選挙報道とは実に不可解なこと、恣意的な切り取りや歪曲は多い。エンタメ化された部分だけクローズアップされたり、実態とは異なる面白おかしい対立シナリオを作り上げるなどは多い。
例えば、私の地元である千葉県でも、県知事選挙を控え、様々な情報が錯綜している。その中には、理解不能なことも少なくない。(筆者自身、現在、支援している候補者がいるが、公平な選挙を目指すために本稿ではあえて候補者名をここで挙げることは控える。)今回、問題提起したい点はマスメディアの報じ方である。米国でも政治に関するメディア報道は大きな問題となっているが、巧妙に、そして自然に視聴者や読者に印象付ける文章表現について改めて伝えたい。
筆者は選挙で政党から一切、公認や推薦をもらわない完全なる無所属の政治家だ。これまで、どこの政党にも所属したこともなければ、家族・親族に政治家もいない生粋の無所属である。もちろん、無所属であるとしても、党派を超えて様々な政党や団体との付き合いがあるのは当然であるし、個人的に信頼関係を築いている政治家は多くいる。一方で、旧民主党系の政治家が潮目が変わって突如、無所属になったような政治家とは一緒にされたくないという「無所属のプライド」もある。
今回の千葉県知事選で筆者が支援している候補者とは出馬表明以前から政策協議を行っていた間柄であり、千葉県内で真っ先に候補者と筆者の2連ポスターを貼り出した。協議の際、リーダーというのはあらゆる政党をリスペクトし、あらゆる意見を聞くために「排除の論理」は取らない、という姿勢も了承した。
[参考]<パフォーマンス政治?>「ホワイトアクション」に対する報道とSNSの温度差
まもなくして、その候補者が無所属で出馬表明をした際に、自民党及び公明党一部の国会議員、立憲民主党が支援しているという報道がなされた。その後、ほどなくして自民党は独自候補を擁立したことにより支援報道から消え、現在、筆者が支援している候補者は残った「立憲民主党の県議団」と「日本維新の会」が支援している状況となった。
そもそもこの候補者の支援の中枢を担っているのは明らかに千葉県内の無所属の地方議員・首長軍団である。筆者が所属する千葉県議会の無所属会派は県議会で、その候補者と政策協定を締結している。さらに先日は党派関わらず県内市町村議会議員と締結したことも発表された。確かに立憲民主党とも2連ポスターを貼り出しているが、それと同様に、いやそれ以前から無所属県議である筆者とポスターを貼り、今では相当数の無所属の首長や議員と2連ポスターが貼り出されている。しかし、こうしたことはメディアでは一切報じられないのだ。ただただ、結果論でしかない「立憲が支援」という部分だけがクローズアップされている。
もちろん、マスメディアの報道では「立憲民主党が支援する〇〇氏」と書かれる。「無所属や維新が支援する」とは書かれない。我々無所属議員では役不足なのかもしれないが、それでは明らかに信ぴょう性に欠ける。「立憲」としなければと自民党と共産党との対立軸にならず、メディアとして面白みがないからなのか。
地方政治は二元代表制であり、政党政治ではない。なぜ国政の構造を無理やりこじつけ、与野党構造を作り出そうと躍起になるのであろうか。候補者本人が幾度となく地方政治の在り方を説明しており、「無所属・維新に支援をいただいている」と何度もSNS等で発信している。いくら候補者及び無所属や維新の政治家が連携しているということを発信してもメディアは「立憲が支援」という設定に固執する。
県政であることから、県議会の動きを報じることは非常に重要であるにもかかわらず、報道されるのは国会議員の内容ばかりだ。これは自民党関連の報道にも言える。自民党の国会議員の不祥事を知事選にこじつけて報じることはおかしいのだ。もっと言えば、そもそも現時点で千葉県知事選に出馬表明している8名を公平に扱うべきなのだ。
県議会では我々無所属会派の議員が支援していても、県議会に一人の「市民ネットが支援する」という記事の方が大きかった。「政党」や「団体」でしか報じることができないのだとしたら、県民や市民に二元代表制の仕組みや地方政治への理解が深まるはずがない。さらには、共産党の候補の報道は少ないことも気になる。衆院選を控えているからなのか、国政の関心が高いからなのか、国政の政局を軸にした政党優先の報道をしているのだから、地方政治の政策論争が進むはずがないのはもっともだ。現在は新型コロナウイルス感染症対策に防災対策と千葉県の課題は山積みである。それらに対してどのような政策を持っているかということが何よりも大事である。
一般論でいうと「立憲=左」であり、わたしたちが支援している候補者を、メディアは意図的に左のイメージをつけたいような気がしてならない。明らかに右の要素が強い「維新」の名前は地元紙ではなかなか見つからない。こうしたメディア報道に対し、全面的に支援をする多くの無所属議員たちが説明に追われている。だからこそ、有権者には候補者本人の発信をしっかりと読んでほしいと思うし、気になったことは候補者に質問したら良い。メディア報道に対して候補者自らがSNSですぐに説明・発信できるのが、現代の選挙なのだ。
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本年3月に千葉県知事選挙、来年度には衆議院議員選挙が行われることから、政治家は普段以上にメディアの報じ方やパフォーマンスに敏感になっている。昨今大きな話題となったのが東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗元会長の女性蔑視と見受けられた発言に「抗議」の意味で、野党女性議員が約20人「白いジャケット」を着て議場へ入った「ホワイトアクション」もそうだ。
実は筆者が所属する千葉県議会においても国会議員によるホワイトアクションの報道後に立憲民主系の女性議員たちが同様のアクションを行い、地元紙などに報じられた。新聞では「抗議」という形でプラス要素で報じられたが、SNSでは真逆の反応が大半を占めていた。
他の政党や会派の言動に口出しするつもりもないが、思わぬ事態が起き、筆者は説明せざるを得ない状況となった。筆者は偶然にも立憲民主党系の女性議員がホワイトアクションを起こした日に白く見えるジャケットを着ており、期せずして記者たちから問われたが、筆者はそういう意図ではないと全く違うということを話し、記事には絶対に筆者の名前を書かないよう念を押した。
そもそも、何故このホワイトアクション自体が国民やSNSユーザーの癇に障るのか。筆者からすると「女性議員」が「女性議員」にこだわりすぎていることを象徴した言動だからに思える。「女性差別」と多く報じられ、それに乗じてパフォーマンスをしているように映ったからではないか。本当に白いジャケットで抗議する気があるのであればその日だけ女性たちで合わせて着てくるのではなく、常々着用しているか、例えば今議会はずっと白いジャケットを着用することなどが考えられるが、そうではない。
[参考]<あるある晩餐会>美人過ぎない議員・水野ゆうきが女性政治家の内情を暴露
登山家の野口健氏が蓮舫議員にツイッターで返信した「何でこんなに嬉しそうなのですか???」という質問がこの問題の本質をよく表している。元グラビアアイドルとしての性なのか、「注目を浴びている!」という表情を隠しきれておらず、浮ついたように見えた。
それに白いジャケットを着用した女性議員から男女共同参画についての質疑は議場であまり聞いたことがない。むしろ、筆者が男女共同参画を一番取り上げていると言っても過言ではないだろう。そもそも筆者は服装などで奇をてらうことは政治家がすることではないと考えている。政策的にもただ女性の数を増やすことには反対の立場だ。あくまでも女性の妊娠や出産等、女性特有の身体的な部分に対する環境整備と配慮を行った上で男女が平等に評価されることが本来のあるべき男女共同参画だと議場でも訴えている。
女性議員が「女性が女性が・・・」と言いすぎることは時にマイナスなのではないか。
「女性の活躍」というのは、これまで身体的なことや固定観念等で機会や仕事を失わざるを得なかった状況を転換し、性差のみならず固定観念・先入観を取り外して、「個」の能力を「公平」に評価することにより、能力や資格のある女性がおのずと社会で活躍し、自動的に数も増えてくる。「女性だけ」で何かをすることで自らが性の壁を作っているのだ。
自然体で良い。議場にて、言葉で訴えれば良い。
本質的なことや政策的なことが一切報じられずにそのパフォーマンスだけが報じられると「だから女性は・・・」と言われかねないことがまさに女性議員の筆者は悔しい。本気で抗議したい、と思って確固たる政策と意思を持ってアクションを起こした議員もいるだろうが、メディアの報じ方やネットで起こりうる反応も考慮に入れて、思慮深い言動が政治家には求められている。
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1月19日と26日の2週にわたり、TBSのバラエティ番組「NEWSな2人」に『女性議員』として出演した。出演者の中で唯一の県議会議員であった筆者の密着や恋愛話を取り上げる番組構成になっていたこともあり、多くの方に視聴していただき、リアクションがあった。
政治家としてバラエティ番組に出た後に支援者や地元の方々に聞かれる最も多いご意見の一つが、「政治家が出演している楽屋はどんな感じなの?」というものだ。確かに、政治家が複数出るようなバラエティ系の番組の楽屋・・・政治的に敵対する場合もあるので、普通の人は想像さえできないだろう。
筆者も市議の頃はニュース番組に声がかかることが多かった。もちろん、そういう時は自分の政治家としての専門性を活かした自分の意見を視聴者に分かりやすく説明する・・・といった役回りである。学者や政治家が文化人・公人としてマスコミに登場する典型的なパターンだ。例えば、テレビの報道局出身である筆者の場合は、メディアと政治に関する話題である。その専門性からか、他に並ぶような政治家もいないため、複数の政治家が楽屋に集合するといった状態にはならない。
