<ノンフィクションの種>美空ひばりが本当に歌いたい曲は「川の流れのように」では、なかった

高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]

 
戦後70周年が近づいている。事件史、芸能史、政治史、戦争秘話・・・またさまざまな企画が考えられているだろう。まさにテレビの王道の企画といえる。大事である。
ただ、テレビの面白さを考えるとこうした王道の企画とはまた違う一ひねりした企画があってもいいだろうと思う。その幅があることがテレビのしたたかさを生む。
「50周年」の企画を考えていたことがある。何か象徴するものはないかを考えていた。考え方は逆だったかもしれない。当時、美空ひばりに関する本を何冊か読んでいた。既に亡くなってしばらく経った頃で、美空ひばりの生き方に興味を持っていた。これを何とか番組に出来ないか。
美空ひばりは戦後の日本を象徴するのではないか、そんな考え方だったかもしれない。美空ひばりを売り出し、美空ひばりと袂をわかってからは西田佐知子の売出しをした福島通人に興味を持った。
だが調べていくと、福島通人だけではなく、その後、美空ひばりに関わっていた人はそれぞれ独自の、美空ひばり体験を持っていることがわかった。それが面白い。
何度か企画書を書き直した。そして報道の特番の中に収納してもらうことが出来た。
そのころ福島通人は既に亡くなっていたから取材することはできない。TBS関係者を訪ね歩いた。勿論OBばかりだった。茨城県の方もいた。長野県の方もいた。それぞれが当時の資料を持っている。懐かしそうに、そしてうれしそうにしゃべる。レコード関係者にも会った。伴奏者にも会った。それぞれがエピソードを持っている。
「悲しい酒」の間奏の長さの話を聞いた。「真っ赤な太陽」の振り付けの話も聞いた。「日和下駄」のすばらしさも聞いた。どれもこれも美空ひばりのすばらしき才能の話だった。美空ひばりと支える人々は幸福な関係を結んでいた。なぜならば、美空ひばりが気に入る曲、作曲家が気に入る曲、レコードディレクターが熱中する曲を作れば売れたのである。
だが、時代を経ると話が微妙に違ってくる。何を歌っても売れているころの美空ひばりと仕事をしている人と、ヒット曲のなくなっている頃に仕事をしている人の違いだ。「ひばりのレコードが売れなくなった」その期間は結構長い。
売れなくなってからの話は、売れているころよりも面白かった。美空ひばりはキャンペーンを一度もしたことがなかった。レコード店の店頭で歌ったようなことはなかった。調べてみると東北放送のラジオ番組に美空ひばりがキャンペーンで出演した録音が残っていた。
「生まれて初めてキャンペーンに出ているのです」といっている。
このあと美空ひばりはまた売れる。ヒントはカラオケだった。美空ひばりの歌は音域が広すぎる。普通の人は難しすぎて歌えない。カラオケに向いていないのだ。レコード会社の営業からはカラオケに向く曲を作ってくれと要望を出された。
その結果、CMとのタイアップ曲「愛燦々」が生まれる。そして「川の流れのように」が出る。両方とも、誰もがカラオケで歌える曲だった。
しかし、美空ひばりが歌いたいのは自分だけにしか歌えない歌だったのではないか。
コロムビア・レコードの現場の人たちも、たとえ難しくて誰も歌えないとしても、ひばり節が作りたかった。売れるか、売れないかではない、ひばりの曲がどうしても作りたい。病気と闘っている頃の話だ。作詞家も作曲家も元に戻した。それで作ったのが「乱れ髪」だ。これも売れた。最期の曲になった。
番組は結局、歌のシーンが長い番組になった。みなが見たいという。途中では切れない。キャンペーンの話も、ひばり節にこだわった話も短く刈り込むしかなかった。美空ひばりが戦後を象徴していたという話も、どこかに消えた。
だが、美空ひばりの歌には吸引力がある。たぶんそれがすべてだったのだろう。
 
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