいるという差異自体が消えてしまったこと。

たとえば、移民や文化の対立といった問題について、どのようなスタンスをとるか、というスペクトラムと対立の構造は、日本でも、アメリカでも、ヨーロッパでも、ほとんど変わらなくなっている。日本だから遅れているとか、向こうは進んでいるというような差異がなくなってしまった。

グローバルな文脈においても、大学の文系学問が高いスタンダードを示すというような構造がなくなってしまった。たとえば、国際競争力があるのは日本のアニメや漫画であって、大学の文系学問ではない。そのような価値の毀損が、人々の間に広く共有されるようになってしまった。

最近、中高生や現役の大学生と話していると、大学でやる学問が「高度」で「先端的」というエートスがどんどん消えているのが実感としてわかる。大学は、文字通り、就職予備校と化していると思う。そのような変化と、以上のような大学の文系知をめぐる地殻変動は無関係ではない。

一方、理系の知も、もっぱら技術や社会へのインパクトを通して図られるのであって、世界観に関わる根本問題に対する関心は、ごく一部の学生だけが持つという状況になってきた。このような時代には、かつてのロゲルギスト(1950年頃にはじまった物理学者の同人会)のような啓蒙的なスタンスは、とりにくい。

現代における「啓蒙」の形式は、グーグルやスマートフォンによって行われるのであって、そのユビキタスな技術浸透力に対して、大学のとりわけ文系の学問は「啓蒙」的なスタンスのちからを失っている。この困難は、時代の趨勢が変わらない限り、当分続くだろう。

かつては、日本の大学の文系の学問が扱っているのは国家や個人の根幹にかかわる重大問題と認識されていたが、「啓蒙」的スタンスを失ってしまった近年においては、「趣味」の世界となってしまった。文系学問の意義は今後もあると信じるが、以上のような環境変化は正視せざるを得ないだろう。

(本記事は、著者のTwitterを元にした編集・転載記事です)

 

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茂木健一郎

茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)脳科学者。株式会社ソニーコンピュータサイエンス研究所上級研究員。1962年10月20日、東京生まれ。東京大学理学部、法学部卒業後、東京大学大学院理学系研究科物理学専攻課程終了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を出て現在に至る。「クオリア」(感覚の持つ質感)をキーワードとして脳と心の関係を研究するとともに文芸評論、美術評論にも取り組んでいる。