しかし、県議に当選をしてから状況は変わった。なぜかバラエティ番組に呼ばれることが一気に増えたのだ。昨今、政務活動費の不正問題や視察のどんちゃん騒ぎ騒動などで都議や県議が注目を浴びるようになり、報道番組以外でもキャラクターの濃い地方議員がバラエティ番組に出演するようになったのだろう。
筆者はかつて報道番組を担当していたとはいえ、バラエティ番組に関しては何も知らない。むしろ最近、政治家としてバラエティ番組に出演するようになって初めて「バラエティの番組の裏側」を知るようになった。
例えば、情報番組や報道番組のゲスト解説のように、特定の専門だけを、与えられた時間内で説明したりコメントするというのであれば、特別な話術は必要ない。しかし、バラエティ番組、それもトーク番組となると話は別だ。
そこには特別な面白さや想定外な芸能人とのやり取りが求められ、それに機敏に反応しなければならない。ただ美人なだけの女優やイケメン俳優が、必ずしもバラエティで活躍しているわけではないことと同様に、見た目以上にリアクション能力、話術などが極めて重要になる。
これは芸能人でもそうであろうが、多くの出演者がいても、結局はメインになる人物が出来、逆に全くテレビに映らないような人もでてくる。同じ時間だけスタジオにいるにも関わらず、写っている時間は1割以下、などという場合も珍しくない。
もちろん、すべてのテレビ番組がそうであるわけではない。例えば、報道番組に関して言えば、出演させる政治家が複数いる場合、バランスよく放送しなければならない。報道番組は必ずその規定を守らなければならず、筆者が番組を担当していた時も、自民党、公明党、共産党、民主党(当時)等、それぞれ平等の持ち時間で議論をしてもらうのを鉄則としていた。その出演政治家の話がいかにつまらなくても、意味がなくても、である。
しかし、バラエティはそうではない、ということを最近ひしひしと感じている。バラエティ番組とは「いかに面白いか」ということがひたすら問われているからである。つまらない人は、それがどんなに偉い人であってもどんどん切られる。
では、どんな政治家がつまらないのだろうか。具体的に言えば、どんな政治家が編集でカットされてしまうのだろうか。
この答えは簡単だ。多くの政治家は、何かしらの政党・政治団体に属している。そのために、発言内容には多くの規制がされるそうなのだ。政党所属の議員として言ってはいけないことは当然あり、時に台本チェックもあるという。
ディレクターとの事前打合せでも、「これは言えない」「このテーマについては言うなと言われている」など、多くの箇所で「上」にうかがいを立てないといけない、という出演者もいると聞いた。そうなえると、自ずと刺激のない=おもしろくない発言になってしまう。つまらない番組になることが想定できてしまうディレクターや制作スタッフなど、番組側が頭を悩ませている場面に幾度となく遭遇している。
一方で、こういった番組の時は、筆者に多くの時間を割いてもらえることが多いことに気がついた。非常にありがたいことだが、それにも理由がある。まず、政党所属の議員たちが、多くの制約によって、発言に規制がかかっているのに対し、これまで政党(地域政党含)や組織に一度も属したことのない無所属の筆者は、自分の発言に対して一切規制がなく、いつも通りのありのままを話せるからである。
政治家以外の知人たちと食事をしながら話しているような「本音」もそのまま言える。仮に失言があったとしても、それは筆者個人の問題であり、筆者が批判されれば良いだけの話だ。誰に気を使う必要もなく、好きに発言ができる。時に、「そんなことまで言いますか!」と驚かれることもあるが、それが筆者の日常であり、特別に隠すようなことはない。
それ以外にも政治家バラエティがつまらなくなる理由はある。
政治家というのはなぜだか概してプライドが高く、言えない割に台本やOAを見て「私、これだけ?」と局側に訴える政治家も少なくない。真面目な素晴らしい内容を長々とバラエティ番組で発言をしたとしても番組的に数字がとれない、というのがテレビ局の本音だ。
憲法や外交などという旬な一つのテーマでとことん議論しあう報道番組とは異なり、政治家のご機嫌を損ねないように進める局及び番組ディレクターの手腕には感服する。
というのも、楽屋内でも穏やかな空気が流れているわけではない。これまで複数の番組に出演させていただいているが、楽屋での裏の顔に驚いた政治家は何人もいる。面白くないため、ほとんど画面に映らないにも関わらず、ヘアメイクに延々と注文をつけて異様に時間をかける女性政治家もいる。
そういう人に限って、ほとんど映っていない番組を見て、逆ギレをしてディレクターにクレームを入れたり、なぜかよく映る筆者のような出演者を逆恨みしたりする。
もちろん、バラエティの編集方針は「面白いか、否か」である。出演政治家の主張などあまり考慮されない。放送後に出演者たちが急いで自身のSNSでフォローしたり、火消しに躍起になっている場面をよく見かける。
例えば、筆者がかつて政務活動費の不正利用疑惑にメディアで疑問を呈したことのある某地方議員がいるのだが、その人は先日の「NEWSな2人」での共演者だった。その時も、「政務活動費を追及している水野とそれに反するような政治家がなぜ共演しているのか?」という指摘は少なくなかった。
この議員とはおおさか維新の会の女性市議なのだが、実は彼女は番組内において、当時問題となった政務活動費での高級車レクサスの購入(=不正利用)の経緯について説明をしていた。番組内でもこの問題について謝罪をし、それについて筆者は指摘をしている(政務活動費では車のリースは可能でも、購入すること自体がNG)。
しかし、彼女の弁明・謝罪のやりとりの部分は一切放送されなかった。もちろん、番組内で彼女に対して指摘をしたにも関わらず放送されなかった筆者でさえ、否定的な受け止められ方をする要素が十分にあったわけだ。
かつて番組制作側で働いていた筆者としては一部を切り取られないように言い方には気を付け、節度を厳重に守っているが、今回、2週にわたって地方議員を特集した「NEWSな2人」(TBS系)で天晴だったのは元国会議員の杉村太蔵氏だった。
出演者の発言が変に誤解されないように必ずフォローに入り、さらには面白さも兼ね備えているトークに多くの政治家が救われている。また杉村氏の部分をしっかりと放送に入れる番組側もある意味、テレビ慣れしていない政治家を救っている。しかし、政治家も出演をOKしたからには、共演者や発言含めすべてを織り込み済みで出演をOKしなくてはならないと思う。
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そんな中、8月12日にテレビ朝日系「あるある晩餐会」では、女性地方議員の知られざる私生活や議会での苦労話(?)に焦点を当てた番組が放送された。香ばしい女性議員が乱発されている時節柄を考えるとなかなかに「旬」なテーマだ。
女性議員といえば、ルックスや前職などが話題の中心になることは少なくない。今回の放送でも8名の女性政治家が出演したが、その中でも年齢も若く、いわゆる美人議員と言われる元モデルの伊藤良夏大阪市議(大阪維新)、18歳で結婚した長島有里逗子市議(民進党)、民放キー局の報道出身・水野ゆうき千葉県議(無所属)の3人がフォーカスされた。
3人のなかでも特に強烈なキャラクターで存在感を放ったのが無所属の千葉県議会議員(我孫子市選出)・水野ゆうき議員だろう。
司会の今田耕司や指原莉乃からの果敢なイジりをスムーズに笑いに変えて対応してしまう水野議員の力量はテレビ局出身ならでは。恋愛や仕事のストレスなどのプライベートな話題についても、自虐ネタを織り交ぜ、議員の身分に配慮したギリギリのトークを展開した。
指原から「水野さんがしゃべりすぎで他の議員さん、ムカついてませんか?」と言われてしまうほどだ。良く言えば「喋りなれた絶妙な話術で『ひな壇』を沸かせる政治家」であり、悪く言えば「プライドが異様に高い日本の女性議員の中では珍しい芸人タイプの政治家」とでも言えようか(いずれも褒め言葉です)。
【参考】<女性議員の「おしゃれ」の是非>女性政治家が「女性らしく」振舞うことは許されるか?(http://mediagong.jp/?p=16242)
そんな水野議員であるが、政治家としては3万3000人いる地方政治家の中では異端児として知られている。地方議会のなかでも、特に都道府県議会選挙で当選するためには組織票が重要だ。政党の公認や推薦がなければ勝つことが難しいと言われており、出馬の際には政党や団体・組織などからの支援を取り付けるのが大前提となる。だが、水野議員は政党・組織から一切公認も推薦も受けずに無所属で県議にまで勝ちあがった異例の存在として度々報道されている。
番組では水野議員の一日に密着し、駅頭やポスター貼り、SNSで一日50件を超える相談や要望に返信をするなど、地元我孫子市におけるドブ板活動と腐女子な私生活が紹介された。
買うものによっては批判の対象となるために誤解を受けそうなものは選挙区外のコンビニにまで行くなど、選挙で選ばれた政治家としての気の遣いようは筋金入り。必要があったとしても、山口組の分裂特集が組まれた「実話誌」や競馬新聞などは買いづらいだろう(そういうものは買わないだろうが)。
帰宅後にジャージ姿で一人カップ麺をすする水野議員の悲しすぎる節約生活も紹介された。この様子を見たスタジオの芸能人たちは「絶対に議員になりたくない」などとコメント。
そんな節約生活は、私生活だけでなく政治家としても徹底しているようで、何かと話題になる「政務活動費」も節約分を自主的に約174万円も返還している。政務活動費を使い切る政治家が多いなかで、こちらも異例のことである。
セクハラヤジ問題や働かない若手議員など、地方議会における問題点について無所属ならではの歯に衣着せぬ発言が度々マスコミに取り上げられている水野議員。ハッキリと物申す政治手法は賛否両論を呼ぶ、ある意味お騒がせ議員の一人でもある。しかし、そんな偽りのない姿こそ、有権者にとっては関心を持つことができる政治家としての魅力なのだろう。
