頭脳明晰を微塵も感じさせなかったゴーン会見 -植草一秀

社会・メディア

植草一秀[経済評論家]

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海外逃亡したゴーン被告が逃亡先のレバノン・ベイルートで記者会見を行った。記者会見は失敗だったと判断できる。会見をしなければ、ゴーンという人物は優秀な人物であるとの幻想が世間一般に残存した可能性があるからだ。ゴーン氏が問われている罪は企業の財産を私的に窃取したというものだ。企業の財産を横領し、私腹を肥やしたというものだ。この疑いに対する無実の証明が皆無だった。

日本の刑事司法手続きに多くの問題点があることは知る人はみな知っている。その前近代的な制度によって人権を侵害されてきた者は多数存在する。しかし、記者を集めて説明する機会を得たにもかかわらず、ゴーン被告は自分が無実潔白であることについて効果的な説明ができなかった。

保釈中の不法な海外逃亡自体が犯罪である。ゴーン氏はクーデターだと主張するが、司法取引を利用した立件であるから、検察と日産の連携は存在しても不自然ではない。クーデターであるとのゴーン被告の主張が説得力を持つためには、ゴーン氏が問われている背任の罪についての無実の証明が必要不可欠である。

背任の事実が存在するなら、日産から排除され、罪を問われることに正当性がある。ゴーン氏は自分自身が完全に無実潔白であること、無実潔白であるのに日産によって犯罪者に仕立て上げられたことを証明する必要があるが、この肝心な部分についての説明が会見の前半部分の説明では存在しなかった。長々と同じ話を繰り返しているだけで、優秀な経営者との説が風説に過ぎなかったと多くの者が感じたと思われる。

「コストダウン 叫ぶあんたが コスト高」

これは、1999年の第一生命サラリーマン川柳の第1位作品だ。ゴーンの手法を詠んだ川柳と理解できるが、冷酷にコストを切るだけなら冷血人間なら誰でもできる。人間を大切にしながら企業を立て直してこそ名経営者なのだ。人間や取引先を消耗品として取り扱い、単に企業の利益を出すだけなら、難しい話ではない。

そして、企業経営者として重要なことは自分自身の身辺が身ぎれいかどうかである。最前線で汗水流す労働者と豪華なオフィスで命令だけ下す経営者の年収格差には限界を設けるべきだ。本当の優れた経営者は企業活動が生み出す果実の分配において、末端の労働者に手厚く、自分自身に対する報酬に対して抑制的に行動する。これが優れた経営者の基本姿勢である。

ゴーン流は真逆だ。それでもその報酬が正規に認められた正統性のあるものであるなら、ギリギリ許容範囲になるだろう。ところが、不正な手法を用いて、自己の報酬をかさ上げすることは、企業に対する背任行為になる。刑法はこれを犯罪と認定して刑罰の対象にしている。

刑事司法のあり方として、「適法手続き、罪刑法定主義、法の下の平等、無罪推定原則」などを満たさねばならない。いまから230年以上も前の1789年フランス人権宣言にこのことが明記されている。しかしながら、日本の刑事司法においては、これらの大原則が守られていない。これはこれで重大な問題だが、この問題が存在することは、背任罪の免責理由にならない。

ゴーン氏が無実の主張をするなら、起訴されている特別背任の事案について、無実の証明をする必要がある。その証明ができなければ、日本の刑事司法制度に多くの問題はあるが、ゴーン被告の行動は犯罪行為であるとの見方が揺るがない。罪を犯していない者が日本の司法制度を糾弾して、その苦難から脱出を図ったというなら賛同を得るだろう。無実の人間が犯罪者に仕立て上げられることは最大の誤りだからだ。

しかし、罪を犯していることが事実であれば、日本の刑事司法に対する批判の説得力は格段に低下してしまう。この部分が決定的に重要だ。ゴーン被告にとっての本当の転換点が1月8日の記者会見になった可能性がある。今後の不測事態発生のリスクが格段に上昇したと言える。

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