<「一同、起立」さえNG?>「乱れる成人式」は日本古来の儀式を軽視した学校教育の責任

社会・メディア

黒田麻衣子[国語教師]
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儀式の重大さ、儀式における礼節あるふるまいは、平安の昔から日本人がもっとも尊んできた
ものである。平安時代は、儀式をきちんと執り行えること、その知識の深さが出世に大きく影響を及ぼしたほど、儀式は大切にされてきた。
だが、近年は成人式での新成人の無礼な行いが社会問題となってしまっている。ここに筆者は、学校教育の責任を感じている。彼らのような無礼な振る舞いが現われはじめたのは、学校現場での儀式の簡素化が進んできた頃と、一致してはいなかっただろうか?
近年、学校教育における儀式の在り方が変わりつつある。入学式や卒業式だけではなく、各学期の始業式と終業式は、儀式を大切にする日本の伝統的な行事の一つであった。児童生徒は、この営みを通じて、儀式における礼節を学んでいく。
場が静かになり、司会者の「一同、起立! 礼! 着席」の号令とともに、その場にいる全員が立ち上がり、一斉に一礼し、また椅子に座る。その行為により、場の空気は引き締まる。荘厳な雰囲気の中、「開式のことば」で式は始まる。

「ただいまから、平成27年度第3学期始業式をはじめます」

この一言を宣言するためだけに、教頭は恭しく立ち上がり、校長に一礼し、登壇して国旗に一礼し、舞台中央まで歩き、会場に向いて一礼する。宣言の後は、また、この逆の作法どおりに舞台を降りる。自分が生徒だった時分には、このまどろっこしいやり取りが、如何にも時間の無駄遣いな気がして、どうにも面倒くさかった。
しかし、大人の今になって実感する。こうした毎学期ごとの儀式が、私たちに儀式の在り方、振る舞い方を脈々と受け継いできたのだ、と。
最近の入学式や卒業式は、「一同、起立」の号令や、出席者全員による国歌斉唱を、「列席の保護者にもそれを強要するのか」「軍隊的な号令はいかがなものか」との保護者からのクレームによって、形を変えざるを得なくなった。
今、「一同、起立」の号令は「皆さま、ご起立ください」となり、国歌斉唱は学校によっては「教職員と生徒のみ」に限られているところもある。開会のことばは簡素化され、「時間短縮のため」と登壇せずに司会者のマイクで済ますようになった。「授業時間の確保」を名目に、儀式の日にまで授業を組むようになった。
かくして、始業式や終業式は「全校集会」となんら代わり映えのしないものと化してしまった。儀式の日は、「ハレ」の日。日常と非日常の境い目は、本来、学校教育が教えるべき大切な文化・伝統ではなかったか?
新成人の無礼な振る舞いを、学校現場は「自分たちの教育の結果」と真摯に受け止め、学校教育における儀式の在り方を考え直す必要があると思う。
 
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