得てして女性は女性に厳しい。有権者は「美人過ぎる議員」「タレント議員」には食傷気味の感がある。決して美人とは言いない女性政治家を「美人すぎる議員」と囃し立てる風潮と、それを臆面もなく受け入れる白々しい「普通の女性政治家」に違和感を覚えることも多い。
番組内で自身を「美人ではないことは鏡があるからわかっている」と言い切り、大久保佳代子から「確かに美人すぎない」と言われた水野議員。一見自虐に見えるこの感覚こそが、政治家としては正常であり、重要なのだ。
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筆者の地元である千葉県我孫子市北新田の排水路脇の草むらでベトナム国籍の小学3年レェ・ティ・ニャット・リンさん(当時9歳)=千葉県松戸市六実=の遺体が見つかった殺人死体遺棄事件で、千葉県警捜査本部は4月14日8時12分、リンさん宅の近くに住む澁谷恭正容疑者(46歳)を死体遺棄容疑で逮捕した。
我孫子市内でも多くの保護者からまずはホッとした、という声が聴かれた。北新田という場所は筆者の自宅から車で約10分程度であるが、ほとんど人がいない場所である。筆者は生まれた時から我孫子市にいるが、地元議員の私ですら車で通る以外北新田に行ったことはない。我孫子市民ですら北新田は馴染みがない地域だろう。
逮捕に至ったのは、現場の遺留物のDNAの型が澁谷容疑者のものと一致したことによるという。被害者のリンさんはどれほど怖かっただろう、と思うと胸がつぶれそうになる。
千葉県松戸市教育委員会によると、逮捕された澁谷容疑者は、女の子が通っていた松戸市の六実第二小学校の保護者で作る会の会長を務め見守り活動も熱心であったという。
始業式で挨拶まで行っていたという情報も出てきており、地域住民に衝撃が走っている。しかも、会長名(澁谷恭正容疑者)でリンさんの遺体をベトナムに搬送するための募金活動まで行っていたというのだから驚きを隠せない。
筆者は地元我孫子市の大規模自治会で副会長を務め、極力自身の学校区の行事には顔を出すようにしている。地元が行うイベント等にも防災や防犯という観点から地域住民との連携をとる活動に重点に置き、安心・安全な地域づくりに務めている。事件後は、我孫子市としても地域の市民に通学の見守りを促し、防災行政無線やメール配信等で見守りをお願いしていた。
今回の事件で何が問題であったのか。それは、一番信頼できるはずの「保護者会、地域の人、見守り隊」という安心要素がすべてそろった人物による犯行容疑であった、ということだろう。
子どもたちはみんな澁谷容疑者の顔を知っていたとのことだ。リンさんと顔見知りであった可能性も非常に高い。松戸市教育委員会によると、事件後、リンさんが通っていた小学校では登校時間を限定する集中登校を実施し、通学路の見守り活動を強化し、始業式に防犯ブザーを使う練習も行われたという。
子どもたちを守るすべての活動は地域や保護者の善意の行為。それを全てを覆すようなまさかの結果に、これからの見守りのあり方などを再考する必要があり、活動に影響が及ぶ事件である。
「知らない人にはついていかないように」という注意喚起が機能しなくなる懸念も大いにある。保護者会の会長職に自ら手をあげたとのことだが、PTAや見守りというものはすべてボランティアによる子どもを守るという善意から成り立つべきであり、ほかにいかなる「思惑」があってはならないのだ。
アメリカのようにスクールバスの導入や子供たち自身の安全教育の強化等、保護者間では様々なアイディアが浮かんでいるという。
地域に根付いて活動している筆者から見て、一つ確実に言えることがある。それは、頻繁に地域の人と関わっていれば、ちょっとした変化があれば、必ず「いつもとは違う点」が見えてくるということだ。
実際に澁谷容疑者のおかしな様子(いつもある容疑者の車がないなど)に気付いて、近所の地域の人たちが事件解決に協力している。
犯人は決して許されないが、我々の新たな視点での監視の目を再認識させられた事件であった。改めてリンさんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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年末につれ、新聞の見出しは1年の世相を表すタイトルが躍る。1週間ほど前、一面に「出生数初100万人割れ」「10年連続自然減」などといった少子高齢化を象徴するようなヘッドラインが踊っていたが、これには違和感を覚えた。
2016年に国内で生まれた日本人の赤ちゃんは過去最少の98万1000人(前年比約2万5000人減)で、100万人を初めて割り込む見通しになったと厚生労働省は発表した(人口動態統計の年間推計)。死亡数が出生数を上回る自然減も過去最多の31万5000人で、自然減は10年連続となったことから、政府は子育て支援の充実などに力を入れていくという主旨を改めて述べた。
「子どもを産むこと、育てること」について、筆者は未婚の働く女性として思うところがある。
そもそも、筆者はこれまで「男女は同権ではあるが同質ではない」ということを主張してきた。毎月の生理や出産がある女性が、男性と同様に働くということは体力的にも体の構造的にも非常に厳しいからだ。
しかしながら、一部で偏った「男女平等」が蔓延し、女性も男性と同様に身を粉にして働かざるを得ない職場が現実として存在する。女性特有の身体構造に鞭打って無理に働き続け、婦人科系の病にかかる女性も少なくない。どんなに体調不良であろうと男性と同じように働かないと出世の道が閉ざされる可能性もある。また、産休や育休から職場に復帰する際の処遇や雰囲気に、不安を覚えたりすることもあるだろう。
日本は女性が仕事を優先せざるを得ない社会構造へと変化し、結果として平均初婚年齢は男性31.1歳、女性29.4歳(2015年時点)と晩婚化が進んだ。その裏返しとして未婚女性も増加の一途をたどり、出産適齢期の女性が減少している。
これらの背景には、初めから男女が同じ処遇で働くことが「当たり前」である欧米と異なり、日本は女性が権利を得るために70年間闘ってきた歴史がある。まずは女性が無理やり職場に入り、世界の時代の流れとともに社会通念と理論だけを先行させてきた。
しかしながら、意識や環境などのスピードが、実態や現実に追い付けていない、というのが日本特有の女性の社会進出だ。このような構造自体に、そもそもの不手際があるのではないだろうかと筆者は推測している。
インターネットには情報がふれているが、その情報にはマイナス要素も多い。やはり、幸せな人があえてネットの掲示板やネットコメント、SNSなどにマイナス情報ばかり書き込んでいるとは思えない。読む側だって同様だろう。
結婚、妊娠や出産、育児に関するネット記事やサイトは不安を煽る。信ぴょう性が低くても、過激でショッキングな記事は閲覧数やアクセス数も上がる。それらが仕事と結婚・出産などに関して不安や悩みを抱えている多くの女性たちへ及ぼす影響は決して小さくない。それが単なる「便所の落書き」程度の記事であったとしても、だ。
事前に負の情報だけがインプットされすぎてしまうと、結婚や育児に魅力を見い出せずに、経済的な問題からも女性が仕事に没頭してしまうケースが私の周りでも多々見受けられる。
我々働く女性自らが声をあげるべきは、無理やり「女性を〜%管理職に就かせる」「議会の〜%を女性議員にする」・・・といったようなことではないはずだ。
男女が共に、お互いの権利を尊重しながらお互いの身体構造を慮り、同等の能力の男女を比較する際に性別によって差別をしないという社会を構築することが大切なのだ。
その前提としてハード面では保育所等の環境整備や充実した福利厚生、そして男女共に意識改革を進めていくということが最終的に少子化の歯止めにつながるように思う。
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相変わらず地方議員の政務活動費問題が世の中を騒がせている。富山市議会で、政務活動費の不正による議員辞職のドミノ。領収書を偽造してまで政務活動費を不正受給するなど、市民の代表として活動する議員がやることではない。この手口に関しては度肝を抜いた。
8人も辞職するとは富山市議会は議会としてもはや成り立っていない。異例の補選に発展する見込みだ。地方議員として活動する筆者としては呆れかえっている。
筆者は我孫子市議会議員時代から政務活動費の在り方については何度となく意見を公に発表してきた。全国各議会毎に政務活動費の在り方が異なるとはいえ、政務活動費の金額、使途、案分計算、前払い制等、変更すべき点は多々存在する。
しかしながら、議会という場は「多数の意見」が反映されるため、これらを変えていくことは過半数の賛同が必要不可欠だ。保守王国と言われる千葉県では非常に難しい問題であるのは言うまでもない。
筆者は筆者なりのやり方で、昨年度(2015年)は、千葉県議として約1年間の活動に要した政務活動費を公表し、本当に現状で良いのか、という疑問を投げかける形をとった。そもそも「税金」である「政務活動費」に関しては、仕事上必要経費はなるべく節約しながら計上し、政治家として活動することが本来のあるべき姿であると考えているからだ。
そのため、筆者は昨年度、余った政務活動費274万円余を返還した。このことについて、「地方と国会合わせ3万人以上いる議員の中で、これだけの多額を返金するケースはない」ということで話題になり、これは多くの県民・市民からの賛同を得られることができたと感じることができた。
その文句のほとんどは、「政務活動費を使うことが活動をしている証であり重要である」「受給した政務活動費を全部使えないとは経営能力がない」「(政務活動費が余るとは)活動をしていない証拠だ」などといった呆れるような難癖ばかりであった。
