<圓朝、米朝、談志>落語の寿命を100年延ばした5人


齋藤祐子[神奈川県内公立劇場勤務]

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落語の寿命を100年延ばした、というフレーズは落語立川流家元・故立川談志への称賛に満ちた形容詞だが他にも落語をその時代に合わせモデルチェンジをして寿命をのばした立役者たちがいる。名人上手とはまた別の視点で選んでみれば・・。

<1>三遊亭圓朝

明治の口語から現代の話し言葉、書き言葉が地続きであることから、近代文学と現代文学の境界線は明治で引かれることが多い。その明治期に活躍し、今に残る多くの古典落語の名作を作ったのがこの人。

それまでの落語とは異なり、講談にも通じる物語性の強い大ネタの人情噺や怪談噺を生涯に数多く作った。速記本となった流暢でテンポの良い口語は、出版されるやいなや話の面白さもあいまって大ヒットした。

圓朝の名演を聞いている人はもとより、当時の文筆家にまで広く読まれることになり、活き活きとした会話を主体とするその文章は同時代の小説家の文体にも多くの影響を与えた。これが日本文学に「言文一致体」を生み出すきっかけのひとつになったとも言われている。

言文一致体、というからには、それまでは書き言葉と話し言葉が完全に分離していたのだ。市井の人々の使う躍動感ある話し言葉が、これ以降、文学作品にも取り入れられていくことになる。

落語からすれば、今でも口演される大ネタ、『文七元結』、『塩原多助一代記』などの人情噺や怪談噺(『真景累ヶ淵』『怪談乳房榎』、『牡丹灯籠』など)の多くがレパートリーとして語り継がれる共通の財産となった。

まさに明治という時代の変わり目、近代から現代へ向かう激動の時代に、江戸から続く落語の世界に新しい息吹を吹きこみ、同時にその時代の話し言葉・近代的な感性で、江戸の風物や人情を活写していった、ということか。

圓朝は江戸末期、いわゆる幕末に生まれ、明治33年までを生き、その才能―――

実演家、噺のうまい落語家としても別格、それに加えて印象に残る名シーンの続く人情噺や因果応報の因縁に満ちた大作の怪談噺を多く作り――を注ぎこんで20代から50代を駆け抜けた感がある。

そして圓朝の落語は落語会のトリを務める真打の大ネタとして今でも色褪せず多くの落語家に演じられている。

同時代から近過去になりつつあった江戸の風物は、圓朝という鬼才により、明治という時代に一旦モデルチェンジされ寿命を延ばすことになった、ということだろう。

【参考】<桂歌丸の笑点引退に想う>「笑点」こそ日本の落語文化の衰退要因?

<2>桂米朝

桂米朝につく形容詞は上方落語界中興の祖、というものだが、終戦後、落語家の多くが亡くなったり高齢化する中で失われゆく上方落語を採集し、その復刻に奔走したのが米朝といわれている。

放送タレントとしてTVで活躍する一方、上方でジャンルを越境した古典芸能の演者たちの交流会を早くから始めるなどの功績もあった。

また上方落語の代表的な演目を演じる際にも、お茶屋遊びの数々まで調べまくった博覧強記ぶりから自然に生まれる、ゆきとどいた枕や解説臭のない話ぶりで情景を浮かばせ、『地獄八景亡者戯』のような噺では時事ネタを折り込んで常に同時代の芸能であること、ライブであることを意識していた。

CDのシリーズには、解説とともに口演の文字起しもついており(それがなくとも滑舌の良いわかりやすい口演なのだが)、少々難しい言葉も文字で確認することができ、まことに行き届いている。

米朝もまた、その才能(演者としても素晴らしく、研究者としての博識ぶりも素晴らしい)と熱意を何かにせかされるように上方落語復興に注ぎ、多くの弟子を育て、激動の昭和・平成の世に40代から70代の長い円熟期を迎え、多くの実りを上方落語会に残したといえるだろう。

【参考】グローバル化する落語は「著作権を共有する制度」を成立させられるか?

<3>立川談志

この人もまた、戦後から高度成長、バブルを経て平成の失われた20年に至る日本経済の下り坂までを多くのエピソードで彩った人である。

若いころからうまさで知られ、洒落たジョークや生意気さでキャバレーなどで人気を博した。それに飽き足らず、テレビ番組を企画し、雑誌に連載をもち、やがて弟子の昇進問題で落語協会を脱退し立川流を創設することになる。

政界に進出し、沖縄開発庁政務次官になりながらその職を去る。(二日酔いで海洋博視察の会見の臨み、酒と政治とどちらが大事なのかと記者に突っ込まれて「酒に決まっているだろう」といったことが遠因となり政界を離れた)

寄席に出られない中で試行錯誤しながら弟子を育て、弟子から上納金を取る制度で物議をかもし、しかし多くの弟子が独自のやり方で個性を開花させ人気者になるなど、落語界にとどまらず、その破天荒な言動で常に世間に話題を提供し続けた。

実演家としては出来の良しあしに差があったとされるが、名演家として知られ、また一門に限らず後進の落語家に多くの影響を与える著作を多作した。

「落語とは人間の業の肯定である」などという魅力的なフレーズを数多く送りだし、そして何より、常に己の落語に満足せず、より説得力のある解釈や構成をと求道者のように生涯追求し続けた。

天才的なうまさと反骨精神で人気者となった後も、落語を常に問い直し、晩年はイリュージョンという概念を唱え、満足することがなかった。その姿勢に弟子をはじめ多くのファンがついた、といえるだろう。

談志以降、時代に合わせて噺の本質を問い直し、同時代の観客に伝えるために噺を「こしらえなおす」=古典落語の再構築、がある意味で当たり前になった。落語の寿命を100年延ばした、といわれるゆえんでもある。

さて、残り2人を上げる前に字数が尽きた。この先はまたの機会に。

 

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齋藤祐子

齋藤祐子(さいとう・ゆうこ) 1984年、筑波大学卒。現在、文化施設に勤務。文化政策や現代美術、落語等の分野に関心が深い。