一人で全部を演じる「落語」は本当に面白いのか?


高橋維新[弁護士/コラムニスト]

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落語は、通常複数の登場人物を一人の噺家がすべて演じる。この演じ分けがうまい人がいるのも確かで、それができる噺家が「名人」と呼ばれるのだろう。

しかし、落語という文化のあり方はさておき、「観客の理解」という点においては、確実に、登場人物一人一人の全てに、違う演者をあてがった方が分かりやすい。

落語家がヘタな場合、一人で全部を演じられてしまうと、「今しゃべっているのは誰なのか」が分からなくなり、観客が迷子になってしまう。素人落語はその典型だ。そして、どんなに演じ分けがうまい人であっても、登場人物が増えてゆくと、いずれ限界を迎えてしまう。名人クラスの落語を見ていても、「あれ、これって誰だっけ?」と思わされる瞬間はある。

なぜ落語は一人の噺家に全てをやらせるという手法に固執しているのだろうか。これは、筆者が長年抱いていた疑問であった。

一つには、登場人物の一人一人全てに違う演者をあてがうと、コストがかかる、という分かりやすい理由があるだろう。

まず、演者の絶対数が増えれば、当然ながら人件費が増える。一人でやっても、複数でやってもかかる時間が同じであれば、一人でやってもらった方が、コストパフォーマンスは高い。

さらに、適切な役者を捜索・選考する手間(オーディション)や、役者に話(ネタ)の内容を教え込む手間がかかるということもあろう。

それだけではない。落語家は一人で全部をやるので、登場人物どうしの会話の間とかも自由自在に調整できるのだが、違う人どうしでこれをきちんとやるとなると、事前に入念な稽古が必要になってくるのである。これはこれで大変な手間だ。

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また、落語の台本は、そのまま芝居スタイルに転用できるようなものではない。どうしても、複数人による芝居用に、台詞を加除する必要がある。そうすると脚本を作り直す手間が生ずる。すると作り直した脚本をまた演者に説明しないといけないし、それをもとにまた稽古をしてもらって最適な間や立ち居振る舞いを探ってもらう必要が発生する。

落語を複数人で演じるとなると、こういう人件費だとか、演者間、あるいは演者と脚本の作り手との間のコミュニケーションのコストが増えるのである。

逆に言うと、落語家とは監督と脚本と主演を全て兼ねた一人クリエイターなのである。このうち一部を外注していくと、それに伴って種々のコストが増えてくるのは当然である。手間も増えるわけだ。

ただここまで長々と述べたのは、あくまで「作り手が大変になる」という話でしかない。手間がかかったり、制作が大変になるからといって、それをやらず、その結果、作品がおもしろくなるのであれば、プロ(作り手)がその手間を厭ってサボってもいいという話にすぐにはならないだろう。制作コストが増えれば、利益を上げるために一人一人の客に払ってもらうお金もその分増えるかもしれないが、それはまた別の問題だ。

結局、落語というのは、作り手の手間を抑えてサボるための仕組みに過ぎないのではないか、と筆者には思えてならないのである。

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伝統芸能だとか、話芸だ、とかいう主張もあろうが、それと観客から見ての「面白さ」とは無関係だ。それとも、落語にはいわゆる「面白さ」「わかりやすさ」は求めてはいないのだろうか。そもそも落語は今で言えばバラエティ番組やお笑いライブであり、大衆芸能である。現在でも、そういう側面は強いだろう。伝統芸能(=すなわち、エンターテインメント性が稀薄でもよい芸能)扱いされても構わないはずはあるまい。

「この考えは間違いだ」という人は、是非「落語家が登場人物全てを一人で演じることでおもしろさの向上につながっている部分がある」という点を具体的に教えて欲しいものだ。作り手にとってのメリットではなくて、客にとってのメリットを。

 

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高橋維新(たかはし・いしん)弁護士、コラム二スト。1987年、東京生まれ。2006年、東京大学法学部入学。2010年より「マヒ郎」のペンネームでファミ通町内会へ「ハガキ職人」として投稿を始める。現役ハガキ職人を続けながら、2012年に司法試験合格。2013年、弁護士登録(函館弁護士会)。ファミ通町内会長(第5代)。