政治活動に限らず、プライベートや家庭、私的な文化活動などでも節約を心がけている筆者にとっては、県民の税金である政務活動費も、たとえ1円でも無駄遣いはしたくない。税金である政務活動費を、なんとかして使い切ろうとするその根性こそ、理解ができない。しかも、それを「自信満々のドヤ顏で説教しよう」とする彼ら・彼女らの政治姿勢には失笑させられる。
驚いたことに、本来であれば不正を追及すべき役割を演じている民進党(千葉県外の女性議員)までもが、筆者が政務活動費を返還したことに対してSNSで批判していたというから驚きだ。お金を使うためには恥も外聞もないのだろうか。
そもそも、私は無所属であり、一人会派である。地方議会の二元代表制という仕組みからもすべての政党と適度な距離を保っている。他の党や会派から政務活動費の使い方に対して言われる筋合いはない。
富山市議会の問題からしても自民党のみならず民進党系議員も不正受給して辞職している。人を批判・攻撃する前に(そもそも筆者は不正どころか残余額を返還しただけであり攻撃される筋合いはない)自分が所属する党内事情の精査や調査をすることが肝要であることに気付いてほしいものだ。
ただし、筆者が無所属が故に政党としての活動等がないので、政党議員よりはお金がかからないという現実もある。だからといって残余額をなんとか自分の懐にしまってしまおう、などという発想は毛頭ありえないし、政治家以前に人として一体どういう教育を受けてきたのかと不思議に思う。
千葉県議になり、市議時代との違いを痛烈に感じたことは、どこに言っても「先生、先生」と呼ばれるようになったことである。おそらく突如として議員となり「先生」と呼ばれることに陶酔した一部の議員が、いつの間にか感覚が麻痺して、自分が権力を持っていると勘違いし始め、様々な悪事も覚えていくのだろう。
しかし、それは錯覚であり、勘違いでしかないことは言うまでもない。今の時代はそれを許さなくなってきていることを彼らは肝に銘じたほうが賢明だろう。
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熊本地震では関連死を含めた死者数は49人、住宅損壊約1万棟、避難者は8万人以上という状況となり、数多くの有名人が熊本地震への支援を活発化させている。
我々地方議会の政治家も、議会として災害見舞金を拠出したり、募金活動を行ったり、SNSで情報を発信するなど、様々な形で支援や発信を行っている。また、著名人や芸能人による支援活動も早い段階から取り組まれてきた。
しかし、このところ、こういった活動が批判の対象となる状況が散見されている。
例えば、被災者のために500万2000円を寄付した紗栄子さんは振込用紙をSNSにアップしたことから批判された。山下智久さんや篠田麻里子さんもバラエティ番組で得た賞金100万円を被災地に送るなど、若い世代の芸能人もあらゆる形で支援を行っている。
著名人や政治家がその立場を利用して、積極的な募金活動や支援活動をすることになんら問題はないはずだ。これが批判の対象となる理由は、支援活動をSNSなどで公にすることへの嫌悪だろう、
要は、支援活動を公にすることを、売名行為やアピールとみなしているわけだ。本当に支援する気持ちがあれば、その事実を公開する要性がないということなのだろうか。
筆者も千葉県議会議員として、県や県議会の支援活動、支援対応の動きをSNSに投稿し、周知に務めている。もちろん、9割方は、政治家としての積極的な情報発信について肯定的な評価をいただいている。しかし、その一方で、一部からは烈火のごとく批判の対象となってしまった。
だからといって、支援情報や活動報告の投稿をやめるようなことはしていないし、止める予定もない。そもそも、筆者が議会で所属しているのは総務防災常任委員会であり、防災は自分の政治の中でも軸足を置いている仕事である。これまで以上に熱意を持って支援活動、情報発信をすることはあっても、その手を緩めることは職務上ありえない。
筆者の情報発信がきっかけとなって、SNSを通じて九州地方の被災者の方々から様々な情報が届くようになり、我々にとっても支援策を考えるのに大変有効なツールにもなっている。実際に九州地方の方々から直接お電話をいただくこともある。それによって状況を把握したり、流してもらいたい情報を頼まれることも多々ある。これもSNSが成せる大きな一つの技だ。
しかし、それでも批判する人は批判する。
もちろん、批判的な意見も政治家には必要だし、筆者には見えていない盲点も多々あるだろう。ただし、今回の件で非常に残念なことは、筆者に対し震災に関連した批判を書く人のプロフィールをのぞくと、その多くが「公に特定政党議員を支持表明している人物」である、ということだ。
それが証拠に、普段の生活をSNSに投稿したらしたで、「被災した人がいるのに不謹慎!」という批判がなされる。女優の長澤まさみさんが笑顔の写真を削除せざるを得なくなったことは記憶に新しい。筆者も普段の仕事内容をアップするとそれはそれで色々と言われる。
何をするにしても芸能人や政治家による情報発信は、揚げ足取りや叩かれる宿命であるのかもしれない。しかし、筆者は震災に関する支援内容や活動あるいは情報を積極的に発信することで、周囲の関心を高め、それにより広範な支援の広がりを作ることができると考えている。
自民党が募金活動をSNSにアップして何が悪い、芸能人が数百万寄付したことをSNSにアップして何が悪い、千葉県議団が災害見舞金を100万円拠出することを発信して何が悪い、ということだ。支援活動をSNSで報告した程度で好感度が上がるほど、政治も芸能も甘くはない。みな、本心から支援活動をしているだけだろう。
芸能人や政治家などによる震災に絡んだ情報発信や投稿をいちいちチェックして、つまらぬ批判をする前に、「自分がいま被災地と被災者のためにできること」をやって欲しいと思う。身近で、手軽で、そして小さなことからでも、できることは山のようにある。
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2011年に政治家になってからこれまで、耳を疑うような経験を幾度となくしてきた。一度も話したこともないような政治家が筆者の適当な悪い噂を信じて、さらにその噂や勝手な主観をネットやクチコミで広める・・・ということは日常茶飯事だ。
どの業界でもよくある話かもしれながいが、政治の世界では特に、そういう話のほとんどは事実とは異なり、ねじ曲がっていることが多い。しかし、いちいちそんなことを気にしていたらこの仕事はできないわけで、「どうぞご自由に」の精神を貫くしかない。その強靭な精神力は政治家には不可欠な能力な一つかもしれない。
先日、初対面の政治関係者から、
「水野さん、○○が水野さんにいじめられていると言っていましたよ。いじめないでください。」
と言われた。これにはさすがに呆れた。そもそもその「○○(政治家)」とは、いじめるどころか、まともに会話もしたことすらない。はっきり言ってしまえば、その政治家とは関係がないばかりか、そもそも意識したことすらなかった。
もちろん、こういう「情報操作」は、政治の中では古くからよく使われる手段だ。筆者に限らずとも、これまで国会議員、都道府県議会議員、首長、市区町村議員の数え切れないほどの噂や風聞を聞いてきた。
筆者も政界に入ったばかりの頃は、そういう噂や情報操作に騙されて驚くことも多かったが、実際に「言われている本人」に会ってみると、まったく噂のような人物ではないことが多かった。
要は私たち政治家のみならず、有権者に求められていることは政治家や関係者(と称する曖昧な人たち)などの話を鵜呑みにせず、「人を見る目を養う」ことが重要である、ということだろう。やはり、その人物がどんな人であるかなど、実際に会ってみないとわからない。
政治家が、他の政治家について言及する時、その内容をストレートに真に受けてはいけないということは、実際に政治家になって学んだことの一つだ。残念な話だが、地元貢献もせずに人の批判や悪口ばかりを発信している政治家も少なくない。ただし、そういう人は結局、信用を失っている。
幼少期を米国で過ごした筆者としては、回りくどい言い方は苦手なので、常に直球で勝負する。そのために、日本の政治家ならではの言い回しや画策には、度肝を抜かれることは多い。
例えば、筆者の場合、政治家としての活動や実績などには触れず、短絡的に「『若い』『女性』を武器にしているのだろう」などという表面的なイメージだけで語られ、その部分だけで批判をしてくる政治家もいる。
もちろん、「若い」「女性」は事実である。体力勝負の政治に若さは不可欠だし、女性政治家として女性ならでは主張や政策は重要なので、それはアピールこそすれ、ことさら隠す必要はない。
しかし、「若い女がそれだけでチャラチャラと政治家をやってる」といったような印象付けをされてしまう姑息なテクニックを多発してくるような人たちの存在は、政治家になったばかりの頃の筆者には驚きだった。そんなことに、市民・国民になんのメリットがあるのか、と。
政治家としての評価や判断は、実際に、政治家としての議会や地元での活動を見ていただければ、もう何も言うことはない。政治家への評価や判断は、活動と実績から皆さんに判断していただくだけなのだ。
それでも、「女性」として見られることは厄介なのことも多い。政治家同士がランチや会食をして政策論議や打ち合わせをすることは少なくないが、女性政治家が特定の男性政治家と同様のことをすると男女関係として噂を立てられることもある。
筆者もそういったあらぬ噂をたてられた経験はあるが、犯人はだいたい筆者を疎ましく思う政治家だ。筆者と親しくしている政治家を筆者から遠ざけよう、敬遠させよう、孤立させようと仕向けるテクニックとして、「男女関係スキャンダル」を作り上げる手口である。筆者を孤立に追い込ませたり、政界から蹴落とそうするには有効な戦術だと考えているのだろう。
こんなことを書くと、「水野さんはいつも千葉県議会でこういう目にあっているのか」と思われてしまうかもしれない。しかし、無所属・単独の筆者としては議会の中では信用できる・なんでも相談できる議員などは、数人いれば十分。そういう仲間は党派を超えて存在する。
