テレビ界から消えた「キラキラ光る」才能を持った作り手たち

社会・メディア

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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20世紀から21世紀に変わる頃、テレビのエンターテインメントの現場にはキラキラ光る才能の持ち主がいた。出演者のことではない。ディレクターやプロデューサー、AD、放送作家、美術スタッフ、デザイナー、照明、大道具・小道具、カメラマン。そういった制作側の現場スタッフのことである。
今、テレビの制作現場にそんな「キラキラ光る人」は見当たらない。
「キラキラ光る人」がいなくなったのがいつ頃からだろうか。あくまでも筆者の感覚だが、だいたい2005年あたりからと感じている。つまり、ここ10年以上、「キラキラ光る人」に出会えていないことになる。
筆者は放送作家だから、新人のディレクターを毎年紹介される。そんな新人ディレクターや新入社員たちの中に「これは!」と思う人が入ってこなくなったのが、だいたいその頃である。
エンターテインメントは凡庸では作れない。しかし、その頃からテレビ業界は、頭は良さそうだが凡庸な人、頭も悪そうで凡庸な人ばかりになってしまったような気がする。偶然か必然か、テレビ離れが加速し、テレビという業態の衰弱と時を同じくしての変化であった。
民放の場合、この凡庸な人たちの集団のいわば2軍というべき人が作っているものがBS放送であることが多い。当然、面白いはずもない。
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現場ではない編成局という場所にも昔は「キラキラ光る人」がいた。編成局は番組の企画を決め、ラインナップを決めるテレビ局の心臓部である。大量に集まる企画の中からヒットするであろう企画を選ぶのには相当の眼力を必要とする。
他の編成局員が反対する中、自分はこの企画を支持すると言って孤軍奮闘、予算をきちんとつけてくれる編成マンがいた。しかしながら、現在は合議の多数決で番組が決まっている。
筆者は30年も放送作家をやっているため、若い放送作家も色々とたくさん知っている。その中にはまだ実力がなく、筆者から見れば放送作家と名乗ってはいるが、実際はただの人でしかないような人も仕事をしている。
そんな人に誰が仕事を依頼するのかと不思議になるが、「そんな人」にも仕事はある。何故なのか? 筆者には「そんな人」にも仕事があることが不思議でならなかった。しかし、ある時、気づいた。
「そんな人」に仕事を発注する凡庸なディレクターがいるからであった。凡庸なディレクターと凡庸な放送作家は、2人ともレベルが同じだから話が合うのである。低空飛行同士で安心感もあるのだろう。そんな人たちが面白くもない凡庸な番組を作っている。
これから民放は特に、物作りの会社ではなく、管理会社になっていくだろう。
実際に番組を作るのはテレビ局ではなく、番組制作会社と言うことになるが、この制作会社にキラキラ光る才能がいるか? と問われれてもなかなか見当たらない。制作会社とはテレビ局の「薄れて読めないカーボンコピー」のような存在であるからだ。
ただし、制作会社のディレクターの場合は、番組をハズしてばかりいると、仕事を失い、食っていけなくなるという「マイナスのインセンティブ」がある分、まだまだ有利だろう。少なからず危機感もあるからだ。
以上を踏まえて、これからのテレビの作り手対して筆者が思うことは、

「テレビ番組を作るディレクターを皆、フリーにすれば良いのではないか?」

ということである。
 
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