イタズラをした生徒への制裁を学級会の多数決で決めることは民主主義か?
保科省吾[コラムニスト]
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民主主義とは何か。復刻されて売れ行きがよい山本七平と小室直樹による対談本『日本教の社会学』(初版1981、復刊2016)の中で、それには「作為の契機」必要であるとしている。
「作為の契機」とはなんとも難しそうな概念だが、作為を「人が自分の意志で作り出すことであるの意」とすれば、以下のように理解して良いだろう。
民主主義は「国民が総意の上で作りたいと思うきっかけがなければその国には根付かない」
日本を顧みれば、現在享受していると思っている民主主義は、アメリカ、特にマッカーサーの軍政によってもたらされたもので、日本国民に「作為の契機」はない。マッカーサーのGHQは占領軍であり解放軍ではない。占領下の民主主義というのは語義矛盾である。
だからといって、民主主義が日本に根付かないかというとそうではない。1945年以来72年の間に「作為の契機」が生まれれば良いのである。
「作為の契機」が生まれているとしよう。となると、民主主義とは何かと言うことになる。
民主主義とは多数決であるか? もちろん否だ。クラス全員にひどいいたずらをした男子を、学級会で全員一致だからと言ってパンツひとつで廊下に立たせるのは民主主義ではない。
ポピュリズム(populism:筆者は大衆扇動主義と訳す方が正鵠を射ていると思う)は民主主義と親和性が高い。危うい形態である。衆愚政治に行き着く。
【参考】<代案よりも容赦ない批判を>日本の野党による与党の批判は生ぬるい
民主主義(democracy)忠実に訳せば、民衆政治である。
民主主義の対義語は独裁主義(despotism)やファシズム(fascism)であるか? こちらも否だ。言うまでもなく、ヒトラー独裁を生んだのは民主主義だったからである。
独占資本に牛耳られている国は民主主義か? 否。
イデオロギーに縛られている国は民主主義か? 否。
宗教指導者が牛耳る国は民主主義か? 否。
代表民主主義は理想の民主主義か? 否。
日本はこの 代表民主主義であり、多くの国がこの制度を取っているが、これはある種、寡頭制、賢人政治にも近いと感じられる。結局、筆者は、民主主義は法の支配である、ということに行き着いたが、法は多数決で決まる、堂々巡りだ。
強い者に、法はいらない。力で制圧すれば良いからだ。しかし、大多数の弱い者や奴隷には強い者を律するための法が必要だ。法や規律は、ニーチェによれば、弱さへの「最も賢い復讐」から生まれた。
もう一度問うてみる。民主主義とは何か。
アメリカの政治学者フランシス・フクヤマ(Francis Yoshihiro Fukuyama)は民主主義の基準として次のような提案をしている。
* 相対立する複数立候補者が存在する、自由で、無記名で、定期的な男女普通選挙の実施
* 普通選挙によって構成された議会が立法権の最高権限を持っていることの憲法などの公式文書での明文化
* 議会内における相互批判的な複数政党の存在
* 自由で多様な行政府批判を行う国内大手メディアが存在し、それを不特定多数が閲覧できること
再び我が国を顧みながら「民主主義とは何か」を考えると、日本ではメディアの存在感が希薄であることに行き着く。後はまだまだ考えることが必要だ。
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