そのため筆者は、仮に彼らの良からぬ噂や悪口を言われた時は、党や組織に縛られないというメリットを生かして、全力で彼らを信じて味方をする。「情報操作は私には効きません」という意思表示を常に明確にしている。
政治の世界で信頼関係を築くことは非常に難しい。だだ、どんなに不利な立場に陥ったとしても味方になったり、議会活動を適切に評価してくれる政治家は存在する。そういう政治家たちには、心から感謝しているとともに、筆者自身が持っていた議員それぞれのイメージもずいぶんと変わった。
これまで悪名が高かった議員も実際に接してみるとまったく異なり、前評判と実態にあまりにもギャップがあった。例えば、現在、筆者がなんでも相談している複数の議員はむしろ「イメージが良いさわやかなタイプ」ではなかったりする。
有権者は当然として、政治家同士でも大切なことは、先入観を持たずに白紙の状態で接し、他人の評価ではなく自分の感性を信じるということだ。
特に、政治家同士で風聞を流しあい、蹴落としあってるような余裕は今の日本にはない。もちろん、地方にもない。この現実を声を大にして言いたい。
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政治はまだまだ男社会である。どの自治体の議会を見てみても男性が圧倒的に多い。
地方議会における女性議員のポジションといえば「市民派」だとか「改革派」などと呼ばれるカテゴリーの議員が大半を占める。国政で言えば野党的な立場が多い。そもそも保守系の女性地方議員は圧倒的に少なく、特に無所属ともなれば「希少種」のレベルだ。
ちなみに「地方はリベラルに前に進め、国は中道保守」という主張を持つ筆者は、我孫子市議を皮切りに、現在の千葉県議に至る今日までどこの政党や組織にも属していない完全無所属である。つまり「希少種」の一人だろう。
筆者に限らず、政治家が女性であること、すなわち「女性議員」であること自体は、選挙に有利に働くことは少なくない。特に、若手であれば、「若い女性」ということだけで、他の男性議員よりも注目されたり、メディアに露出するチャンスも比較的多い。
しかし、その一方で、議員として、議会の中や政治の仕事をする上では、「女性である」ということが、アクティブな活動を邪魔していると肌で感じることもある。
例えば、女性には毎月の生理があり、妊娠や出産の可能性もある。これまでも幾度となく訴えてきたことだが、選挙期間や一般質問日に、このような女性特有の生理現象が重なってしまったら絶望的だ。薬を飲み、腹痛や腰痛と闘いながら仕事をこなさなくてはならない。男性にはない特徴的な障壁のひとつだろう。
そして、何よりも大きな障壁は、「周囲からの見え方」だ。
男性の政治家が自撮りした写真をSNSやブログなどで公開しても、よほどでない限り、その写真が批判の的にはなることはない。しかし、女性議員が同様のことをすれば「女を武器にしてる」「中身がないから女性でアピール」などという誹謗中傷を言われる。
こういったことは、よく考えてみればおかしな話だ。筆者が政治家という仕事でなければ言われないことであろう。
そういうことを避けるために、議会では極力落ち着いた色のスーツを着用したり、パンツスーツを履くように心がけている。しかし、果たしてそれが本来のあるべき姿なのか?と自問自答する時がある。スカートのような「女性ならではの服装」をすることに何故気を遣わなければならないのだろうか、と。
政治家に限ったことではないかもしれないが、社会人女性がおしゃれをして笑顔を振りまくと、時として「ぶりっ子」だとか「男に媚びている」などという不名誉な肩書きがつけられる。
特に、女性の政治家が「女性特有の立ち居振る舞い」をすることは、日本の社会では揶揄や冷やかしも含め、悪口を言われる原因となっているのは明白だ。結果、筆者もそういった意図せぬ煩わしさを事前に回避するためにも、無意識的に「男性よりも強い女性」を演じていたような点は否めない。時に、「女侍」とまで言われるようになり、議会ではとにかく女を捨ててしまったというわけだ。
女性は一般的におしゃれをすることが好きだ。筆者は、テレビやマスコミといった業界の出身で、政治家になって以降もメディアに関わる活動は少なくない。そういったこれまでの仕事柄、やはり「おしゃれ」は好きだ。
しかし、上述のように面倒なことを避けるために、あえてつまらないスタイルで議会に向かっている。少しでもファッション性を出すと、すぐに何か勘繰られ、それ自体が面倒だからだ。
もちろん、ここで筆者が言う「おしゃれ」「ファッション性」とは、芸能人のような華美なことを意味しているわけでも、高級なハイブランドを身につけるということでもない。いわゆる一般的な民間企業の女性社員たちと同等レベルの話だ。
女性に生まれてきた以上、生理や出産からは逃れられないことと同様に、職種やTPOをわきまえていれば、政治家であろうと、ある程度は女性であることや「女性らしさ」を楽しんでも良いと思う。
政治という男社会の中で、筆者のような無所属の女性議員が単独で生き抜くためには苦悩は多い。一見、瑣末なようなことに見えるが、チリも積もれば・・・ということで、大きな悩みとなってくる。そういった悩みを抱える女性政治家は少なくないだろう。
政治家として「女性であること」は、戦術のひとつとして見れば、プラスにもマイナスにも働く。もちろんそれをどう使うかは人によって異なり、度が過ぎれば同性からも攻撃を受けることにもなるだろう。そのバランスは非常に難しい。
政治の世界では、身体的にも体力的にも女性は不利な面は多いが、「女性ならではの特性」も受け入れていかなくては、政界だけはいつまでたっても女性が働きたいと思う業界にならないのではないかと感じるようになった。
女性特有のきめ細やかさや優しさ、気遣いは男女が心地よく暮らすために非常に重要だ。また、女性が社会で活躍するための環境面等の課題の解決にも、やはり女性政治家の存在が不可欠だ。
筆者は、政界への女性進出を掲げているにも関わらず、仕事をする上で「女性らしさ」を否定してきた自分自身を見つめ直している時期に来ている。そして、それを男性議員にも理解してもらいたいとも痛感する。媚びているわけでもなんでもないということを。
なぜなら、筆者を含め、女性は女に生まれた以上、女でいることをやめたくてもやめられないのだから。
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「号泣県議」に代表されるように、近年、有権者にとって「政治家のモラル」を考えさせられる出来事が多発している。
そしてまたもや地方議員のモラルや質が問われる事件が起きた。長崎県対馬市の入江有紀市議(72歳・当選1回)が同僚である大部初幸市議(66歳・当選4回)から「セクハラを受けた
」として訴え、それは刑事告訴へ発展する見込みだ。
「セクハラを受けた」とする入江市議のテレビでの生々しい告白と内容に視聴者は様々な反応を示し、インターネット上でも炎上中だ。内容はこうだ。
熊本県菊池市での視察中に、宿泊した部屋に対馬市議たちが集まり2次会が開かれた。対馬市議会で女性は入江市議のみ。したがってその部屋でも女性は入江市議しかいないという状況。
その2次会の場で、入江市議は大部市議に自分の「胸の話」をされ、ブラジャーを首まで持ってこられ(詳細は割愛)、下着に手を入れられたり、馬乗りにされて、浴衣を剥がされた等、50分間にわたりセクハラ行為を受けたというのだ。
一方で大部市議は「飲み会には向こうから誘われた」と主張し、押し倒したのではなく、酔いが回っていてコケただけであり、入江市議が右に座っていたから右肩を抱いただけと取材に答えている。
しかし、今回のこのセクハラ騒動、72歳と66歳による生々しいセクハラ醜聞といこともあり、やたらと議員の年齢や内容ばかりが焦点となり、本来あるべき議論が取り残されていると言わざるを得ない。
筆者は地方議員歴5年となる。市議も県議も経験している中で、もちろんこの間、市議会・県議会で先進市の視察に行っている。個人的に視察に行く場合は政務活動費を使わない(我孫子市議時代は政務活動費が月2万5千円のために使いようがない)が、委員会等の視察はもちろん市民・県民の税金で行く。
政務活動費を使わないにしろ、我々の報酬自体が税金であるため、結局は税金である、という根本的な問題がある。まず、今回の事件には筆者にとって信じられないことが複数あることを指摘せねばならない。
それは2次会の宴会に女性1人で男性市議の一室に赴いたと報道されていることだ。視察は遊びに行っているのではない。1日の視察行程終了後に、夕食がてら1次会で議員や随行職員と時間を共にすることはもちろんあるし(参加しない議員もいる)、1次会終了が早ければ親しい議員や同じ政党や会派の議員同士で他の店に2次会に行くということもあるだろう。
しかし、いくらなんでも2次会に女性議員が浴衣姿で1人、男性議員の部屋に行くだろうか。もし筆者が同じ立場であれば絶対に行かない。先日、筆者は千葉県議会の常任委員会にて北海道に視察に行き、この時は紅一点であった(千葉県議会は95名中女性議員9名)。
それでも、対馬市議会のような宴会とは程遠いもので、夕食会では政策や視察先の話をしたり、最大会派の諸先輩議員も無所属・1期目・女性最年少の紅一点の筆者に気を遣ってくれ、千葉県議会の男性議員は極めて紳士的であると断言できる。
今回の件について、この記事を書くにあたり千葉県議会の男性議員たちに意見を求めたが、「考えられない」というものだった。
そもそもこういった問題が報道されるタネをつくっているのは議員たちであり、視察先の「宴会」の「セクハラ」内容が報道され、刑事告訴にまで至るということ自体が重大な問題なのだ。
もちろん、これらのセクハラ内容が事実であれば、女性議員としては許しがたい行為であり、ネット上で騒がれている年齢は一切問題ではない。
ただし、どちらにしても議員たちを選んでいるのは地元の有権者である。視察というのは、自分たちの住んでいる街を良くするために先進市・県に調査・研究しに行く行為であり、夜を楽しみに行くわけではない。ましてや、次の日も視察行程があれば、翌日に備えて夜は早く寝た方が良い。
