人気落語アニメ「昭和元禄落語心中」で描かれる師匠と弟子の相克

エンタメ・芸能

齋藤祐子[神奈川県内公立劇場勤務]

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アニメ「昭和元禄落語心中」(TBS)のなかで主人公の3代目助六(与太郎)が歌舞伎座らしき場所で親子会をするシーンが出てくる。

師匠である八雲は、高座で落語を語る最後に心筋梗塞で倒れ病院に担ぎ込まれるのだが、後に残った助六は予定通り「居残り佐平治」を演じる。自分の我が出やすい噺、とされる「居残り佐平治」を助六は我=演者が消えるように噺自体を立体的に浮き上がらせるやり方で演じきる。

歌舞伎座の親子会といえば、談志・談春の親子会があったのが2008年。談志は体調不良でジョークと「やかん」を演じて高座をおり、そのまま帰宅している。談春は後に残りこの大舞台にあわせ大ネタの「芝浜」を演じるが、のちに季節に合わないネタだったとして師匠の不興を買ったともいわれている。

「昭和元禄落語心中(以下「落語心中」)」の展開に感じる違和感の一つが、実はここにある。師匠との軋轢やらライバルとの相克といった少年漫画にありがちのテーマがこの漫画にはでてこないからだ。

とりわけ落語というのは職能集団でもあることから、ある師匠の門戸をたたき弟子として入門すると、師匠は自分の技術のすべてを無料で教える(立川流は家元への上納金制度があったが。現在は廃止されている)。

【参考】<寄席と落語家>噺家に課せられた顧客開拓の責務

この世界で生きてゆくと決めた人間には、一人前になるまでにそれなりの技術が伝承されるのだ。その代わり、前座というのはこの世界共有の雑役人のようなものとなり、師匠方にかわいがられながら行儀やその世界の慣習を学んでいく。

とはいえ、落語界は職能といいつつ個人芸の世界でもあり人気商売でもある。よちよち歩きの前座もやがては力をつけ、若さと同時代性を武器に人気が出て上り調子にもなってくれば、大舞台に声もかかり、それにあわせた背伸びも飛躍も失敗もあろう。

師匠にどこか似たところのある芸だけに、新しい試みはうるさがたからは受けも悪いかも知れないし、師匠を脅かすほどの勢いがあれば、一芸人としての嫉妬もあるかもしれない。何より他人をなにとも思わぬ自負だけが、一人高座に上がる重圧を支えてくれるものだけに、大御所といわれる落語家の弟子ほど師弟関係での葛藤や相克はつきものなのだろう。

そういった師匠との葛藤がでてこないのはなぜか、と考えてみればこの「落語心中」の前編に鍵がある。もともと八雲(菊比古)の兄弟子にあたる2代目助六(初太郎)は、師匠にあたる先代八雲の兄弟子でありライバルだった初代助六に落語の手ほどきをうけた天才肌。その初代助六は才がありながらも、素行が悪く落語界を去ったという前段がある。

2代目助六も師匠との考えの違いから破門されるが、兄弟子を思わせる芸風に複雑な思いを抱えていたことが示唆される。2代目助六は、菊比古(8代目八雲)と恋仲だった芸者と出奔するが落語に復帰する寸前に事故で死んでしまう。

こういった悲劇のもととなるのが師匠と弟子の2代にわたる相克なのだが、3代目の助六は師匠の八代目八雲からひとつのテーマを渡される。それは助六と八雲、双方の落語を継承しろというもので、8代目八雲(菊比古)は落語の変革を担う予定だった2代目助六を失い継承を担う自分だけでは自分の代で落語は終わると考えていた節がある。

だから孤独の中で自分の芸の完成だけを目指し、師匠連の義務とも言える自分の芸の継承者(弟子)を取ることがなかった。そこに刑務所の慰問で落語の魅力に取りつかれたという刑務所帰りの入門希望者(与太郎)があらわれて、ふとした気の迷いから入門を許可する。つまり天真爛漫で愛嬌ばかりと設定される与太郎(3代目助六)自体が、我を持つことのない融和と継承のためのキャラクターなのだ。

ゆえに師を乗り越えて己が芸を作り上げていく、というよくある少年漫画的な展開にはならない。極めて平和的で女性的でもある融和と関係性の修復がこの漫画の隠しテーマともなっており、それこそボーイズラブを描くBL漫画出身の雲田はるこならではの展開なのかもしれない。

【参考】<漫画「昭和元禄落語心中」から今後の落語界を占う>大衆芸能はせいぜい50年しか続かないが、落語は300年も続いている

歌舞伎座での親子会に話を戻そう。談志の体調不要はその後も続き、談志亡きあとの立川流は次の家元を作らず、代表理事の合議制に移行し上納金制度を廃止、最後の談志の直弟子(談吉)を一門全員で真打にすること、寄席に復帰しないことを決めた。

談志の師匠の柳家小さんとの関係の修復は、小さんの死後もなされず、談志の死後もなされないまま、寄席を知らないで育った立川志の輔が師匠談志から「立川流の最高傑作」と呼ばれ全国区の人気者となり古典から新作まで縦横に駆使する円熟期を迎えている。孫弟子たちは、寄席のチームプレーではなく一人で高座を務めきる独演会ができるように最初から目標を明確にして育てられる。

この年明け、品川プリンスで10回連続で開催された「居残り佐平治」のネタだしの立川談春の独演会を聞きに行った。チケット転売サイトでの転売抑止のため、席番のはいったチケットを発券しない、会場でランダムに決まる席番のチケットに交換、入場後は再入場不可などポップスの人気コンサートのような方式には賛否両論だった。

そこで演じられた「居残り佐平治」は以前に筆者が同じく談春で聞いた、あれよあれよと若い衆が調子のよい佐平治にまきこまれて憔悴していく痛快な「居残り佐平治」に比べ、ある種の苦さがあった。そもそも落語に出てくる人物には、突き抜けた悪人がいない。

佐平治という人物もまた、口先三寸で周囲を巻き込み、その調子の良さと腰の軽さ、ところを得た骨惜しみのない気働きで、むしろ布団部屋に下がったあとに人気者になるのであって、単なる詐欺師ではない。だから聞き終わったあとで見事なまでに突き抜けた爽快感があり後味がよいのだが、今回の談春の佐平治にはその突き抜け方が足りず、現実にいるプロの詐欺師のような臭いが一瞬漂った。

そのせいで、後味はわずかに苦く小さな違和感が残る。その苦さが、「落語心中」と異なる結末に向かっている立川流を案じたものなのかどうか。そこまでうがつこともない、というのなら、こんな苦さは別の器に吐きだして、次の佐平治はより一層軽く、そして深みをましたキャラクターであってほしい。何はともあれ、自分の人生におきたあらゆることが芸の肥やしになる因果な商売が芸能に携わる人たちなのだから。

それにしても、恐るべし「昭和元禄落語心中」。

見るたびに、自分の落語観やら見てきた落語会を振り返り新たな発見がある。空前のブームといわれる落語界の、継承者たち=次代を担う2つ目達にも期待したい。

 

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