<芸人とは何か>今のテレビに「芸」のある人はいないのか?

エンタメ・芸能

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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「芸人とは何か」これを定義すると、板(舞台)の上に乗ったときになんらかの方法で必ず笑いが取れる人であると筆者は考える。そういう定義に当てはめるとご本人はどう思っているかは知らないが、竹中直人さんも、中居正広さんも芸人である。
では、「芸とは何か」と考えるとこれが少し難しい。辞書的な定義では「修練して身につけた技能」と言うことであろうが、金型加工や大工の技術を芸とは言うまい。落語、漫才、物まね、曲芸、講談、能、狂言、歌舞伎、日舞、ダンス、歌、器楽など、既に一定の方式が出来ているものを上手に出来る技術は芸と呼びやすい。
しかしそれ以外の、たとえば座談(トーク)、素人から笑いを引き出す、などのテレビやラジオメディアが生まれてから出来た技術は芸と呼べないのか。筆者はこれらも芸だと考える。
なぜ、こんなしちめんどくさいことを考えたかというと荒木一郎(昭和19年生)の562頁に渡るロングインタビュー「まわり舞台の上で」(文遊社)を読んだからだ。荒木一郎さんは異能の人である。
筆者(昭和30年生)世代では荒木さんを、映画俳優として,歌手として、芸能プロデューサーとして(桃井かおりさんを育てた)、小説家として、強いあこがれとともに凝視していた者も多いと思う。もちろん筆者もそのひとりである。
「まわり舞台の上で」はべらぼうに面白い。スリの役をやるために、本物のスリに手技をならって、本当にスリが出来るようになった話。アリスの「帰らざる日々」が、前年に発売した荒木さん自作の歌「君に捧げるほろ苦いブルース」と酷似していた話、そして、芸能界から「芸のある芸人が消えていくこと」に危機感を持って小説を書いた話・・・。この小説の名は「後ろ向きのジョーカー」(新潮社)である。
舞台は1980年代の芸能界。帯の惹句を拝借しながら要約すると、

「昭和55年から始まった素人芸を前面に押し出す漫才ブーム。テレビに席巻されたお笑いの55年体制に逆らうように鋭利なジョークを飛ばした天才芸人ジョー小峰。ジョーは今日もライブを満員にしていたが、テレビにはびこる笑いには嫌気がさしていた・・・」

というような小説である。ここでジョーがやり玉に挙げるのは欽ちゃんの一連の番組であり、「オレたちひょうきん族」であり、「笑ってる場合ですよ」である。
【参考】フランス勲章受章の北野武監督の弁に感じた「残念感」
「コント55号」までの萩本欽一は芸人だったが、二郎さんと離れて単独でテレビに出るようになった欽ちゃんはもう芸をやっているのではなくなり、きちんと作り込んだドリフは廃れていき、テレビで芸が見られる番組は「花王名人劇場」だけだ。と、おそらく荒木さんの分身であるジョーは語る。
筆者は、名指しされた番組すべてにかかわっている。
この小説を読んだ後にもう一度「まわり舞台の上で」を読むと荒木さんは次のように答えている。

「この小説は、だんだん、エンターテインメントが消えていくところを描いてる。それなりのプロフェッショナルとかエンターテインメントをテレビが取り上げてやってたわけでしょ。で欽ちゃんから始まって、素人がみんな出てくるようになって、今のテレビなんか完全にその風潮だけど、要するにプロは使いませんだよね。がんばった奴は可哀想、それに対する抗議だからね、あれはね。だからこの小説、萩本欽一に送りつけてんだからね。あんたがやったことはこういうことだよ、っていうさ(笑)」(誤解の無いように断っておくと小説は1997年発売、インタビューは2016年である)

そうか。欽ちゃんに送っていたんだと、改めて驚く。筆者はこの荒木さんの意見に関してこう考える。
欽ちゃんは、磨かれた芸よりも素人が発揮する瞬発力の方が時として爆発的な笑いを生むことを見つけたのである。そして、その滅多に出ない素人の瞬発力を効率的に引き出す芸を身につけた。欽ちゃんは筆者にかつてこう話してくれた。

「玄人は間を使う、間を使っているのが分かるから、その間をツッコミの僕は待っていてあげたい。その分ツッコミが遅くなる。それに比べて素人は間を使わない。だから、いつでもこのタイミングと言うときに突っ込める」

「オレたちひょうきん族」はアドリブだと言われるが、そうでもない。ビートたけしは2時間も前にスタジオに入ってセットを見つめながらでジーっと何かを考えていた。
筆者は荒木さんのヒット曲「空に星があるように」をテーマにした歌謡ドラマをタケちゃんマンで書いている。
今の時代の芸や芸人はどうなっているのだろう。言えることは芸人が芸人であることを止めたがらない人が多いことだ。かつて、芸人の芸能生命は短かった。浅草の芸人だった渥美清は40歳の時に「男はつらいよ」に転じて役者になった。
皆芸人は森繁久弥の道を歩みたがっていた。今で言えば伊東四朗さんの道だ。笑いをやり続けるのは苦しいことだった。ところがいまは、又吉直樹は芸人であることを止めない。岡村隆史も芸人のままである。
芸人の命は短いのか長いのか、芸はあるのか無いのか、それは分からないが芸人の汎用性が高いことだけは保証されているような気がする。
 
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