そして、残念ながら今回のような「ドンチャン騒ぎ視察」は対馬市議会だけではないことは言っておこう。視察先でバスに乗ると「千葉県議会さんは真面目ですね」と言われるのだ。
税金で議員たちが訪れる視察内容について、有権者も目を光らせる時代が来ただろう。
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「火垂るの墓」で直木賞を受賞した作家・野坂昭如氏が亡くなった。
子どもの頃、アメリカで暮らしていた筆者は、野坂さんと「小さいな出会い」をしている。その出会いは、その後の政治家としての筆者の人生に大きな影響を与えた。野坂さんの逝去の報を聞き、大きな衝撃が筆者の胸に去来する。
野坂昭如氏といえば、直木賞作家としての数々の傑作を発表するだけでなく、テレビタレントとしてもお茶の間を賑わせた有名人。政界へも進出し、参議院議員当選の半年後に田中角栄氏の金権政治を批判し、それに挑む形で新潟3区から立候補するなど、その行動力は目を見張るものがあった。
筆者は小学校と中学校の大半を父の仕事の関係でアメリカで過ごした。アメリカでは、現地校とインターナショナルスクールに通っていた。ロサンゼルスの現地校では美しいブロンドの青い目をした友人たちと連日遊んでいた。
一方で、なんとなく黒人、東洋人に対して人種差別も感じていたことも事実だ。現地のエレメンタリースクール(小学校)を卒業後、筆者はインターナショナルスクールへと転校した。数年後に日本に帰国するには日本の勉強があまりにも遅れていたからだ。転校先の学校は先生も生徒も日本人がメインで学年に女子1人という厳しい環境下で過ごした。そのうちに男子の筆者へのいじめも始まった。憂鬱で仕方がなかった。
アメリカの小学校は5年生までで、6年生は中学生となる。5年生で現地校を卒業した筆者はインターナショナルスクールで小学校6年生という立場で編入した。なかなか馴染めない生活。
そんなある日、野坂昭如さんが筆者のいるインターナショナルスクールに来るという知らせを受けた。
小学生だった当時の筆者は野坂昭如さんの存在をよく知らなかった。そんな野坂さんがアメリカの学校にわざわざ来学した理由は、渡米してアメリカで暮らしている日本人の子供たちに「火垂るの墓」を見せたい、ということであった。
この時、母は野坂さんのアテンド役を務めていた。筆者はアメリカで洋画ばかりを観ていたため、本格的に日本のアニメ等含む邦画を見るのは初めてに近かった。
この「火垂るの墓」を観たことは、筆者の人生にとって大きな転機となった。兄の苦悩、妹せつこの死。戦争の悲惨さと今ある平和を想うと、自分の悩みがちっぽけで子供ながらに涙が止まらなかった。
野坂さんが来学した際、こんなやり取りがあった。野坂さんの様子を取材に来ていた新聞記者が、
「私の父が重篤な病気で、野坂先生のファンなんです。野坂先生からサインをもらえないでしょうか?」
とアテンド役を務めていた筆者の母に話しかけてきた。母がそれを野坂さんに伝えると、
「その方のお父さんのお名前を聞いてきてください」
と言った。母は新聞記者から名前を聞いて伝えると、野坂さんはサインにその名前をしっかりと書いて更にはメッセージを書き始めた。
この光景を見て、野坂さんがアメリカに来てまでアメリカに住む日本人の子どもに「火垂るの墓」を観せたかったという人間性がわかった気がした。筆者と母に向けたはにかんだ笑顔が今でも忘れられない。そして上映後は、幼いながらに「しっかりと生きよう」と思った。
インターナショナルスクールに転校してこなければ「火垂るの墓」とアメリカで出会うこともなかった。しかし、この野坂さんとの小さな出会いにより、筆者自身が、差別を黙認して「日本人」であることを深く考えてはいなかったことに気づかされた。
映画を通して唯一の被爆国である日本人として強く生きていくことについて考える大きなきっかけともなった。そして争いをなくすために、まずは身近なところから思いやりを持つことの大切さを伝えていきたいと思うようになった。その一歩が筆者の人生を大きく変えた。
やがて筆者は、自分が経験したことや想いを文章に書き始めた。人種差別、性差、いじめ・・・と、子どもながらに味わった辛い経験。もちろん、家族や友人、いのちの大切さも書いた。
その文章は幸いにも、17万人の中から郵政大臣賞を受賞する作文として結実した。帰国してからの学生時代も文章書きに明け暮れ、アメリカでの経験が現在の筆者を創り上げている。
筆者の人生の最大の転機となった映画「火垂るの墓」を観た12歳からちょうど20年が経過した。筆者は政治家(千葉県議)となり、戦争を二度と繰り返さない政治を訴えている。
野坂さんが「火垂るの墓」を通じて筆者たちに伝えたかった想いを受け継いでいきたい。
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千葉県議会議員選挙の投開票日の2015年4月12日。我孫子市選出の定数2を現職の自民党県議(男性・現職)、民主党公認候補(新・男性・元市議)そして無所属の筆者・水野ゆうき(新・女性・元市議)が闘った。
結果は自民党現職と無所属新人の筆者が当選。民主党候補は議席をとることができなかった。民主党の公認候補は我孫子市議会では「あびこ未来」という会派に属しており、「あびこ未来」が一丸となって民主党候補を応援したことは我孫子市民周知の事実である。
そして選挙が終了した5日後のことだ。中央学院大学教授の福嶋浩彦氏(元我孫子市長・菅直人政権の消費者庁長官)から連絡があった。
内容は8000枚の公選ハガキにミスが1枚あったということで、筆者は中央学院大学に呼ばれた。その「公選ハガキの1枚のミス」というのは、福嶋氏の亡くなった奥様の名前が推薦人欄に書かれたハガキが1枚あった、というものであった。
筆者はハガキを作成したスタッフに確認したが、
「水野さんから福嶋さんには推薦すらも頼んでいないので特に注意をするように言われていたから絶対にミスは考えられない」
とのことだった。
そもそも前提として、福嶋氏の奥様は筆者の後援会員であり(奥様直筆の正式の後援会入会手続きを裁判所に提出済)、一緒に車に乗って市民を紹介してくれたり、我が家に来ておしゃべりをしていた仲だった。
慎重を期すためも、著者(水野ゆうき)は、父(選挙責任者)、母(ハガキ管理者)、豊島我孫子市議(市議時代一緒に会派を組んでいた先輩)他1名を伴って、福嶋氏に確認するため、中央学院大学へ赴いた。
その際に、スタッフからの確認を受けて、「こちらではミスはあり得ないので、ハガキを見せて欲しい」と依頼したものの、なぜか福嶋氏はその証拠ともなる「現物のミスハガキ」を見せてくれなかった。
更には、福嶋氏から「ハガキを送った相手を自分で探せ」とまで言われてしまった。その場で筆者も両親も福嶋氏に相当になじられたことは言うまでもない。加えて、福嶋氏の友人まで登場し、大声をあげて怒鳴られる状態にまでなった。
こちらが調査した結果、奥様からいただいた名簿(2人分)から1人、「ハガキを受け取った」という市民がいたため、ひとまずその件について「申し訳ない」と電話で話をした。その市民の方も、「この電話で良い」とのことだった。
それを福嶋氏に伝えると「了承した」ということと、「これからの活動に期待する」旨のメールがあり、「ハガキ問題」は解決したかに見えた。
ところが、翌日、「受取人は文書で謝罪と経緯が欲しいと言っている」と福嶋氏から連絡が来たのだ。そんなことは、受取人とされる市民の方は一切言っていなかったため、受取人に再度筆者から直接電話をすると今度は翻って文書が欲しいというのだ。
不可解な経緯に豊島市議に相談したが、文書を出さないと解決にならず、既に家族も後援会もこの1枚の可能性で疲弊しきっていたため、公選ハガキの手順と謝罪を書いた文書を直接受取人に持っていかざるを得なかった。
ただし、その際に「間違えたというハガキ」を見せてもらおうとした。しかし、その証拠となる「ミスハガキ」は、事前に福嶋氏が取りにきたため持っていないというのだ。とはいうものの、受取人は筆者に激励の手紙まで送ってきたので、その後はハガキの話は一切出ることはなかった。
もちろん、この件から4か月以上経った今も現物のハガキは見ていない。
しかし、その後、事態は急変する。突然、6月の我孫子市議会・総務企画常任委員会にて民主党候補を応援した社民党の早川真市議が、簡単に言えば、
「水野は福嶋氏に推薦を依頼して断られた挙句に腹いせかのように、亡くなった奥様の名前を勝手に公選ハガキの推薦人欄に書いた」
といったような内容を発言してきたのだ。しかも早川氏は、こんな問題のある発言にもかかわらず、この話を「又聞き」であると市議会で発言した。
早川氏がハガキの現物も確認もせずに市議会で発言したことは、先日の裁判で明らかになった。
などといういい加減なことを議会で言われたら、言われた方はたまったもんじゃない。それと同様だ。もちろん、8000枚の1枚とも言っていない。さらに、開示請求をしても提出されない今となっては現存するかもわからない。
しかも、筆者は「そもそも福嶋氏に推薦依頼すらしていない」ので断られるはずもない。話の内容は「又聞き」どころか、「事実ですらない」のだ。
ねつ造話を県議選で負けた陣営の議員から市議会という公の場で繰り広げられた筆者としては、政治家生命にも関わる重大な問題だ。我孫子市議会事務局と手続き相談をし、発言撤回等の申し入れを政治家として公式に行った。
なぜかと言えば、県議会議員である筆者は市議会で反論の場はない。申入書に事実と異なるということを詳細に書き、政治的解決を求めたのだ。
しかし、早川氏はこれに対して拒絶。更には週刊誌にまで、早川氏と福嶋氏の発言に偏った虚偽及び名誉棄損ともとれる社会的評価を貶める内容が掲載されるに至った。非常に悲しい話だが、この段階で、もう筆者には法的措置を講じざるを得なくなってしまった。
ちなみに、この話題が掲載された週刊誌「週刊ポスト」の記者が、発売前に「あびこ未来」と接触していることは我孫子市関係者の多くが目撃している。
