<SEALDsの運動に新しい歌はあったか?>映画『わたしの自由について~SEALDs 2015~』を観て[茂木健一郎]

映画・舞台・音楽

茂木健一郎[脳科学者]
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1960年代から1970年代にかけての「学生運動」の評価はさまざまだろうが、ひとつはっきりしていることは、その時代の気分を表している名曲がたくさんあったことだと思う。自由や希望といった未来への風が吹いた。
フォークソングは、日本でもアメリカでも、他の国でも、学生運動の象徴的存在だったし、運動自体がすっかり廃れて、輝きを失った今でも、それらの歌は、聞かれているし、映画などで使われることも多い。
なぜそんなことを思い出したかというと、昨年の安保法案の際に盛り上がったSEALDsを中心とする運動に「歌はあったかな」と考えたからだ。コールなどのリズムは、確かに新しい音楽性だったが、そこには、象徴的な歌はなかったような気もする。
映画『わたしの自由について~SEALDs 2015~』を見て、私は「SEALDsは新しい音楽だった」という感想を持った。コールの仕方や、打楽器などのリズムが、それまでの運動とは違う音楽だったのである。
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映画の上映のあとの討論会で、SEALDsのメンバーの方が、youtubeなどで、海外のactivityのやり方、コールのリズムなどを見て参考にした、と言っていた。そういえば、昨年シカゴで見た、パレスチナに関するデモンストレーションと、音楽が似ている気がした。
リズムなどの音楽性においてはSEALDsは確かに革新したが、その一方で、象徴する歌がなかったのは、運動の力の足りなさか、あるいは、そもそも、音楽というものがそういう位置づけになっていない時代なのか、私にはわからない。
一方で思うことは、ジョン・レノンの「Imagine」や「War is over if you want it」や「Give peace a chance」のような、ラブ・アンド・ピースの思想は音楽になりやすいけれども、少数派を迫害するヘイトは、音楽になりにくいということだ。
少数派のやつら、お前ら出ていけ、たたきだぞ、みたいな歌詞が人の心を動かす音楽になるとは、どうも思えない。ラップはどちらかと言えば体制に対する異議申し立てで、体制寄り添いは音楽にならない気がする。
ヘイトなどの少数派迫害思想、国家主義などの全体主義の特徴は、新しい音楽を生み出すというよりは、どちらかと言えば音楽自体を圧殺する方向に行くということではないか。以上の論考は、思想自体の是非に関係なく、音楽との関係性を客観的に観察した結果である。

 (本記事は、著者のTwitterを元にした編集・転載記事です)

 
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