<漫才師というのは悲しい職業である>日本放送作家協会理事が又吉直樹『火花』を読んでみた


高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]

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又吉直樹の「火花」(文學界・文藝春秋社)を読んでみた。

「文學界」などという純文学誌を買うのは何年ぶりのことであったろうか。又吉のデビュー中編という表紙の惹句を見たとたん手にとっていた。なんだか、気持ちがざわざわした。又吉が書く純文学に。

買ってはみたもののしばらく手がのびなかった。純文学で面白くなかったら落ち込むからだ。そうこうしているうちに、あの売れない雑誌の代表のような文學界が、増刷になった。又吉の小説が載っているからだ。また、あれよあれよと言うちに中編なのに単行本化された。そろそろ読まねばなるまい。

物語の主人公・徳永は「スピークス」というコンビを組む弱小事務所の漫才師。夏、熱海の花火大会の余興に駆り出されたスピークスは、そこで、漫才コンビ「あほんだら」の神谷と出会う。徳永は、神谷と話すうちに、神谷こそ、自分の師匠であると、瞬間的に感じた。徳永20歳、神谷24歳の出会いである。

なぜ、徳永は神谷を師匠だと感じたのか。

私小説でもない限り、小説の主人公を著者と同一視することは周到に避けなければならない。しかし、語られる思想は著者と同一かもしれないと思う。

神谷は徳永に言う。

「漫才師とはこうあるべきだと語るものは永遠に漫才師にはなれへん。(中略)本当の漫才師というのは、極端な話、野菜を売ってても漫才師やねん」「自分が漫才師や言うこと忘れて生まれてきましてね、阿呆やからいまだに気づかんと野菜売ってまんねん」

全身漫才師以外は漫才師として認めないのが、神谷なのだ。筆者の知っている実在の人物で、当てはまる人は横山やすし以外に居ない。タクシーに乗っていても、セスナ機に乗っていても、競艇のハイドロプレーンに乗っていても、漫才師。

こうした神谷を「師匠だ」と感じた徳永はまた、この思想に縛られて売れることがない。後輩が徳永を乗り越えて、テレビに進出する。キャラクターで売れた後輩である。しかし、神谷はキャラクターを作って漫才を演ることを否定する。漫才師は自分自身でなければならない。厳しすぎる掟だ。

このように、小説上で神谷に発言させている又吉は、どこかしら漫才に対して禁欲的な考えを持っているのだろう。だとすると、今売れている「ピースの又吉」は、いつか漫才をやめるかもしれないとも思う。

小説の終わりで、失踪していた神谷は、肉体に強烈なキャラクターを付随させて戻ってくる。

「笑われるんやない。笑わせるんや」

という陳腐な言葉さえも説得力を持って語ることのできた神谷が、キャラクターを纏って帰ってくる。

そしてまた、漫才をやろうとしている。漫才師というのは悲しい職業である。

 

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