更にその間、福嶋氏からは、
などというメールが相次ぎ、更には筆者を「異常」呼ばわりするメールを深夜にまで送ってくるようになった。もちろん、迷惑この上なく、仕事はもとより私生活にも支障が出始めていた。
これはストーカー行為による千葉県迷惑防止条例に違反する可能性があると指摘し、警告を出した。しかし、筆者に直接連絡が取れなくなった福嶋氏は、今度は「公開質問状」とは名ばかりの「質問などほぼない一方的な主張だけを記載した文書」を県議会の住所に送り付けはじめたのだ。
更にはその文書を、今回の一件とは一切関係のない千葉県議会議長、後援会長、自治会長、筆者が政治家になる前に働いていた会社の上司、全国の地方議員が登録している複数のメーリングリスト、学生等にまでその文書を送付・送信・投稿しはじめたのだ。
しかもメールやメーリングリストは深夜に送られ、意味もわからない一般の方々から、恐怖であるとの連絡が届いた。もちろん、筆者はその連絡や苦情の対応にも追われ、家族全員が心身ともに焦燥しきった状態にまで追い詰められた。
もちろんその名ばかり「公開質問状」に書かれていることは多くの虚偽と名誉棄損が含まれており、更には一般人にまで迷惑をかけて拡散行為を始めたことから、改めて抗議をし、ハガキの開示請求等含め、福嶋氏には法的措置を講じるに至った。
「あびこ未来」と福嶋浩彦氏が親しいことは、いみじくも「あびこ未来」所属の議員が自分たちで明言していることから、今回の迷惑行為や悪質な名誉棄損行為が、この度の県議選に絡んだ「報復」ないし「嫌がらせ」であるという意見が筆者の周囲からも多く出始めた。
出発点は筆者も早川氏も見ていない「ミスと称するハガキ1枚」である。受取人が「受け取った」といったので、筆者たちはそれを素直に信じて、社会人・大人として、常識人として「ミスがあったら申し訳なかった」と謝罪したが、実はそれが1枚のハガキから市議会、週刊誌へと炎上させ、ひいては「議員辞職」へ追い込むために動きだったと考えると恐ろしい。
選挙から4か月以上も経てば、ミスハガキのねつ造も可能であるという指摘も多く出てきている。ただし、ねつ造物であれ、本当のミスハガキであれ、仮に「ハガキ1枚」が出てきたところで、そのハガキ自体は元々「公」にされるものではなく、単なる1枚のミスで公選法違反にはならないことは明白である。市の選管・県の選管に確認もしてある。
市議会での発言を受けた市の選管は県の選管に電話をしたところ、県の選管は「選管に調査権限はない。その議員は現物もって警察にでも行けば」という主旨を答えた。そんなに違反だ、違反だと騒いで、その1枚で当選無効だと言うのであれば、現物を持って警察に行けば良い。選挙を経験した人間であれば、彼らの行為がいかなるものであるかということがよくわかるだろう。
更には同僚都道府県議・基礎自治体議員もそれぞれの弁護士や選挙管理委員会に確認してくれたが、一切公選法違反には当たらないという。むしろ、良い大人男性5人が、組織ぐるみで一人の無所属女性県議を追い詰めるために、長丁場の工作活動を、「ハガキ1枚」をネタにここまでやるか、と失笑さえしている専門家も多い。
市議会議員は市民の為に働く職だ。そして筆者、県議会議員・水野ゆうきは県民の為に働いている。彼らが何をしてこようとも仕事を粛々とこなすことに全力を投球し、地方政治を前に進めることが県民への恩返しであると考える。
地方政治にはおよそ関係のない政治戦略や工作を持ち込むようなまねは、もういい加減にしてもらいたいと痛切に感じる日々だ。4月12日に選挙結果は出ているのだ。そんな中でも、福嶋氏を始め、日々、工作活動の成果が筆者に届けられる。ご苦労様です、とむしろ感心してしまう。
しかしながら、申し訳ないが、それを相手にしているような暇は筆者にはない。政策の立案や県内問題の解決、県民・市民との意見交換はもとより、地域の活動、市民への支援などで手一杯だ。
公開質問状の内容が「事実に反し、水野ゆうきへの名誉毀損である」ということで、「これを広めてはならない」という仮処分が裁判所で審理されている最中である。
にもかかわらず、その名前だけの「公開質問状」を、事実関係の確認もしていない別の議員が他人の書いたものを転載して広めるというのは、法的にも政治的にも倫理上も間違っており、政治家としてだけでなく、社会人としてもあまりに無責任だ。
筆者はこれに対しては、もちろん断固抗議するとことはいうまでもない。しかし、この福嶋氏とその周囲にいる人たちが共同して行う「水野ゆうき潰し」に、筆者は屈しないつもりだ。
これが、心細い中で戦っている無所属議員や女性議員などへの応援になればと思っている。
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昨年の兵庫県の号泣県議に端を発し、一般市民にはいまいちよくわからない「政務活動費」が大きな注目を浴びるようになりました。今回は、大阪市議が高級車レクサスの購入費という不適切な支出をしたことが問題となっています。
そもそもなんでこんなに政務活動費の問題が起きてしまうのか。「ここが変だよ、政務活動費!」ということで、現役の県議としてわかりやすく解説もかねて、筆者の意見を書きたいと思います。
そもそも政務活動費というのは議会の中で、議員たちが自ら金額や使途を決めています。このあり方に関しては、これまでも筆者はテレビなどで、折にふれて変えるべきと主張してきました。同じ「政治家」という仕事をするにあたり、議会ごとに全くもって金額や使途が異なっているということ自体、どう考えてもヘンです。
そして、今回問題となったのは大阪市議の「車」です。
実は車のリース代を政務活動費として充てることができる議会は意外と存在しています。千葉県議会もその一つです。
しかし、あくまで政務活動をするにあたっての「リース代」であり、今回のような購入はNG。今回報道されているのは、購入費用の一部計80万8450円を政務活動費で支払い、それが不適切な支出だったとして全額を返還していたということです。
政務活動費を議会事務局に提出する際に求められる内容もこれまた議会によって異なります。領収書が不要な議会もあれば、逆に議会事務局の職員によって領収書含め相当細かいチェックが入り、全て公開する議会もあります。やっぱりヘンですね。
ちなみに千葉県議会は全国的にも厳しい方と言えます。筆者は県議1年目なので、まだ提出時期が来ていないのですが、先輩県議に聞くと、普通に職員チェックがしっかりと入るとのこと。
例えば按分比率もしっかりと面積等で計算をして計上し、絶対的に説明責任が果たせるようにしておくことが重要となります。
実は千葉県議会は、新人議員に対して政務活動費だけに関する研修を2回も実施しています。県議会となると実務者説明会となり、秘書や事務員の参加が多かったですが、筆者は自ら出席して数時間にわたる研修をしっかりと受けきました。もちろん筆者以外にも、多くの新人千葉県議も出席していました。
政務活動費は「議員個人」に支払われるものと「会派」に支払われるものがあります。その為、領収書等の宛名も異なってきます。ちなみに千葉県議会では口座も異なります。
よって議員個人に充てられた政務活動費を高級車レクサスの購入に充てたのであれば、これはご本人の責任となります。
ちなみに、筆者は無所属の一人会派であるため、何か問題が発生すれば、全ての責任を自分で負うことになります。しかし、政党に属している議員であれば(今回の場合ですと大阪維新の会)が、やはり提出前に会派の中でしっかりとチェックすることも重要になります。
政務活動費自体、複雑でややこしいため、筆者はもっと異なる手法を取るべきだと思っています。議会によって異なるとは思いますが、基本的な部分は共通しています。そこで、筆者としては政務活動費は次のようにすべきと考え、提案いたします。
しかし、ひとつだけ言いたいことは、政務活動費は必ずしも余計なもの、不明瞭な予算などではない、ということです。政務活動費というものは、民間企業で言えば「経費」です。仕事をすれば経費が出るのは当たり前です。議員は個人商店のようなものですから、事務用品、電話、書籍、交通費・・・等々。様々な経費がかさみますので、必要不可欠な予算ではあることは間違いありません。
逆に、政務活動費を使ってない議員が偉いということにもなりません。むしろ、政務活動費を利用していない・・・という議員がいれば「本当に仕事しているのかな?」と疑問に思ってしまいます。
重要なことは、認められている使途・金額内で政務活動をするにあたって出費したお金を適正に処理すれば良い、というだけのことなのです。そんな常識的なことができていない場合に、号泣市議や今回のレクサス市議のような大きな問題へと発展してしまうわけです。
筆者は千葉県議選に出馬する意向を2月に決めたので、当時、市議として定期的に毎月計上していた新聞代等の2月分は計上しませんでした。本来はもちろん計上して良いのですが、やはり、市議を辞め、県議に出馬することを決意をした以上、道義的にも市議としての経費を要求することは筆者にはできませんでした。
今回の場合もうひとつ議論となっているのが「高級車」という点です。筆者の車はリーズナブルで小回り派なので(体も小さいですし)、大きな高級車を乗るという発想はありません。しかし、確かに高級車に乗る議員さんは多いことは事実。
もちろん、それがご自分のお金、私費であればなんら問題はありません。千葉県議会だとプリウスですら気が引ける、と話をしているくらいです。
しかし、何よりも政治家とは「一番最初に何故政治家になったのか?」ということを忘れてはならないと思います。政務活動を行うにあたり、またリース代として政務活動費から捻出するとしても、その政務活動で乗る車は本当に「レクサス」である必要があったのか、ということです。
蛇足になりますが、今回のレクサス市議の一件で、もう一つ付け加えるとすれば、当該の市議が報道の際に必ず「元モデル」市議とつけられる、という点です。これには、違和感を感じます。「維新の大阪市議」で十分だと思いませんか?
