テレビ番組で「仕切る人」と「存在する人」


高橋秀樹[放送作家]

2013年10月5日

テレビ番組に必要な出演者は2種類しかいない。誤解のないようにドラマは除いておこう。それ以外はどんな番組でも2種類しか必要ない。ひとつは、仕切ることで存在価値のある人だ。もうひとつは、そこに存在することで価値を生む人だ。以上終わり。それ以外は一切いらない。

具体的な例をここであげるより、読者がご覧になっている番組を思い浮かべていただくと良い。「ああ、あの人は仕切る人」「ああ、あの人は存在の人」と容易に区別がつくだろう。思い浮かべてみて、どっちか判断しかねる出演者がいたら、その人は番組には本来必要のない人だ。もしくは私の理論が間違っているのでご一報頂きたい。新種の出現であるから。

テレビ局はその両者に対して、価値の多寡を決めてそれに応じたギャラを払う。できてもいないブランドにテレビ局が惑わされて多額のギャラを払ってもらっている人もいるが、たいていその価値判断は正しく、1時間一本500万円という人もいれば、1万円の人もいる。価値がなくなったら容赦なく切り捨てられる。この業界で番組打ち上げの「またやりましょう」が実現した試しを、僕は知らない。またやるときは打ち上げの時点でもう決まっているからそういう事は言わない。

さて、「仕切る人」「存在の人」のキャラクター分けを僕はしたわけだが、このキャクター分けは、生きるか死ぬか、食えるか食えないか、金持ちか貧乏か、シビアな生き残り合戦をやっているテレビ業界だから必要なだけで、一般の世界に敷衍して「あいつはキャラが立っていない」など、真似して論ずるのは恥ずかしいことだ。一見の寿司屋で「ムラサキ」なんぞ叫んで、職人に嫌な顔をされている状況を想像してしまう。

で、今、若い人は「ツッコミ」と「ボケ」で、仲間をキャラクター分けしているそうだ。笑いの番組の影響だ。「ツッコミ」と「ボケ」の二項対立。この二項対立というのは厄介なもので、二項に当てはまらない人を排除してしまう。
当てはまらない人は立つ瀬がない。僕にとっては、いまテレビの笑いの世界が「ツッコミ」と「ボケ」だけで成り立っていると思われているのも製作者の端くれとして面目ない。「ツッコミ」と「ボケ」は前記「存在の人」の下位概念だが、そこは、今の狭いテレビの世界でも、もっと豊かなものであるべきだ。

昔は「ツッコミ」と「ボケ」以外が明確に存在した。今はトリオで笑いをやる人が少なくなったから分かりづらいかもしれないが、そこには2者以外の役を演ずる人がもう一人いた。今も生き残っているトリオ、ダチョウ倶楽部で説明すると、肥後くんがツッコミ、上島くんがボケ、もうひとり、寺門くんは、「ニヤケ」という。「ニヤケ」を分かりやすく言うと「普通の人」である。ニヤニヤ笑って傍観している普通の人。この普通の人が沢山いるから、実社会は、緩やかな紐帯で結ばれていて、面白いのではないか。

素人同士では「フッたら落とせよ」なんて言って、会話に参加できない人を「イジる」こともするらしい。これもテレビ製作者として画面の中に面目ない状況を作ってしまったと反省する。本来は「フッたら、落ち」ではないのである。言葉としては「フリ、落ち、フォロー」というが、フっても落とせない人がいたらそれを救う(フォローする)のが、フる人の役目。非道いオチを言って相手をへっこませてしまったら、冗談だからねと言って慰める(フォローする)のも、フル人の役目。

テレビの出演者の人間(キャラクター)関係は昔から階級社会だったけれど、その中が、今みたいなギスギスした階級社会になったのは初めてだろう。ところで、何も実社会がこの階級社会を真似して、劣化した民主主義になる必要はないのである。