<ワールドシリーズを制した「ジャイアンツ」に想う>アメリカ・メジャーリーグは「無数の筋書きのないドラマ」が魅力


水戸重之[弁護士/吉本興業(株)監査役/湘南ベルマーレ取締役]

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今年のアメリカ「ワールドシリーズ」を制した「ジャイアンツ」は、現在はサンフランシスコに定着したチームだが、もともとはニューヨーク(以下「NY」)から移転してきたチームである。

1950年代までNYには、「NYヤンキース」「NYジャイアンツ」「ブルックリン・ドジャース」の人気3球団があった。メジャーリーグの西部への市場開拓方針で、「ジャイアンツ」と「ドジャース」は1958年に西海岸に移転し、現在の「サンフランシスコ・ジャイアンツ」と「ロサンジェルス・ドジャース」となった。

この2球団の移転はニューヨーカーにとっては衝撃的であり(阪神タイガースが沖縄に移転したようなものだ。たぶん)、その後も長く感傷に浸らせるのに十分だったようだ。

1983年のブルックリン橋100周年パレードには、NYのコッチ市長が、「ブルックリン・ドジャース」の帽子をかぶって現れ、共和党の大統領候補ドール氏が、演説で思わず「ブルックリン・ドジャース」と口走ってしまったという話もある(宇佐見陽「大リーグと都市の物語」)。

ドジャースをLAから取り戻す奇想天外な小説「ドジャース、ブルックリンに還る」(デイヴィッド・リッツ著)という本まである。1980年代半ば、筆者が住んでいた頃にも、NYの地下鉄で、「ブルックリン・ドジャース」で黒人初の大リーガーとなったジャッキー・ロビンソンが地下鉄で試合に通っていた頃の古い写真を使ったポスターを見た。

彼の「背番号42」は全球団における永久欠番であり、彼の野球人生を描いた「42~世界を変えた男~」(ワーナー・ブラザース配給・2013)という映画もある。街中で、「ブルックリン・ドジャース」のキャップをかぶった爺さんをみかけたときには思わずニヤリとしたものだ。

一方の「ジャイアンツ」もファンに同様の感傷を与えたようだ。W・Pキンセラの野球ファンタジー小説「シューレス・ジョー」の中では、「ライ麦畑でつかまえて」の作者であるJ・Dサリンジャーが登場し、

「子供の頃、ポロ・グラウンズで野球をやるのが私の最大の望みだった。」

「ジャイアンツは西海岸のサンフランシスコへ本拠を移してしまい、おまけに1964年にはポロ・グラウンズそのものが取りこわされてしまった!」

とインタビューに答えている。ポロ・グラウンズとはもちろん「ジャイアンツ」のかつてのホーム球場だ。

「ヤンキース」はあいかわらずの人気球団ではあったが、「くたばれ、ヤンキース」というブロードウェイ・ミュージカルと映画があったように、お金持ちの常勝軍団は憎まれ役でもあった。これに飽き足らないニューヨーカーがもう1球団の登場を望み、1962年に生まれたのが、「NYメッツ」である。

球団創設以来、低予算で記録的な負け方を続け(4年連続100敗以上)、リーグのお荷物球団だったが、1969年には創設からわずか8年間でワールドシリーズを制し「ミラクル・メッツ」と呼ばれた。

筆者がワールドシリーズを初観戦したのは、1986年のこと。二度目のミラクルを狙う「NYメッツ」と「ボストン・レッドソックス」の第2戦。この試合の超満員の観客の一人として、レフトスタンドの最上段、背中をそらせばそのまま下に落ちそうな席にいた。

もちろん泣けなしの金をはたいてダフ屋から買ったチケットだ。

「ロイヤルズ」が前回ワールドシリーズに初優勝した1985年の翌年である。われらが「NYメッツ」を率いるのは、読売巨人軍初の外国人選手となったデイブ・ジョンソン監督。ポストシーズンでは逆転に次ぐ逆転でマンハッタンの街は大興奮、筆者もグリニッジビレッジのスポーツバーで観戦しながら、メッツに得点が入るたびに「店のおごりよ!」と振る舞われるビールを飲みながら、大騒ぎしていた。

「ボストン・レッドソックス」は、「NYヤンキース」と並ぶ東の人気球団。相手にとって不足はない。第1戦に続きNYのシェイ・スタジアムで行われた第2戦、われらがメッツの先発投手は、やせっぽちの若き黒人エース、ドワイト・グッデン(当時21歳)。

グッデンは1984年、19歳4ヶ月の若さでメジャーデビューするやいなやオールスターゲームに史上最年少で選出され、最多奪三振と新人王を獲得。翌1985年には、最多勝(24勝)・最多奪三振(268)・最優秀防御率(1.53)の投手三冠を史上最年少で達成。三振奪取数の多い投手を讃えて「ドクターK」と呼ぶが(Kは”knock out”の頭文字からとったと言われる)、「元祖」ドクターKはグッデンである。

対するボストンは憎っくき(あくまでニューヨーカーから見てですが。)ロジャー・クレメンス(当時24歳)。前年のサイ・ヤング賞(最優秀投手)のグッデンとその年のサイ・ヤング賞のクレメンスという、二人の英雄がマウンドにあがった。

さて、この試合、歴史に残る投手戦になるだろうと思われたが、グッデンは5回までに6失点して敗戦投手となる。クレメンスも5回途中に降板して勝利投手とはなれなかった。筋書どおりとはいかないものである。

その後、この早熟の天才グッデンは、コカインの常用で転落してしまうが、ヤンキースが救いの手を差し伸べる。元メッツの人気打者で同じく薬物におぼれたダリル・ストロベリーとともに、グッデンと契約したのだ。グッデンはそのあと、ノーヒットノーランを達成するなどして一時復活したが、再び薬物におぼれ、中年になった今も薬物との戦いは続いているという。

一方のロジャー・クレメンスは、サイ・ヤング賞7回、最優秀防御率7回、最多勝利4回、オールスターゲーム選出11回、1試合20奪三振 2回といった目もくらむような記録を積み上げ(その多くはこの1986年から始まった)、現役時代から真のレジェンドとなっていく。

明暗分かれたと思われた二人だが、そのクレメンスも、後にドーピング問題や女性スキャンダルで厳しい立場に立たされ、現在は、引退同然となっている。

1986年10月の輝けるあの日、そんな二人の行く末を知る者もなく、超満員の観客の大歓声の中、カクテル光線の中に浮かび上がる選手たちのいた場所は、夢のフィールドであった。

アメリカで野球を観るたびにあの日を思い出す。

 

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水戸重之

水戸重之(みと・しげゆき)弁護士として、映画、音楽、放送、芸能界、スポーツ関連の仕事を25年にわたって続けている。吉本興業(株)監査役、湘南ベルマーレ取締役。早稲田、慶応、筑波の各大学で教壇に立つ。日本人メジャーリーガーの日本側代理人を務める(石井一久、高津臣吾、齋籐隆、福留康介、黒田博樹、川上憲伸、青木宣親、田澤純一他)