先月、週刊誌の被害にあった筆者も、「美人すぎる市議」的な付け方がなされましたが、こういったことは女性の政界進出の為には、メリットどころか、逆差別であると痛感しています。
結局こういった肩書きから、論点のすり替えに今後なっていかないようにしなくてはなりません。
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統一地方選が終わった。どこの地域も低投票率に悩まされ、新人や無所属には厳しい選挙が行われたのが今回の選挙である。
筆者もまさに今回の統一地方選に挑戦した張本人である。筆者は、千葉県我孫子市議を辞任し、前半戦の千葉県議会議員選挙に出馬した。周囲から「厳しい」との声が相次いだのはどこの政党からも公認・推薦・支持を一切もらわなかったためだ。
しかし、地方議会は外交や安全保障などを議論する場ではない。学校(教育方針)や行政改革、道路や公園、待機児童問題など、市民の生活に密着した議論を行う政治であり、街づくりを前進させるにあたり政党色は不要という考えから筆者は政党に属していない。
市民と直接接し、その声をかみ砕き、判断して議会に届け、街づくりを市民とともに行うという役割は地方政治家にとって非常に重要である。
この「直接接し」という部分に注目したい。直接会って意見をぶつけてくれるのはほぼ団塊の世代以上である。一方で、これからの日本を担うのは若者世代。しかし、彼らはまず政治に無関心。彼らにコミットするにはどうすれば良いのか。
筆者の統一地方選終了後、千葉県議会の今回最年少女性議員ということ、そして「無所属」ということから取材が多く入った。都道府県議会となると「無所属」は極めて珍しいからであるがそれだけではない。
選挙期間中によく来た取材がやはり選挙・政治における「ネット」の活用法だ。筆者は無所属をネットでカバーしたのだ。
2011年千葉県我孫子市議会議員に当選以降、ブログ、ホームページ、ツイッター、Facebookは欠かさず活用してきた。公式ホームページ以外は若い世代が関心を持ちやすい内容を投稿し、難しい言葉は極力避け、政治への間口を広くするのが目的だ。
この4年間で新たに挑戦(出演)したのが動画配信サービスの「ニコニコ動画」だ。流れてくるコメントにも対応しながらネットユーザーと相互にやり取りができる。
2015年4月25日。ニコニコ超会議2015が幕張メッセで開催された。要はニコニコ生放送を地上に再現するイベントである。筆者は若手地方政治家代表として『超言論エリア』にて「言論アリーナ」に出演した。つまり、PC・スマホ越しに見ている人を生で見る、という仕組み。
通常時、不特定多数のユーザー同士が会うということはほぼない(市民が本当に困っていることがあり、SNSのメッセージで連絡してくる場合は別)。これは「イベント化」しているからこそ若者が幕張メッセにまで足を運ぶ。前回の『超会議3』では2日間でのべ12万4966人が来場しているのだ。
現在、若者の間でネットは生活の一部になっている。直接的手段よりもネットを活用することが当たり前になってしまっていることを我々も理解する必要がある。政治に無関心な若い世代を憂い、無理やり自分たちの価値観に当てはめるのではなく、このイベントにヒントが隠されていることを政治家も学ぶべきではなかろうか。
年に一度でもこのように若者やネットユーザー(もしくはサイレントマジョリティ)が自分の地域に対して大きく声をあげられる機会を各自治体はイベント化して作り、地方政治の実態や仕組み、その自治体が抱える課題を解説しながら、意見やアイディアを吸い上げるような発想の転換が求められているのではないか。
色に染まった地方政治家の声ではなく、政党や思想などのしがらみの無い若者世代の純粋な声を地方や街づくりに反映させるツールは既に揃っているのだ。
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千葉県我孫子市の選挙に批判が相次いでいる。2015年1月11日告示、1月18日投開票の我孫子市長選挙と我孫子市議会議員補欠選挙だ。
現職の市長は3選目を目指すことを昨年の市議会における一般質問で早々に答弁した。我孫子市は前回の市長選で現職の中堅議員が対抗馬として出馬しており、両者とも2万票台だったことからも、誰しもが「また今回も挑戦するのでは?」と予想していたが、結局、出馬表明はしなかっため無投票と噂されていた。
しかし、突如として以前「みんなの党(解党前)」で県議選に立候補をした60代女性が出馬を表明し、選挙が行われることとなったのだ。しかしながら、その対抗馬の活動も、具体的政策も目に見えず、あらゆる場面で物議を醸している(注:ちなみに選挙ポスターでは漫画であろうと数十年前の写真であろうと違反ではない)。
県議選に出ておきながら全く職責の異なる市長選に立候補をすることも有権者の理解を超えている、という声は多数ある。有権者も千万単位の血税を使って行われることになった選挙がこれでは怒るのももっともだ。
そして今回、無投票となった市議会補欠選挙にいたっては更に問題視されている。元々1名の欠員でその1議席をめぐって争われると予想されていた市議会議員補欠選挙であるが、選挙間近に突如現職市議が辞職した。つまり、2名の欠員となったのだ。しかしながらそんな短時間では政党も、会派も、市民も、立候補者を擁立することができなかった。
結果、2名の欠員で2名しか立候補せずに無投票で自動的に彼らが市議となることになった。1名は昨年から活動をして出馬表明をしていたが、もう1議席については告示日に様子見していた複数のうち一人が滑り込んだ形だ。今回無投票で市議会に入ってくる2名は市議本選にも出馬経験があり、最初に手を挙げた一人は自民党公認の男性で市議選本選では次点だった。
そしてもう1人は「みんなの党(解党前)」で出馬した74歳の男性だ。その方はUFOと交信していることを堂々と自分のブログで発言しているという人物。
市長選に紐づいて行われる市長選で、本当に補欠選挙をする必要性があるのかと疑問視、問題視している有権者は多い。しかも、市議会議員選挙本選が今年の11月に行われる。このことから、今回の2名の任期は10か月間だけであることや、本選で落選しても補欠選挙で無投票で市議になれることに違和感を覚えている有権者は少なくない。
筆者個人としては、今回、ここまで競争が働かなかったことについては、「候補者がいないほど市議の仕事に関心や興味をもたれていない」ということが大きな問題であり、地方政治の課題が今回の選挙を通して浮き彫りになったと感じている。筆者が出馬した2011年の市議選は熾烈を極め24の議席を32名で争う激戦だったが、随分と様子が変わった。
今回の我孫子市における選挙の問題点は市長選においては対立軸の不透明さから比較ができないこと、そして市議補欠選では候補者の少なさから投票すらもできず、無投票で届け出をした人が「そのまま市議となる」ということだ。すなわち、選挙というものに対し停滞した空気が流れ、盛り上がりに欠けたことである。
有権者は選ぶ権利として投票権がある。選ぶことすらもできない地方選挙について政治家も市民も行政も全ての人が全ての立場で責任を感じ、改めて自分の血税の行方について考えなくてはならない。
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