検閲による中止が「表現の不自由展」目玉企画だった? -植草一秀

植草一秀[経済評論家]

***

「表現の不自由展・その後」には、実は壮大な構想があったのではないか、しかし、その構想が失敗に終わったように思われる。3年に1度開かれる国際芸術際である「あいちトリエンナーレ」は8月1日に開幕した。開催は今回で4回目になる。その企画展「表現の不自由展・その後」が、開催3日目で中止された。

今回の芸術監督は、ジャーナリストの津田大介氏。企画展の中止は大村秀章愛知県知事が発表した。大村氏は、「卑劣で非人道的なFAX、メール、恫喝、脅迫といった電話」などが相次ぎ、「安全に展覧会をすることが危惧されるので、このような判断をした」と述べた。これに対して、「表現の不自由展・その後」実行委員会は抗議声明を発表した。

声明では、

「今回の中止の決定は、私たちに向けて一方的に通告されたものです。疑義があれば誠実に協議して解決を図るという契約書の趣旨にも反する行為です。」「何より、 圧力によって人々の目の前から消された表現を集め、現代日本の表現の不自由状況を考えるという企画を、その主催者自らが、放棄し弾圧することは、歴史的暴挙と言わざるを得ません。 戦後日本最大の検閲事件となることでしょう。」

としている。

私も所属している日本ペンクラブは8月3日に「展示は続けられるべきである」との声明を発表した。声明全文は以下の通り。

「制作者が自由に創作し、受け手もまた自由に鑑賞する。同感であれ、反発であれ、創作と鑑賞のあいだに意思を疎通し合う空間がなければ、芸術の意義は失われ、社会の推進力たる自由の気風も萎縮させてしまう。あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」で展示された「平和の少女像」その他に対し、河村たかし名古屋市長が「(展示の)即刻中止」を求め、菅義偉内閣官房長官らが同展への補助金交付差し止めを示唆するコメントを発している。行政の要人によるこうした発言は政治的圧力そのものであり、憲法21条2項が禁じている「検閲」にもつながるものであることは言うまでもない。また、それ以上に、人類誕生以降、人間を人間たらしめ、社会の拡充に寄与してきた芸術の意義に無理解な言動と言わざるを得ない。いま行政がやるべきは、作品を通じて創作者と鑑賞者が意思を疎通する機会を確保し、公共の場として育てていくことである。国内外ともに多事多難であればいっそう、短絡的な見方をこえて、多様な価値観を表現できる、あらたな公共性を築いていかなければならない。」

正当な主張である。

「表現の不自由展」が権力による検閲によって中止されたことが広く世間に伝わったことが「表現の不自由展」そのものであるとの捉え方もできる。ここまでが企画のなかに含まれているとすれば、企画の構想が壮大であったということになる。問題が三つある。

第一は、日本という国の成熟度。性格に表現すれば未熟度である。

第二は、手続き上の問題。企画展が正規の手続きを踏んで開催され、想定されることがらが契約書等に明記されているなら、その詳細に従うべきである。正規の手続きを踏んで開催されたが、展示内容を見て権力の側が不当にこれを中止させたのであれば、その事実が明らかにされ、適正な措置が取られなければならない。

第三は、「脅迫があったから中止の判断を下した」ことについての真偽の確認と、その是非の判断だ。テロリストからの要求に対して、日本政府はどのような基本姿勢を示してきたのかとの文脈で、今回の対応を評価する必要がある。

「ガソリンを持って抗議する」との「脅迫」があり、企画展を中止したとの説明があるが、日本政府は国際会議の開催に際して同様の脅迫があれば国際会議を中止するのか。海外でテロリストに邦人が拘束され、身代金を要求されたときに、日本政府は「テロリストの要求には屈しない」として、邦人を見殺しにしてきたのではないか。企画展の開催に際して芸術監督として責任を負ってきた津田大介氏は、批判が生じることは想定したはずである。

主催者である愛知県による中止決定に抗議し、開催続行を主張するべきではなかったか。主催者が企画展中止を強行するなら、抗議の意志を芸術監督辞任のかたちで示すべきであったと考える。

この抗議辞任があるなら、今回の企画展は、「表現の不自由展」が権力による検閲によって中止に追い込まれたという図式を広く世間にアピールする結果によって大きな成果を上げるという「壮大な構想」の下に実施されたとの推論が成り立つことになる。

植草一秀の公式ブログ『知られざる真実』はコチラ

 

【あわせて読みたい】