<「ひな壇芸人のトーク」は芸ではなく単なる自己暴露>テレビはいつまで「私小説」を書き続けるつもりなのか?


高橋秀樹[放送作家]
2014年2月9日

 

トーク番組が全盛である。

どのチャンネルを見ても同工異曲のしつらえで、昨日も今日も見る同じ顔ぶれの有名人芸能人文化人運動家政治家が口角泡を飛ばしてしゃべっている。しかも、その内容はみな自分の人生をすり減らす赤っ恥の切り売りである。いわば「私小説」の叩き売りである。うんざりである。テレビは一体いつまで「私小説」を書き続けるつもりなのか。

話芸という言葉がある。

落語、浪曲、漫才などは、名人がやれば芸である。ほかにも「座談」というものがある。いわば話し合いである。女子会も座談、同窓会も、居酒屋の愚痴も座談である。この座談もひとたび名手の手にかかれば話芸となる。現在の芸能界で座談の名手といえば明石家さんまである。引退してしまったが島田紳助もそうであった。この二人、名手であることには違いがないが、やり方がまったく違っていた。

さんまは相手の話を引き出してその内容が面白くなくても転がして最後に笑いにする、紳助は話を引き出すところまでは同じだがその話が面白くないと自分お話をして面白くする。聞き上手と話し上手といってもいいかもしれない。どちらのタイプが好きかは好みによるが、僕が好きなのはさんま。紳助は持っているネタ数の多さに驚愕する。

芸能人にとって、自分の冠をいただいた座談番組を持つのは最高に名誉なことだ。そういった意味では『徹子の部屋』という、長寿座談番組がある。では黒柳徹子は座談の名手なのか。その座談スタイルは「最近買い物に行って間違えたものを買ったんですって」というような質問が繰り返される、あらかじめ取材があって座談の内容を組み立てていることがはっきりわかるスタイルだ。様式美としてなら楽しめるか。

『笑っていいとも』のテレホン・ショッキングは、タモリがしゃべらないことで成り立っている座談である。空白になってしまっては自分の評判が落ちてしまうので座談の相手が話を用意してやってくる。面白いのはそういうことに頓着しないゲストが来たときだ。スリル感を味わう座談だとおもっている僕はひねくれ者なのだろう。

これらの座談をひっくるめて「話芸」とするなら、今のひな壇芸人を使うトークは、ただの人生の切り売り、消耗品販売、私小説である。私小説は身の回りや自分自身のことを芸術として描くというのが定義であるが、芸術として描かれているかどうかに関しては文壇で長く私小説否定の動きがあったことを知っている人も多いだろう。芸術などではなく単なる自己暴露ではないかというのである。

翻って「ひな壇トーク」でいえば、「芸ではなく単なる自己暴露」という評価になるが、そのとおりではないのか。私小説では、暴露を書く必要に迫られて、暴露を作る、つまり「脚本家と俳優を兼ねる作者は、たえず文学を演じていなくてはならない」ようになってしまった。事情はひな壇トークでも同じ。

私小説の代表として、田山花袋の『蒲団』(ふとん)を紹介しておく。妻も子もある小説家、花袋は、自宅の二階に住まわせた若い女弟子に恋慕する。しかし女弟子には恋人がいた。花袋は二人の仲が深いのを知って激怒し、女弟子を追い出す。残ったのは女弟子の寝ていた蒲団であった。花袋はその蒲団の匂いを嗅ぎ、顔をうずめ、泣くのであった。

「ひな壇トーク」なら自虐ネタとしてここで爆笑である。いやだいやだ。芸能人もテレビも、私小説だよりで番組を作っていてはすぐ尻が割れる。本業にもどれといいたい。